第7話 月日集落(イ)

 小隊が持ってきた地図に間違いはなかった。

 廃棄された阿南集落の北西だ。消防団の先導を追って山道を上がって下ると木々が開けたところから月日集落が一望できた。田畑を挟んで飛び石のように家屋が点在してる。月日集落に入る寸前、先導していた軽トラックが停車した。後ろにいた俺も輸送トラックを止めた。

 猪瀬が輸送トラックに寄ってきて、

「ここで定年組を降車させたい。構わないか?」

 それが月日集落まできた目的だった俺たちに断る理由はない。輸送トラックの後方にある扉からのろのろ降車した定年組の列は消防団の何人かに率いられて歩いていった。食事に混ぜて投与した薬物がまだ効いているのだろう。何の抵抗もせずに歩いていく。傘を持たない定年組の三十名は冷たい雨に濡れていた。

 その冷たい雨を気にしている様子もない――。

「――月日集落ここは悪くない生活みたいだな」

 俺は輸送トラックから降車して定年組を見送ったあと周辺を見回した。横でリサも視線を巡らせている。田舎らしい田舎の光景だ。廃屋がなかった。田畑が活用されている。汚染前の光景だと言われても信じてしまいそうなのどかさだ。もっとも安穏の上へ墨を広げたような色合いの曇り空だけは外宇宙的な奇形を思わせる不気味さだったが――。

「うん、綺麗に整備されてるな」

 俺の横で天乃河隊長が言った。

「ここにある家は全部、補修されているみたいだわ。どこの屋根も壊れてないもの――」

 秋妃さんが囁いた。

 宍戸が遠くを見やって、

「雨でよく見えねェけど、山腹もひとの手が入ってるみたいだ。あれはファッキン段々畑ってやつか、ひっえ、あんなの教科書のなかでしか見たことないぜ」

「山のなかで畑仕事? NPCは襲ってこないのか?」

 三久保は呆れ顔を雨に濡らした。

「この集落の住民は根性があるなあ」

 姫野が顔をしかめた。

 歩み寄ってきた猪瀬が、

「月日村は南海トラフ大震災の被害が少なかった。だから無傷の設備がかなり残っていた。それに元々ここの村民は都会の物流に頼って暮らしていたわけでもなかったからな。災害時に最後まで生き残るのは自給自足できる土地なんだ」

「猪瀬、ひとつ頼めるか?」

 天乃河隊長が猪瀬へ顎先に手を置いた顔を向けた。

「何だ、言ってみろ」

 猪瀬が頷いて返した。

「昼に言った通りだ。俺たちは帰りの道が開通するまで待機する必要がある。この集落で雨が凌げる場所を貸してもらえないかな?」

 天乃河隊長が申し出た。宍戸たちはお互い顔を見合わせた。秋妃さんは天乃河隊長の横顔を見つめている。俺は「どうかな?」と思ってリサへ視線を送った。眉を寄せたリサは山腹のあたりをずっと眺めていた。しきりに周囲を気にしているような様子だ。銃口を何かに向けているわけではないがSG553を構えていた。安全装置を外してある。

 俺は首を捻った。

 リサは何かを強く警戒しているようだが――。

「――ああ、どのみち、定年組を受け入れるために用意したスペースが余っている。数日ならその空き家を使っても構わないと思う」

 猪瀬が少し考えた素振りを見せたあとに言った。

「それはありがたい。手持ちは少ないが、もちろん礼はする」

 天乃河隊長がキラッと笑った。

「――ああ、それは――金はいいんだ。いらない」

 猪瀬が言った。

 どこか歯切れが悪いような――。

「本当に無料でいいのか?」

 天乃河隊長が訊いた。

「金はいらん。月日集落ではすべての物資を共用で管理しているから通貨が必要ないんだ。ああ、ロシアルーブルなら欲しいが――」

 猪瀬が天乃河小隊の面々を見回した。

 その全員が首を振って応じたあとで、

「あいにく、俺達の持ち合わせは再生機構の日本円硬貨しかないよ」

 天乃河隊長が言った。

「ああ、いや、金はいいんだ。ただ、しばらく滞在するつもりなら、ここの神主と会って集落のルールを聞いておいてくれ。俺の一存では決められない。月日は共同体だ。生き物だな。体内に侵入してきた異物を通常の生命体は嫌う。通常の生命体ならの話だが――」

 猪瀬が言った。何だか変に理屈っぽい言い回しだ。俺は声を出さずに笑った。あの取るに足らない小チンピラ――木村徹の乾分こぶんだった猪瀬が今はこの台詞を吐いている。

 この集落で何があったのか――。

「――神主だと?」

 天乃河隊長が呟いた。この優男は他人を無条件に信用するお人よしというわけでもなさそうだ。

 俺はそれで少し安心もした。

「あ――月日集落の住民は集落の指導者を神主様と呼んでいるんだ」

 猪瀬がそう言い直した。

 訪れた怪訝な沈黙を、

「――猪瀬、その神主が月日集落のリーダーをやっているのか?」

 天乃河隊長の質問が破った。

「ああ、そうだ。名前は百目鬼直永どうめきなおひさという老人だ。あれは本当に立派なひとだぞ。俺たちはあの神主様に救われた――」

 猪瀬が言った。どこか妙な表情と声音だった。嫌な予感がした俺は周辺の顔色を窺った。ここにいる全員が視線を落として、それぞれ何かを考えこんでいた。リサだけは相変わらず俺たちを囲む山々へ視線を巡らせている。

 俺の目もリサの視線を追った。

 黒色に近い水煙に包まれた山々は霞んでいる。

 その稜線りょうせんもはっきり見えないほど――。


 §


 猪瀬の軽トラックの先導で、俺たちの輸送トラックは月日集落の外れにある大きな民家へ到着した。周辺を田畑に包囲され、裏手を山に塞がれたその民家は重そうな瓦屋根が上にドンと乗っている。ここまで見てきたところ、集落にある家々は合成建材を使った近代的な住居がひとつもなかった。猪瀬が俺たちをその家のなかへ促した。銃を構えて警戒しつつ、その家の玄関口を潜ると土間が広がっていた。天井を見ると太い梁が剥きだしだった。今はほとんど見られなくなった古い構造の家だ。天乃河たち――若い連中は珍奇なものを見る目でなかの様子を眺めていた。

「まさしく和風建築だよな――」

 俺はしたり顔で呟いた。実のところ、俺だってここまで古い構造の家はテレビだとか映画だとかでしか目にしたことがない。

 リサは平然としていた。

「今、神主を呼んでくる。上がって待っていてくれ」

 猪瀬は玄関から出ていった。

 壁ではない。

 ふすまで区切られた和室は板敷でとにかくただっ広かった。

「おっと、これってファッキン囲炉裏ってやつか!」

 宍戸が声を上げた。額に黒い丸眼鏡を押し上げた宍戸は目を丸くしている。他の面々も似たような反応だ。発言通りだ。居間の中央に囲炉裏があった。上から鍋を釣るアレもついた本格的なものだ。このアレを自在鉤じざいかぎというらしい。もっとも鍋はそこにつられていない。しかし、囲炉裏には火がくべてあった。天井を見上げると丸い傘の照明が黒い梁からいくつかぶら下がっている。肝心の電球はついていない。集落の施設は生きているようだが電気はきていないようだ。海岸に並んだ風力発電所やら火力発電所を管理しているのは原則的に居住区だからこれはまあ当然の話になる。部屋にある照明は行燈だ。雨で暗いが昼間なのでそこに火は入っていない。

「へええ、俺は初めて見たぜ、囲炉裏」

 三久保が囲炉裏の脇に腰を下ろした。

「これは素直にありがてェな――」

 姫野が囲炉裏の火にあたって目を細めた。

「あったかい――」

 秋妃さんが横座りで囲炉裏の火に手をかざした。

 天乃河隊長は妹の横に座った。

「なあ、天乃河?」

 俺も囲炉裏の脇に腰を下ろして呼びかけた。

 リサは俺の横で三角座りだ。

「ん?」

 天乃河隊長が視線を送ってきた。

「この集落の対応、どこか妙じゃないか?」

 俺は囲炉裏の火を眺めながら言った。

 薪が赤く燃えている。

「そうかな?」

 天乃河隊長が呟いた。

「天乃河は楽天的だな」

 俺が顔をしかめたところで、

「――定年組のみなさま」

 土間のほうから女の声が聞こえた。

「大農工場の長いお勤めお疲れ様でした。失礼いたします」

 丁寧な挨拶だ。

「女だ」

「若い女だぜ」

「女の子だぞ」

 宍戸と三久保と姫野が同時に言った。土間に女がお盆を手に突っ立っていた。地味な色合いのセーターとズボン姿で、化粧気と飾り気のない若い女だ。物品が不足する集落では、化粧も飾りも手に入れるのが難しい。

「ああ、俺たちは定年組ではないんだ。その定年組を護送してきたNPC狩人組合の組合員だよ。俺は隊長の天乃河礼音だ」

 天乃河隊長がキラキラ笑うと、

「あっ、定年組とは違うのですか。わ、わたしは月日集落の早乙女友里さおとめゆりです」

 若い女――友里さんの声が上ずった。動揺したのだろう。天乃河隊長はたいていの女性を動揺させるていどの美男子なのだ。

「おれはこの屋敷の管理を任されている早乙女権蔵さおとめごんぞうだ」

 遅れて土間にやってきた大男――権蔵が手ぬぐいで手をぬぐいながら言った。茶色い毛皮のベストを羽織った黒い髭面の巨漢だ。声が重く表情が極端に鈍い。

「早乙女さんたちは夫婦なのか?」

 俺は訊いた。

 友里さんは小さく頷いただけの返事だった。

「はい」

 権蔵は頷かずにそれだけ言った。表情が変わらない。それは鈍重というよりも何かが欠損した印象を受ける態度だった。

「ファッキン、既婚――」

「なんだよ、人妻かよ――」

「まだ、若いのに、もったいねェ――」

 揃って呟いた若い三人組は不満そうだ。

 人妻で何か問題があるか?

 遊んでも後腐れがない人妻は最高の肉便器だろ。

 違うのか?

 俺は思った。

 しかし、口にはしなかった。

 不満気な顔ではあったと思う。

 リサが横目で視線を送ってきた。

 まぶたを半分落としたリサは間違いなく俺の何かを軽蔑する態度だ。

 カンの鋭い奴だよな――。

「あの、お茶です。良かったら、どうぞ――」

 伏し目がちに土間から上がってきた友里さんが囲炉裏の脇に盆を置いた。

 急須と伏せられた茶碗にお茶請けまである。

 そこから漂う香りに促されて、

「緑茶だよな――」

 俺は呟いた。

「あら、こんな贅沢なもの。いいのかしら――」

 秋妃さんが腰を上げてお茶を煎れようとしたが、

「――秋妃、ちょっと待て」

 天乃河隊長が手で制した。腰を浮かせまま秋妃さんは兄の横顔を見つめている。

「失礼な話なのは承知だ。先にこれを――持ってきたお茶を君が飲んでもらえないか?」

 天乃河隊長が手にとった茶碗を友里さんへ突きつけた。

「あっ、えっ――」

 肩を竦めた友里さんは後ろへ視線を送った。土間ではまだ彼女の旦那が――権蔵が佇んでいる。権蔵はお地蔵様のように沈黙していた。表情も鈍いままだった。

「やっぱり、天乃河も警戒しているんだな」

 俺は少し笑った。

 はっきり言えば安心した。

「無警戒というわけにもいかないだろう?」

 天乃河隊長も俺と同じように少し笑った。

「それで正解だと思うぜ。でも、友里さんに毒見をさせる必要はないよ」

 俺は言った。

「うん?」

 天乃河隊長が顔を傾けた。

「どうだ?」

 俺は急須から茶碗にお茶を注いでリサにそれを手渡した。茶碗に鼻先を寄せてふんふんしたリサはそのまま頷いて見せた。

「安心してくれ。毒の類は入っていないそうだ」

 俺は言った。

「でも、リサちゃん、お盆のほうは睨んでいるぞ」

 宍戸が怪訝な声を上げた。

「おい、リサちゃん、すごい形相だぜ?」

 三久保は声をひそめた。

「やっぱり、おかしなものが入ってるんじゃないか――」

 姫野が呻いた。

「どうしたの、リサちゃん?」

 秋妃さんが小首を傾げた。

 確かにリサはお盆のほうを睨みつけている。

「――ああ、これは大丈夫だよ。リサは漬物のお茶請けが気にくわないんだろ?」

 俺が訊くと、

「!」

「!」

 リサは力強く二度も頷いた。

「あっ、ごめんなさい。集落では甘いものがなかなか手に入らなくて――」

 友里さんが視線を惑わせた。

「ああいや、友里さん。こいつのワガママは気にしないでいい」

 俺は言うと目を伏せた友里さんは顔に苦笑いをじわりと浮かべた。旦那の権蔵と同じだ。友里さんも表情の動きが鈍い。集落の生活は居住区とはまた違う過酷さがあるから感情が摩耗してしまうのはわからないでもない。しかし、髭まみれで年齢不詳の権蔵はともかく、友里さんはまだ若い。日常の非情に感情の起伏を削り取られる年齢には見えないのだが――。

「――水にもお茶請けにも胞子の反応はない。放射線もなしだ」

 胞子・放射線計測器のセンサーをお茶に浸していた天乃河隊長が確認を終えると、秋妃さんが改めてみんなにお茶を配ってくれた。

「何かあったら裏にいますから呼んでください」

 友里さんは屋敷の裏手に消えた。

 権蔵は知らないうちに土間から消えていた。

「三流のミステリ小説よろしく、いきなり毒殺はなかったみたいだね」

 俺はお茶を飲みながら苦笑いだ。

「そもそも、俺たちを毒殺しても集落の住民には何の得もないだろう。毒見の要請は念のためだ」

 天乃河隊長が笑った。

「それでも、輸送トラックには常に誰かしらを置いておいたほうがいい。足を潰されたら最悪だぜ」

 俺は言った。

 天乃河隊長は一瞬、考えた様子を見せたあとで頷いた。

「黒神さん、まだ警戒をしているの?」

 秋妃さんが茶碗の上から視線を流してきた。

「そうだ。警戒はするに越したことはないよ」

 俺はそれだけ言ってお茶請けの皿から漬物をひとつ手にとった。ごぼうの漬物だ。リサに匂いを嗅がせたあとで口に入れた。特別な反応を見せなかったから、これも毒ではなさそうだ。塩味と一緒に土臭いごぼうの香りが口に広がった。悪くない。

「――そうね」

 秋妃さんが呟いた。

「黒神さんさ」

 宍戸が目を向けた。

「ん、何だ?」

 俺は視線を送った。

 宍戸は神妙な顔で熱いお茶をすすりながら、

「この集落の連中に、俺たちは歓迎されているみたいだ。俺らってちゃんとした葉から煎れた緑茶を何年振りかに飲むよ。定年組だってそうだよ。定年組を受け入れるために、この大きな家を使う予定だったんだろ――」

宍戸シド、これは歓迎されすぎだぜ。だいたい、集落の連中は俺たちを歓迎する必要がない筈だろ。あの猪瀬ってのは金も必要がないって言ってたしな――」

 三久保が急須から茶碗へお茶を足しながら言った。

「それにな、定年組をこんな簡単に受け入れたら、集落の無駄飯食らいが増えるだけじゃないか。本来の予定では二百人近くいたわけだからな――」

 姫野は空にした茶碗を睨んでいた。

「宍戸、三久保、姫野。それはあとで考えればいいと思う」

 俺は言った。

 仲良し三人組は揃って俺へ顔を向けた。

「思い出してみろ。俺たちがここに来る前に休憩してた廃村だ。阿南集落だったよな。集落の消防団と接触した時点で不可解な点が――納得いかない点はもうあった筈だろ?」

 俺は問いかけた。

 仲良し三人組は揃って首を捻った。

 俺は天乃河隊長へ視線を送って、

「猪瀬たちは――月日集落の消防団は、どうやって俺たちがいたあの位置を特定したんだ。奴らは迷いもせずに輸送トラックへ向かってきたぜ。あれは俺たちがそこにいることを元々知っていたような動きだった。大農工場がやる定年組のお見送りは必ず集落側への連絡なしでやっている筈だろ?」

「その通りだ。事前に定年組の輸送を集落へ連絡をするとトラブルになる。集落で必要なのは若い労働力だ。薬と労働でボロボロになった定年組を積極的に受け入れる集落はほとんどないからな」

 天乃河隊長が頷くと、

「そう言われると、確かに妙ね――」

 秋妃さんが呟いた。

 俺は黙った。

「――うん、何か意見はあるか?」

 眉根を寄せた天乃河隊長が宍戸をまず見やった。

「――そうだなあ、礼音団長。たぶん、月日集落のほうから偵察を――消防団を出していたんだよ。NPCを警戒するための定期パトロールだよな。居住区だって大農工場だってそれは必ずやる。そのパトロールがたまたま俺たちを発見したんだ」

 宍戸は自分の言葉に頷いた。

「宍戸、消防団のパトロールはどうだろうな?」

 俺は言った。

「あり得ない話ではない。だが、よく思い出してみろ。阿南集落で猪瀬拓馬は『俺たちは定年組を出迎えにきた』とはっきり言っていた。ここの集落にいる連中は俺たちが来ることを前もって知っていたんだ。俺たちが使う無線を傍受したのか?」

「ああ、うん、黒神さん。そう言われると確かにそうだよなあ――」

 宍戸は視線を上に送った。

 そのまま宍戸は眉間に谷を作って沈黙した。

「あの、なんだ、この集落の周辺に突っ立っている監視塔みたいなアレ――」

 三久保が遠慮がちに口を開いた。

「あれは物見櫓ものみやぐらだ。監視塔でも間違いない」

 俺が補足した。

「うん、黒神さん、それだな、モノミヤグラ。集落の周囲に突っ立っているあれの上で、集落周辺の山道を望遠鏡か何かで監視――」

 三久保は言葉を切って視線を落とした。

「集落の連中が物見櫓で監視をしていたとしてもだ。山道を進んできた俺たちを簡単に発見できないと思うぜ。この雨で視界は悪い。山道は樹木で囲まれていて遠くからは見え辛いだろうしな」

 俺が言うと三久保は黙ったまま頷いた。

「ああ、黒神さん。月日集落の消防団は阿南集落で廃品回収をやっていたとかはどうだろう。最近になって廃棄された場所だから、まだ使える物も残っていそうだろ?」

 姫野が腕組みをしたまま顔を上げた。

「このひどい雨のなかをか?」

 俺は首を捻って見せた。

 姫野はまたうつむいた。

 そのままうんうん唸っている。

「――黒神さん。そう言われると、少しおかしいわね」

 秋妃さんがゆるっと頷いた。

 俺はそこで、

「リサ?」

 と、呼びかけた。

「!?」

 リサが俺へ顔を向けた。

 その目尻が吊り上がっているし眉間は明らかに殺気立っている。

「ほら、こうしてリサが殺気立ってるだろ?」

 俺は呟くように言った。

「リサちゃんは、どうしたんだ?」

 天乃河隊長が怪訝な顔になった。

 俺は頷いて見せて、

「うん。それを今から訊いてみる。リサ、さっきからどうしたんだ?」

「!」

「!」

「?」

「――そうか、なるほどな」

「!」

「それは人間だとか山の獣か?」

「?」

「!」

「くそっ、NPCなのか?」

「――!?」

「ふむふむ、そうか、わかった――みんな、どうやらそういうことらしい」

 俺はリサとのやりとりを終えて囲炉裏を囲んだ一同を見回した。

 誰も返事をしない。

 リサと俺は同時に顔を傾けた。

「――ああ、その――悪いんだが、黒神?」

 気まずそうに天乃河隊長が呼びかけてきた。

「――ん、何だ?」

 俺は眉根を寄せて見せた。

「リサちゃんは黒神に何を伝えたんだ?」

 天乃河隊長は俺より強く眉根を寄せている。

 ちょっと考えたあとで、

「ああ、すまん、わからなかったか。『この集落の周辺は何か様子がおかしいです。山中にたくさんの生き物の気配があります。しかし、このひどい雨で音と匂いを消されているのでそれらが人間なのか、山の獣なのか、NPCなのかは今の時点でまだはっきり特定ができないままでいます。そもそも、山中に潜んでいる生き物がNPCであるならばもう襲撃を受けている筈です』」

 俺が無言の会話を口述すると、

「!」

 リサが強く頷いた。

「黒神はよくリサちゃんの言いたいことがわかるな――」

 天乃河隊長は呆れ顔だ。

「慣れだよ。慣れると誰だってわかる。リサは表情がコロコロ変わるからね」

 俺はリサへ視線を送った。

 リサは無表情で俺を見上げている。

「リサちゃん、猟犬みたいだよな」

 宍戸が呟いた。

「あっ、リサちゃん怒るぜ」

 おっと三久保が両方の眉を上げた。

「あ、怒った怒った」

 姫野は笑った。

 犬ころよばわりされたリサは宍戸をギリギリ睨んでいた。

 確かに噛み合わせた歯を見せるリサは猟犬みたいな感じだった。

「ほらな、わかりやすいだろ?」

 俺は少し笑った。

「黒神さんとリサちゃんがうらやましい――」

 消え入るような声だ。秋妃さんが細い溜息をついた。それは自身の存在をも一緒に消してしまいそうなほどはかない溜息だった。宍戸と三久保と姫野が同時に視線を落とした。何かに怯えたような対応だ。天乃河隊長はリサと俺を見比べていた。天乃河兄妹の間には何かとんでもなく面倒な事情があるらしい。情事はもうリサと俺の目で確認をした。いや冗談をひねっている場合ではないね。

 少し怯えながら、

「とっ、とにかく、天乃河。この集落はどうも様子がおかしいって、リサも言っているんだ」

 俺は天乃河隊長へまっすぐ視線を送った。

「――そうか。だが、黒神。月日集落の住民は武装解除を求めなかった。集落の住民が俺たちへ危害を加えるつもりなら、まずこの銃を奪おうとするだろう?」

 天乃河隊長は脇に置いてあったSG553を手にとって見せた。

「――そうだよな」

 頷いた俺はそのまま視線を落とした。

 確かにその部分だけはよくわからない対応だ――。

「ここの集落の連中が俺たちを敵だと見なしているならさ?」

 宍戸が三久保を見やった。

「集落に入る前に武器をまず取り上げるぜ――」

 三久保が姫野に視線を送った。

「うん、確かにそうだよな――」

 姫野が腕組みをしたまま大きく頷いた。

「――それでも、どうも腑に落ちないぜ」

 俺は粘ってみた。

 リサも頷いた。

 囲炉裏の周辺が何呼吸分か沈黙したあと、

「黒神、他のみんなもだ。崩れた道が復旧するまでの話をする」

 天乃河隊長が顔を上げた。

「ああ、聞かせてくれ」

 俺は頷いた。

「周知の通り、NPCの個体数が最も多いのは山中になる。森区周辺でのNPC目撃情報が、ここ一ヵ月途絶えているとは言ってもだ。隊長の俺としては長期滞在をするなら生きている人間のいる場所が一番安全だと考えている。集落で活動している消防団が優秀なのか、たまたまここにいる住民の運がいいのかは不明だ。この集落の住民の様子も確かに少しおかしい。だが今のところは月日集落がNPCの襲撃を受けている気配はない。ゾンビ・ファンガス胞子の反応もこれまではなかった――」

 そこまで言って天乃河隊長が俺を見つめた。

「隊長の出した結論は、『落石で閉じた帰り道が復旧するまで月日集落に滞在』か?」

 俺は諦めたような気分で応えた。帰り道の復旧は時間がかかるだろう。元々、この任務は今日中に大農工場へ帰還する予定だった。携帯している装備と食料は、長い野営をするほどの持ち合わせがない。

 昼に立ち寄った廃棄済みの阿南集落。

 今いるこの月日集落。

 悪天候で不安定になった山腹での野営。

 天乃河警備小隊の孤立した七名はこのうちのいずれかに滞在する必要があった。

 そして、それぞれの場所で想定される別の危険がある。

 天乃河の判断は最も理にかなったものだろう。

 現状では、だが――。

「――そうだ。月日集落に滞在して帰り道の復旧を待とうと思う。みんな、この他に意見は?」

 天乃河隊長が言った。

 誰も発言しなかった。

 リサが俺へ視線を送ってきた。

 その眉間に険がある。

 おそらく、これは「危険」の「険」だ。

 リサはカンのいい奴なのだ――。

「まあ、この場合、他に意見はないだろうな――」

 俺は視線を落とした。囲炉裏の周辺は沈黙したままだ。瓦屋瓦や軒先に打ちつける雨音はまだ強い。

「黒神は異存があるのか。あるのなら、遠慮なくここで言ってくれ」

 天乃河隊長が言った。俺は顔を上げた。天乃河は微笑んでいた。ここは苛立ってもいい場面だと思う。しかし、この優男の隊長は崩れない。崩れない態度を貫いていた。本心からだろう。正直なところ、俺にとってはこいつも不気味だった。天乃河礼音もこの月日集落と同様の不気味さを抱えている。それが何であるのか。今の俺はまだ上手く説明できないが――。

「――天乃河、俺に異存があったとしてもだぜ」

 俺は俺本来の声で言った。

 低い声だ。

 何ら感情のない声色だ。

 俺のなかにいる人殺しの声だ。

「うん」

 天乃河隊長は頷いて俺を促した。

 微笑んだままだった。

 やはり、この男は何をどうやっても崩れる気配がない。

「――うん、今のところ、俺の異存には根拠がないんだよ」

 俺も頷いて弱く笑った。まあ、みっともないがこれは降参をしたというわけだ。実際、どこに滞在しようと区外には危険がある。そう考えて納得もした。眉を寄せたリサが降参した俺をじっと見つめていた。俺は視線を囲炉裏へ落とした。白くなった薪がくすぶるように燃えていた。そろそろ薪を足さないと火が消えてしまいそうだった。

 どうも俺は居心地が悪い――。

「――そうか。当然、黒神が言う通りだな。警戒はしておくべきだ」

 天乃河隊長が言った。

「そうしてほしい。この月日集落は、なんだろうな――そうだな、この集落は『漠然』と『不穏』な感じだ。俺たちは神経質にならざるを得ない状況に置かれてもいるんだろうしな――」

 俺は視線を落としたまま弱い声で言った。

「黒神?」

 天乃河隊長が呼んだ。

「――何だ?」

 俺が顔を上げると、

「君という男はやはり上司に――他人を指導する側に向いている人間だと思うよ」

 天乃河隊長がキラッと笑った。

「ああ、もうよしてくれ。くっそ、この野郎は――!」

 我慢ができなかった。俺は思い切って顔をしかめてやった。アブラ狸のようなド外道の前なら悪態をつくのも遠慮をしない。相方パートナーであるリサの前ならともかくだ。俺は他人の前でこんな態度を普段は見せない。

 囲炉裏の周辺でどっと笑い声が起こった。

 リサもニンマリしている。

 少しの間きょとんとしていた天乃河隊長も囲炉裏を囲む笑顔に参加した。

 俺はそのあとしばらく顔を歪めたままだった。

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