第5話 冬の嵐(ロ)
「――黒神、落石だな。いや、土砂崩れか!」
雨の飛沫でひとの形の輪郭が見える。土砂と落石で完全に埋まった山道を背景に雨合羽の天乃河隊長が佇んでいた。輸送トラック後部から降りてきたらしい。
「そうみたいだな、天乃河隊長!」
俺が大声で応えると、
「黒神、前にも言ったが隊長はやめてくれ。厄介なことになったな」
近くまで歩み寄ってきた天乃河隊長がフード下にある顔を寄せてきた。
水も滴るいい男だ。
近くで見ても秋妃さんとよく似た顔つきだった。
やっぱり間違いなく兄妹なんだよな――。
「――ああ、帰り道を完全に塞がれた」
俺は崖の上へ視線を送った。場所は区外。森区大農工場の北にある山中だ。NPCと遭遇する危険がある。胞子へ感染する危険だってある。苗床が近くにあったとしても雨中はゾンビ・ファンガス胞子の散布が抑制されるので、それだけは救いだが――。
「俺が組合本部へ無線で連絡をする。黒神、周囲の警戒を頼めるか。装填済みだ。安全装置は外してない」
天乃河隊長が持っていたSIG SG553を俺へ押しつけた。これは半透明の弾倉と折り畳みのできる肉抜きされたストックが特徴の、近代的なアサルト・カービン銃だ。口径は五カンマ五六ミリ。NPC相手だと少し威力不足の銃だが軽くて取り回しが良く、狭い空間での戦闘にも十分対応できる。大農工場の組合からはこのアサルト・カービンと自動拳銃が――グロッグ・シリーズが無料で貸し出される。各自で持ち込んだ武装の携帯と使用も自由だ。事前に組合への申請は必要だが――。
俺はSG553の安全装置を解除して視線を巡らせた。黒い雨雲に圧迫された山中の視界は最悪だった。崖上からNPCの襲撃を受けたらただでは済まないだろう。このまま全滅もありえる状況だ。輸送トラックの外に出てきた宍戸と姫野が後方を警戒している。三久保は残って定年組の監視を続けているようだ。
山を切り崩すほど降っても雨は止む気配がない――
運転席へ上半身を突っ込んだ天乃河団長が車内の無線で呼びかけた。
「こちらは定年組を護送中の天乃河警備小隊。組合本部、組合本部、応答求む。どうぞ」
「――こちらは組合森本部の西野職員。おお、天乃河か。やれやれ、生きていたな、無線で後続からの連絡が入ってる。どうぞ」
本部からの応答が返ってきた。
天乃河隊長が通信を続けた。
「西野さん、天乃河小隊の後続がまったく見えない。そっちはどうなったんだ。どうぞ」
「幸い天乃河警備小隊の後続は落石には潰されていない。どうぞ」
「雨で車列が伸びていたからな。それは不幸中の幸いだった。どうぞ」
「天気予報だと豪雨が続くらしい。ま、予報なんてアテにはならんがな。何にせよ、その道は落石の危険がある。後続は一旦、森区へ帰還するようこちら側から指示をしておいた。どうぞ」
「俺たちは前に進むしかないのか。どうぞ」
「他に道がないからそういうことになる。月日集落まで定年組を護送後、そこで待機をしてくれ。どうぞ」
「帰り道の復旧の見通しはどうなっている。どうぞ」
「ご存じの通り組合に車両はあっても重機はない。落石で閉じた道の復旧は皇国軍が出す重機頼みだ。打診はもうしている。だが、この悪天候だ。皇国軍は天候が回復するまで動くのを渋るだろう。あの怠け者どもめ。どうぞ」
「――了解。こちらからは以上だ。どうぞ」
「すまん、天乃河組合員。組合本部からもできるだけ皇国の将官どもを急かしてみるが――。どうぞ」
「ああ、なるべく早く頼む。他に何かあれば指示を頼む。どうぞ」
「以上だ。追ってこちらから連絡をする。誰か一人は無線機の近くに残せ。輸送トラックから遠くへ離れるな。どうぞ」
「了解だ。通信を終わる」
連絡を終えた天乃河隊長が、
「――だそうだよ、黒神」
そう言いながら振り向いた。
通信内容は聞こえていた。
俺は頷いただけで何も言わなかった。
「面倒な任務になった。ここに停車しているのは危険だ。NPCよりも落石の危険のほうが大きい。輸送トラックをすぐ出してくれ、目的地は変わらずに――」
天乃河隊長が身を寄せてきた。
「わかってる、この先の
俺はSG553を安全装置をロックして天乃河隊長へ返した。
「そうなる。黒神は続けて運転手を頼むよ。君は運転が上手いな。今のところ荷台にいる俺たちは一度もひっくり返っていない。汚染後に成人した奴らは自動車運転の講習をまともに受けていないだろ。宍戸たちに運転手をやらせるとかなり危なっかしいんだ。あれは生きた心地がしない」
天乃河隊長が笑った。
俺は全員が車内に戻ったのを確認して運転席へ戻った。脱いだ雨合羽をリサに渡した。後部座席のリサは反抗をせずに雨合羽を受け取ってくれた。
「まるで嵐だ――」
濡れた眉を指で拭った俺はサイドブレーキを解除した。
エンジンはずっと停止させていない。
「冬の嵐ね――黒神さん、運転を続けて。動いていたほうが安全みたいだし――」
秋妃さんが運転を始めた俺へ身を寄せてきた。手にタオルを持っている。秋妃さんはそれで濡れた俺を拭いてくれた。俺の目の下で秋妃さんのポニーテールが動いている。すごくいい匂いがする。男の血圧を強引に押し上げる匂いだ。後部座席でリサが秋妃さんと俺を見つめていた。俺は後ろを見ていない。じっと見つめられている気配が背後から伝わってきたのだ。
リサよ。
今は俺を見なくていいぞ。
見るんじゃない。
「――あっ、ああ。何度も悪いね、秋妃さん」
俺は呻き声と一緒にアクセルを踏んだ。
その気持ちは非常にありがたい。
しかし、落石よりも秋妃さんの行動のほうが危ないような気がするんだよね。
「帰り道の復旧に、かなりの時間がかかるだろうね――」
俺は輸送トラックをのろのろ進めながら言った。
「――そうね」
秋妃さんがようやく助手席に戻った。正直なところ、俺はくすぐったくてかなわなかった。それで輸送トラックの速度は少し上がった。少しだけだ。急いだところで落石に当たるか当たらないかなど
「最悪、先の集落で――月日集落で待機か――」
俺は呟いた。
「黒神さんは区外の集落へ行くの初めて?」
秋妃さんが顔を傾けた。
「いや、何度も集落に立ち寄ったことはある。居住区で受けた仕事の最中だ。場所によっては区外の集落にいる住民と交渉をして宿を借りるほうが安全だからね。もちろん、この先にある集落――月日集落は初めて行く場所だが――」
「黒神さんとリサちゃんは、S等級
秋妃さんが溶けるように笑った。
最初からそこにないような危うい笑みだ。
その笑みが完全に消えたあと、
「秋妃さん、それは俺を高く見積もりすぎだ」
俺は言った。
「――そうなの?」
秋妃さんが俺を促した。
「黒神武雄という男は細かい仕事を――他人が嫌がる仕事を今までやってきただけだ。俺には特別な能力なんて何もない。得意なのは愛想笑いくらいでね。そうやって、たいていの面倒事を我慢してやり過ごしてきたんだ。だが、今回の面倒事はちょっとばかり事態が特殊だぜ――」
俺はハンドルを回しながら言った。
低い声だった。
これが俺の持っている本来の声だ。
「――そうね。私たちの小隊は後ろに定年組を抱えているわ」
秋妃さんが頷いた。
彼女の表情を確認しなかった。
確認しないまま、
「面倒だぜ。NPCを狩る組合員に、たいていの集落の住民は好意的だけどな。でも今の俺たちは皇国軍や複合企業体の仕事に――
俺は言った。
秋妃さんは返事をしなかった。
通常ならばだ。この任務は目的地の集落に入る直前で積み荷を――定年組を降車させてUターンをすることになっている。集落に入ってしまうと住民を相手にトラブルを招く可能性があるからだ。しかしそのUターンできる道がなくなった。携帯食は持ち合わせているが何日も野営できるほどの備蓄はない。長く野外に留まるとNPCの襲撃を受ける可能性も高くなる。俺たちは集落の住民と接触を持たざるを得ない状況に追いやられた。
いや、そもそもだ。
この山道の先にある筈の集落――月日集落に生きている住民がいるかどうかすら、今の時点では確証がない。汚染後の地図にない街――集落の住民は各地の居住区と障壁越しの物品交換などで多少の接点を持っている。しかし大農工場を相手にした場合はどうなのか。それを俺は知らない。
事態は完全に想定外――。
「――リサ」
俺は呼びかけた。
リサが後ろからすっと身を寄せた。
「うん、ずっと俺の近くにいろ。無茶をするな」
俺は少し笑って見せた。頷いたリサは片手に持っていたSG553の弾倉を手に落とした。弾倉を確認している。しかし、SG553の弾倉は半透明で残弾のあるなしが外から確認できるのだ。それはリサの手に染みついた癖だった。
「ああ、銃はまだいらない。こら、装填をするな。安全装置を外すな。少し短気すぎるぞ、お前は――」
俺は呻いた。
アサルト・カービンを携えたリサは眉を少し寄せて俺を睨んでいる。
いつだっていける。
そんな意思表示だった。
リサは本当に仕事熱心なのだ。
「――リサはもう人間を撃ちたくないんだろ。集落にいるのは人間だ。後ろに積んでいる連中だってそうだぜ」
俺は溜息と一緒に言った。
リサは視線を落として応えた。
「それなら、俺の指示に従え。役割分担だ。必要なら俺が人間を撃ち殺す。お前はNPCを撃ち殺せ」
俺は視線を前に送って言った。
リサの反応はなかった。
「――わかったか?」
俺はもう一度、言った。
リサは小さく頷いた。
その気配が確かにあった。
「それでよしだ。後ろへ戻れ。大人しくしていろ」
俺は少し笑った。
リサは笑わずに後部座席へ身を引いた。
「黒神さんとリサちゃんって――」
秋妃さんが呟いた。
「うん?」
横目で視線を送ると、秋妃さんは俺とリサがいた箇所を見つめている。
「熱々のカップルよね――」
秋妃さんが言った。
「ええ、そう見える?」
俺は首を捻った。
「私もそんなふうに愛されたい――」
憂いの女は溜息のように囁いた。
「そうらしいぞ、リサ」
俺は笑った。
リサの不機嫌な態度と雰囲気が後ろから返ってきた。
苦笑いの俺を見て秋妃さんが囁くように笑った。
§
山と山との間で
下り坂になった山道を抜けると川べりに平地が広がっていた。雨を集めた水面は竜の鱗のように荒いでいる。俺は輸送トラックで竜の鱗の上にある橋をのろのろ渡った。川は氾濫手前の様相だ。橋を渡り切ると野原になった田畑に囲まれて人気のない廃屋が密集していた。
「――ここが月日集落なのか?」
運転席の俺は呟いた。
「いえ、月日集落はこの集落の西へ進んだところみたい――」
秋妃さんは助手席で地図へ視線を落としている。そこで後ろからドンドンと叩く音がした。後部座席のリサが俺の肩をバンバンと叩いた。停車寸前までスピードを落として後ろへ目を向けると後ろの車窓に天乃河隊長の顔がある。
「黒神、車をここで止めてくれ!」
向こうの大声が運転席では小さく聞こえた。
『名倉商店』
俺はこの店名が書かれた白い看板が斜めになった、古めかしい雑貨屋だか酒屋の前で輸送トラックを止めた。重そうな瓦屋根が乗っかっているが建物は崩れる気配がない。その軒先では端っこから鬼瓦が輸送トラックを睨んでいた。
右の車窓がコンコンとノックされた。
視線を送ると、
「この廃屋を休憩所に使う」
天乃河隊長がSG553を片手に言った。天乃河隊長の端正な顔の半分は耐胞子スポーツタマスクで隠れている。名倉商店内の安全確認は天乃河隊長と俺とリサの三人でやった。家財道具は退去するとき住人がほとんど持ち出したようだ。奥の居間に大きな黒い仏壇があった。そこにあったらしい遺影も持ち去られている。他に目ぼしいものは何もなかった。手に持った胞子・放射線計測機の反応もなしだ。
「――黒神、リサちゃん。ここで一時間の食事休憩をとろう」
天乃河隊長が建物の二階から戻ってきて言った。
自分の腕時計へ視線を送ると時刻は午前十一時の手前だ。
「昼めしには少し時間が早いな――」
俺は呟いた。
「定年組のお食事を早めに済ませておきたい。月日集落までどのていどの時間がかかるかはまだわからんからな」
天乃河隊長が言った。定年組へ支給するレーションには向精神薬が混入されている。定年組には拘束着を着せてある。しかし、薬効が切れると必ず面倒が起こるだろう。彼らの精神の安定を約束する薬の投与を怠けるわけにはいかない。
「その作業は誰がやるんだ?」
俺は訊いた。
「秋妃がもうやってるよ」
天乃河隊長が短く応えた。
俺は名倉商店の表に停車させた輸送トラックへ視線を送った。
リサも輸送トラックを見つめていた。
雨脚はまだ力強い――。
「ここってファッキン無人地帯だぜ」
「周辺は何もなかった」
「だが、この大雨で視界は悪かった。見落としがあるかも知れんから気をつけてくれ」
報告したのは周辺の安全確認から帰ってきた宍戸と三久保と姫野だ。
「この廃村はどの辺りになるんだ?」
俺は一斗缶に燃料を放り込みながら訊いた。商品を並べていたらしい一階の大広間を適当に片付けた俺たちはそこで火を焚いて暖をとっている。この燃料は家の壁材やら床材を引っぺがして調達したものだ。「有害な黒い煙が出るかもな」と俺は心配した。合成建材を燃やすと鼻孔を刺激する黒い煙が出る。だがこの家は――名倉商店は杉材を使って建てられたらしい。家の材は良い匂いでよく燃えた。古めかしい家屋だったのが幸いしたというわけだ。
「森区の北西。ここの名称は阿南集落となってるわ。ここも区外の集落だった筈だけれど――?」
丸椅子の上の秋妃さんが囁くように答えてくれた。
その手元に地図がある。
「阿南集落の住民なら何ヵ月前かに自活を諦めて大農工場へ収容された筈だ。だから、ここに人間は当然いない」
天乃河隊長が視線を送ると、
「そう――」
秋妃さんが瞳を伏せた。
「月日集落はどこらになるんだ?」
俺は店舗にあった棚を横倒しにして椅子の代わりしている。宍戸と三久保と姫野も似たような棚を持ってきてそれを椅子代わりにした。並んで座った三羽烏が似たような体勢で焚き火へ両手をかざしている。俺の横にちょこんと腰かけているのはリサだ。そのリサが焚き火の周辺に置いてあった豆の缶詰へ手を伸ばした。正確にはチリ・ビーンズの缶詰だ。真空パックに入った米のめしも置いてある。これが今日の昼食だ。小隊が持ってきた
「まだ駄目、温まってない」
俺はそろそろ伸びていくリサの手をガッシと掴んだ。
「!?」
自分の思い通りにならないとすぐ睨むのがリサの性格だ。
歯ぎしりの音までさせている。
リサは
これは
「黒神、月日集落はこの北西だ」
天乃河隊長が地図をよこした。
俺は手元にきた地図に目を落として、
「へえ、月日集落は駒ヶ根
「うん」
天乃河隊長が頷いた。
「――本当に月日集落の住民はいるのか?」
俺は呟いた。
確か駒ケ根強制収容所はNPCの襲撃で壊滅した筈だ。
月日集落がその場所に近いということは――。
しばらく、ここにいる全員が雨音だけを聞いたあとで、
「――さあな、黒神、それは行ってみないとわからんよ」
天乃河隊長が少しの笑顔を見せた。
「うん、黒神さん。ここから北は日本再生機構の支配が及んでいないから、詳しいことはわからない――」
宍戸は焚き火を見つめている。
「大農工場は自分たちの目の届かない場所へ、いらないものを捨てたいってことだよな。罪悪感とやらを奴らも持ち合わせているのか?」
俺は誰に訊いたわけでもない。
独り言のようなものだ。
「この北はロシアの支配地域だ。ロシア極東軍に訊けば北の様子がわかるかもしれないぜ?」
三久保が言うと、
「礼音団長、無線を使って訊いてみろよ?」
姫野が皮肉っぽい笑顔を天乃河隊長へ送った。
笑顔を笑顔で受け流した天乃河隊長が、
「残念だ。俺はロシア語をよく知らない。ロシアにまともなロック・ミュージックはないからな。そろそろ昼食を食べよう」
無言で頷いた各々が焚き火の近くにあった豆の缶詰と真空パックのめしへ手を伸ばした。俺はチリビーンズの缶詰をパックのめしへぶっかけた。豆のぶっかけごはんだ。横のリサもそうした。他もたいていはそうした。秋妃さんだけは缶とごはんを分けて食べている。
「そんなところまで積み荷を捨てに行けってか。大農工場は神経質だな――」
俺はプラスチックのスプーンを使って、チリビーンズの缶詰のスープで濡れためしをかっこんだ。
旨くはない。
腹が満たされればそれでよかろうだ――。
「黒神、大農工場務めはそういう仕事が多いんだ」
天乃河隊長が弱い声で言った。
焚き火に語りかけているような感じだった。
「礼音?」
三久保がめしを食う手を止めた。
「なんだ、
天乃河隊長が顔を上げた。
「この集落に定年組を捨てて、もう帰っちまおうぜ」
隊長の顔を見ずに三久保が言った。
「――臆病風か?」
天乃河隊長が笑った。
「ああ、そうだよ、悪いか? この天候に山の中だ。早く帰還したい。みんなだってきっとそうだぜ?」
三久保が苛立った声を上げた。
宍戸もめしを食う手を止めて、
「マジでどうするんだ、礼音団長。あいつらは――定年組はどうやってもノー・フューチャーな奴らだろ。ここで捨てて帰ったところで誰もファッキン構やしないさ。ネバー・マインドだ――」
「――
天乃河隊長は弱く笑った。
「そんなこと、どっちだっていいだろ――」
姫野がモソモソとめしを食いながら言った。
姫野は顔を上げなかったが、
「――
呼びかけた天乃河隊長は顔を上げた。
「――あ?」
三久保がプラスチック容器のめしに口をつけたまま隊長へ視線を返した。
「定年組をここで捨てても俺たちの帰り道は土砂で埋まっている」
天乃河隊長が言った。
「何だよ、帰る道は一本だけじゃないぜ。ここからだとそうだな――黒神さん、ちょっと地図を貸してくれ――」
俺は三久保へ脇にあった地図を手渡した。
「こっちの山道を通って一旦は浜松居住区に帰還してさ、それから――」
地図を開いた三久保が天乃河隊長へ身を寄せて、ここからの撤退ルートを提示した。
その様子を眺めていた秋妃さんが、
「――三久保君?」
「んっご――」
三久保が妙な返事をした。
「居住区で狩人団をやっていたときとは状況が違うわ。大農工場勤めってそんな融通が利かないから――」
秋妃さんの憂いた瞳にじっと見つめられると、
「あ、秋妃。そっ、それも、そうだよな――」
三久保が目を泳がせながら地図を脇に押しやって元いた場所へ腰を落ち着けた。
俺とリサが同時に顔を傾けた。
秋妃さんに対して三久保は何か弱みがあるのだろうか。
俺は宍戸と姫野を盗み見た。
横のリサも俺の動きに同調する。
宍戸と姫野は視線を落としてめしを口へ運んでいた。
「
天乃河隊長が言った。
「俺たち、ファッキン、C等級――」
宍戸が笑った。
くぐもった笑い声だった。
「――くそっ。ヘヴィに不味い豆の缶詰だぜ」
三久保が呟いた。
えっと言った感じで顔を上げた秋妃さんが三久保を見やった。
三久保はそれに気づかなかった。
俺はリサへ視線を送った。
眉を寄せたリサは顔を左右に振った。
俺は足元に転がっていた豆の空き缶を拾い上げて、
「このラベルは英語だね。米国からの輸入品だ。組合が皇国軍から買い取ったのかな?」
「南北アメリカ大陸だけはまだゾンビ・ファンガスの汚染が及んでいない。不味くても安心をして食べられる缶詰ではある――」
天乃河隊長が少し笑った。
「テレビやラジオではそう言っているね」
俺はそう応えた。俺は汚染前から、報道とやらをまったく信用していない。あいつらは、どいつもこいつも自分自身の損得勘定で口から出てくる言葉をコロコロと変える風見鶏でしかないからだ。今、この汚染列島で生きている人間なら、みんな俺と同じ考えだと思う。ゾンビ・ファンガスに南北アメリカ大陸も汚染されていることを隠している可能性だって十分ある。東京の汚染開始時――十年前はそれを隠していた。当時の政府や報道機関のやった情報隠ぺいが日本列島の汚染を加速させた。
「アメリカ人は汚染されていない土地に住んでいるのに、こんなファッキン不味い豆料理を毎日食っているのかよ!」
宍戸が顔を上げて喚いた。
「ああ、
三久保が深く頷いた。
「まったくだ、量だって少ないしな――」
姫野が空にした容器を逆さまにして呻いた。
豆の缶詰も真空パックのめしも結構、容量だけは多かった気がするが――。
ともあれ、天乃河隊長も頷いて同意した。
文句に囲まれた秋妃さんはチリビーンズの缶詰とごはんをのろのろ食べていた。
秋妃さんは真下を向いている。
見るからに悲しそうな様子で――。
「――ごちそうさま」
俺は空にした容器を後ろへ放った。
リサもそうした。
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