第12話 猿の社(ハ)
屋敷の裏手の小川に沿って進むと、松明を持って石段を上っていくひとの列が見えた。あの長い石段の先に月日神社があるらしい。視線を交換したリサと俺は小川を渡って山中を行く。道なき道を進み、神社の側面か裏手あたりに出て、連れ去られたらしい天乃河たちを発見できればいい。発見したところでそのあとの対応を考える。
照明は集落の住民に発見される可能性が高いので使えない。低い山だと侮っていたが、近くで見るとかなり急斜面だった。俺が高い木の下に草が生い茂った漆黒の斜面を見上げて途方に暮れていると、リサがざっと闇へ分け入った。リサはそこらへんの匂いをふんふん嗅ぎながら、ざっざっと斜面を登っていく。まったく躊躇がない。
「おい、リサ、本当に大丈夫なのか。何も見えないほど真っ暗だが――」
言葉の途中で諦めた俺はリサを追った。よくよく闇に目を凝らすと進む先の草むらは左右に分かれている。これは獣道だ。五感をフル稼働させたリサが、これを目も眩むような闇のなかから発見した。リサは身を低くしたままするすると音も立てずに獣道を進む。夜行性の肉食動物も真っ青の動きだ。俺のほうはそのリサの背を必死で追った。この真っ暗な林のなかで我が大天使様の背を見失ったら終わりだ。
普段はだらだら怠けて運動エネルギーを温存しているのだろうか。リサの息が切れる気配はない。俺はずっと息が上がりっぱなしだ。何度もぬかるみに足を取られてすっ転んだ。そのたび斜面のぬかるみを引っ掻いた。リサは一度も転ばなかった。闇に目が慣れてくると荒くなった自分の吐息がやけに白く見えた。俺の目に色めき立っていた夜が元の落ち着きを取り戻している。きのこの毒が汗と一緒に外へ流れ出たのだろう。
山頂付近――月日神社へ近づいたとき、俺の意識は普段同様まで回復していた。
月日神社の脇に百目鬼老人から聞いた通りの書庫があった。コンクリで作った四角い倉庫のような二階立ての建物だ。上にアンテナが設置されている。宮大工の仕事であろう立派な屋根が乗った月日神社の脇に置くには無粋な形の建物だ。一階の部屋にある四角い窓から僅かな光が漏れていた。明かりがついているのはその一部屋だけのようだ。そこに誰かいるのかも知れない。建物の裏手のあたりから発電機の低い音がする。どうもこの建物は電気を使っているようだ。窓に見える人影はない。なかに人間がいるとしても、その人数は多くない筈だ。実際、何人もの人数を収容できるほど書庫は大きくもない――。
「――あれが百目鬼の言っていた書庫だな」
俺は付近の草むらに隠れている。
手入れがおろそかな山は下草の背丈が高い。
横で屈んだリサが小さく頷いて見せた。
「天乃河たちがあの書庫に連れ込まれた可能性はある、のかな――」
俺は首を捻った。書庫の玄関口に暗い色のポンチョを着たロシア兵がひとりいた。監禁された人間を見張っているのだろうか。あるいは、書庫そのものを警備しているのか。何にしろあのロシア兵士をどうにかしないと行動することができない。ロシア兵は首を振ってしきりに周辺の様子を窺っている。
侵入者を警戒しているのか。
俺はグロック短機関銃モドキを構えた。
リサもクリス・ベクターの銃口を向けている。
しかし、持っていたアサルトライフル――AN-94を背へ回したロシア兵士は懐に手を突っ込んで、そこから瓶を取り出した。ロシア兵はその瓶から何か飲んでいる。
「リサ、あいつは持ち場を離れて酒を飲んでいるのか?」
俺は訊いた。
「――!」
リサが鼻先をくんくんやりながら頷いた。
「なるほど。サボタージュ中かよ。任務放棄している兵士が消えても、しばらくの間なら何の問題もなさそうだぜ?」
俺は書庫の側面から回り込んだ。
ゆっくりとだ――。
音を立てずに――。
しかし、誰が見ても急いでいるふうには見えないように――。
「――
俺はでたらめなロシア語を使ってロシア兵へ声をかけた。俺がポンコツ大学生時代に覚えたものだ。必修になっていた第二外国語は中国語、ドイツ語、フランス語、それにロシア語から選べた。ロシア語をやっていた講師は透き通るような金髪の、ロシア人の若い女だった。ロシアの彼女は本当にものすごい美人で、その上、ものすごいおっぱいでもあった。いつも着ている赤いレディス・スーツのボタンが弾け飛びそうな勢いのだ。そこで、俺はロシア語を迷わずに選択した。当時、ロシア語の講義は絶大な人気があった。詐欺みたいなあのクソ私大に親の金をムシりとられていた頭のクソ悪い男子学生の間だけでの話だが――。
木と木の間にある闇をぼんやりと眺めていたロシア兵士が、
「クトゥ(誰だ)?」
と、中途半端な髭にまみれた顔を俺に向けた。
酒に酔ったそいつは鼻先も目元も赤い。
パスパスパス――。
背から引き抜いたグロッグを使った。俺はロシア野郎の赤らんだ顔へ九ミリパラベラム弾を三発、撃ち込んだ。ロシア兵士は仰向けにぶっ倒れた。悲鳴は上がらなかった。俺は右の手の平を相手へ見せていた。だが、左手は身体の後ろに回してあった。訓練をした俺の手は右も左も同じ悪事を働けるようにできている。両親が息子に与えた数少ない才能のうちのひとつだ。
足元へ転がってきた酒瓶を拾い上げて、
「――ああ、やっぱり、ウォッカだ。ロシアの男はどいつもこいつもみんなアル中なのか?」
俺は笑いながらロシア兵士の死体へ訊いた。馬鹿の死体は本当に笑えるものだ。むろん、冷たくなった彼からの返答はなかった。玄関のドアへ手をかけると鍵はかかっていない。俺はグロッグの銃口を差し入れて屋内を窺った。ひとの気配はない。兵士が酒を隠れて飲むのに選んだ場所だ。だから当然、この書庫周辺にはロシア人と同じ職業の人間――兵士はひとりもいないだろう。
ここまでは俺の予想通りだ。
草むらで控えていたリサへ、俺は手を使って合図を送った。身を低くしたままのリサがするする寄ってきた。書庫のなかへ侵入する。玄関周辺の安全を確認したあと、俺は表にあるロシア兵士の死体を建物のなかへ引っ張り込んで隠した。
書庫にあるすべての部屋を見て回ったが天乃河たちはいなかった。どの部屋も分厚い学術書だらけだった。古文書のようなものは木箱に入っていた。廊下も分厚い本で埋め尽くされている。歩ける面積が極端に少ない屋内だ。見ると台所にまで本が積みあがっていた。
本が見当たらないのは風呂場だけだった――。
「――ここが百目鬼の書斎になるのか?」
リサと俺は照明のついていた部屋へ入った。一番最初に確認した部屋だった。二階を確認したあと、特別見るものもなかったのでここへ戻ってきたのだ。ここも本が詰まった本棚と床に積まれた本だらけだ。汚染前なら電子機器へ大量の情報を収納できたが、今の日本ではその電子機器を動かす電気が不足している。自然と紙媒体は復権を果たした。
それにしたって百目鬼老人の書物収集癖は異常に見えるが――。
俺は大きなデスクに歩み寄って、
「無線機があるな」
デスクには書物に埋もれるような形で黒い無線機が置いてあった。電源が入っている。これを使う目的で書庫へ電源を引いてあるのだろう。無線機の近くに紙切れが大量に散らばっていた。数字とロシア語と日本語と英語とフランス語と中国語がごちゃごちゃと表記されたものだ。俺にはその紙切れに書かれた文字の意味がまったくわからない。
だが、わかる奴にはおそらくそれがわかる――。
「――暗号か」
俺は呟いた。黒い立派な椅子の背のほうに四角い窓があった。その窓は暗い赤色の分厚いカーテンがかかっていた。建物の外からなかにいるリサと俺が見えることはおそらくないだろう。ふんふんしながら部屋を警戒していたリサが近づいてきて、卓上にあった黒い手帳を手にとった。
「何だ、それ――?」
俺は訊いた。
手にした手帳をめくりながら、
「?」
リサが首を傾げた。俺もそれを覗き込んだ。黒い手帳は百目鬼直永の日記のようだ。内容は字が小さくかなりの達筆で読み辛い。まあ今はこれを読む必要もないだろう。俺はサボタージュ中のロシア兵士を一人消した。消えた兵士に気づくとロシアの部隊は警戒を強める筈だ。リサと俺の持ち時間が多いとは思えない――。
「――書庫にあるのは、やっぱり本と本棚だけだ。天乃河たちはここにいない。境内のほうにいるのか?」
俺は手帳から顔を上げた。すると、部屋の側面をズラリと埋めた本の背表紙が俺の目に飛び込んでくる。
「ええと、
『資本論』。
『マルキズム概論』。
『ウラ! ボリシェヴィキ』
『真の英雄は革命に殉ずる ~同志ウラジミール・レーニン、その生涯~』
『提言・科学的社会主義の再構築』。
『プロレタリアートの対立構造』。
『第五インターナショナル研究』。
『コミンテルンの功罪』。
『真説・毛沢東』。
『完全版・毛語録』。
『共産思想の宗教的帰結』。
『赤旗の歴史を読み解く』。
『資本主義世界の臨海点』。
『自由資本主義市場の根源的な欺瞞』。
『ヨシフ・スターリンはかく語れり』。
『歴史が証明する衆愚弾圧の正当性』。
『今こそ来るべきは第二の文化大革命』。
『ポル・ポト ~原始共産主義の再評価~』。
『ビジネスという名の免罪符を焼き捨てよ』。
『ブルジョワジーを五分で抹殺する108の方法 ~今すぐできる総括編~』。
あとは、ええと、『蟹工船』ときたか。この辛気臭い小説も
俺はそこにあった本の表題を読み上げて、
「どこが人類学者だとか民俗学者なんだよ。たぶん、百目鬼直永ってジジイは大学教授時代から筋金入りの共産主義者だ。この様子だと、公安からマークされていたようなヤバイ集団の教祖レベルだろうな。実際、共産思想にどっぷりハマっちまうお勉強好きはかなり多いからな――」
本棚はそのひとの人格を語るらしい。どうも、百目鬼直永は共産圏の国と関係の深い人物に見えた。
月日集落で何を考えて、何をやっていたのか――。
「!?」
カーテンの隙間から外の様子を伺っていたリサが手招きした。
俺はリサの頭の上に顎を乗せて、
「うん、この窓から境内がだいたい見える。境内に集まっている人数が多いな。集落のみなさんは、八時じゃないのに全員集合か――ああ、ようやく見つけたぜ」
境内の集団のなかに天乃河たちがいた。
「!?」
リサが瞳だけを動かして頭の上の俺を見上げた。
「どうも、あの様子だと境内の全員が薬で――毒きのこでへべれけなのか?」
俺は呟いた。人数が一ヵ所に集まると知り合いだの友人だのの間で多少の会話が発生するものだろう。しかし、境内にいる住民の間に会話はない。全員の視線が前へ向いている。社のある方角へだ。境内ではかがり火が焚かれてるし、住民も松明を持っているものが多いから視界に不自由はしない。しかし、近くの木が邪魔になって書斎の窓から社は確認できなかった。
「――?」
俺の顎の下でリサがもぞもぞ身動きをした。
リサも何かの違和感を感じているらしい。
「境内に散開しているロシア人の兵隊さんは何を警戒しているんだ?」
俺は顔をしかめた。またひとつ不可解な点を発見だ。境内に集まった集落の住民の二百名近くを囲むようにしてアサルト・ライフルを持ったロシア人の兵士が立っているのだが、その彼らは自分たちが囲んでいる集団に警戒を払っていない。
「――?」
俺の顎の下にある頭がくりんと動いた。
リサが顔を傾けたらしい。
「リサ、そうだ。様子がおかしいぜ。ロシアの兵隊さんは境内の周辺ではなくて、お社のほうばかりを気にしているみたいだ。どういうことだろうな、これは――」
俺が呟いた直後、
「!」
リサの肘が俺の腹へ突き刺さった。
「げっふ――」
俺は呻いた。
驚いたリサの気持ちはわかる。
だが俺に肘鉄をくれることはないだろう――。
百目鬼直永が社のほうから姿を見せた。
地鎮祭だとかで見る真っ白な神主スタイルだ。
「ああ、百目鬼も出てきたな。真夜中の神社で何を始めるつもりだ?」
俺は訊いたが、
「?」
リサに訊いてもわかるわけがない。
身体を捻って俺を見上げたリサがすっと瞳を細めた。
お前が考えろよ。
そういうことらしい。
ああ、そうですか――。
「まあ、この様子を見ると、百目鬼直永は今から儀式めいたことをやるつもりなんだろうな。たぶんだけど――」
俺は言った。
「!」
「!」
「!」
リサが「ワッショイ、ワッショイ」のジェスチャーをした。
お祭りでやる「練り」みたいな感じの動作だ。
見ていると、かなりアバウトな感じだった。
盆踊りっぽい動きも混じっている。
そうしているリサはちょっと楽しそうだった。
「――ああ、いや、リサ。境内に集まった奴らがやるのは楽しいお祭りじゃないだろ。もっと陰気なことをやらかすに違いないよ。それだけは間違いないと思う」
俺は冷めた声で言った。
カクンとうなだれたリサは下唇を噛んだ。
とても悲しそうだ。
リサはお祭りが好きなのかな――。
「――うん。そういうことでだ」
俺は頷いて、
「リサ、帰るか?」
「!?」
リサが俺を睨みつけた。
「駄目?」
俺は顔を傾けた。
「!?」
リサがすっと腰を落としたので、
「まあ、そうだよな。何もやらないうちに帰るわけにもいかないか。いや、リサ、俺を殴らなくていい。こらこら、ここでドタバタやると天乃河たちを助けにきた俺たちまで捕まっちゃうぞ?」
俺は右の手のひらを見せて暴行を未然に阻止した。歯を食いしばったリサがまた窓際に身を寄せて外を見やった。俺もまたリサの頭の上に顎を乗せた。
「ほとんど集落の住民は毒きのこで意識が混濁しているように見える――」
「疲労が溜まって士気が下がっているのか辛い任務で滅入っているのか、細かいことはよくわからん。だが、ここにいるロシアの部隊はどうも規律がなっていないようだ。どいつもこいつも緩慢な動きで、注意力が欠けているように見える。酒を飲んでた奴までいたからな――」
「だから隙はあるかも知れん――」
「天乃河たちを境内から草むらの多い脇へ引っ張り込めば、案外と簡単に脱出できるかも知れない――」
俺は発言で状況を整理した。リサはじっと聞いていた。境内に集まった住民は意識が混濁している様子だ。だがロシア兵の動きはあくまで素面に見えた。フード付きのポンチョを着て、アサルト・ライフル――AN-94を手に持っている兵士が三十名以上。その全員が書庫の玄関口で殺したあのロシア兵と同様の装備と格好だ。
「アル中揃いの兵隊が相手だが、それでもまともに行ったらその場でとっ捕まるよな――」
俺は視線を落とした。
リサが顔を上向けて俺を見つめた。
「――挑戦をしてみるか?」
俺は訊いた。
「!」
リサは、はっきり頷いた。
「でも、かなり危険だぞ。相手がよほど油断していれば成功するだろうけど。そもそも、毒きのこでへべれけになっている天乃河たちが素直に動いてくれるかどうかもわからない。それでもやるのか?」
俺のほうは渋った。
「!」
強く頷くリサに迷いはない。
「――うん、やっぱり大人しく帰ろう。三久保の
踵を返した俺の前へ、
「!?」
ざっとリサが回り込んだ。
素早い動きだった。
リサは腰を下ろしつつ拳を引いて俺を睨んでいる。
歯ぎしりの音まで立てていた。
そこから見える犬歯が鋭い――。
「――リサ、わかったよ、やればいいんだろ。ほら、リサは背のほうへ銃を隠せ」
俺は溜息と一緒に殺気立つリサを書斎の外へ促した。
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