第12話 アイスクリームと落とし前
リサが風間診療所に担ぎ込まれてから三日後だ。
退院したリサと俺はお宿もみじの貸し部屋にいる。落ち着かない気分のまま俺はリサに語りかけた。顔にまだ色のついているリサはベッドの上でたまに小さく頷いて見せた。曖昧で鈍い表情を浮かべ続けるリサの視線はずっと窓の外だ。やがて俺も窓の外へ視線を送って沈黙した。
藤枝の街は灰色の水煙に覆われていた。
冬の雨だ。
腕時計に視線を送ると午後三時前だった。
暗い軒先を叩く雨音が大きい。
リサが小さなテレビの電源を入れた。お宿のテレビは視聴時間に応じて金を取られる。リサがテレビを見ていいのは、夜の八時から十時までだ。共同生活上のルールだ。いつもなら、どんな手段を使っても阻止する。しかし、今日の俺は肘掛椅子に座ったまま動かなかった。
リサの合わせたチャンネルで映画を放映していた。それはロシア人の映画監督が撮ったものだった。すべてが緻密な油絵のような画面で構成された芸術的な雰囲気の映画だ。リサと俺はそのロシア映画をしばらく眺めた。俺はその映画の良さがよくわからなかった。正直、眠くなってきた。両まぶたの落ちてきた視線を送ると、ベッドの上で両膝を抱えたリサは眉を寄せていた。
リサは何やら難しい顔だ。
この退屈な映画、そんなに面白いか?
俺が首を捻ったところで、貸し部屋の部屋が「どかんどかん!」とノックされて貸し部屋にあった沈黙を破った。
この乱暴な来客は間違いなく――。
俺は貸し部屋のドアを開けて、
「ああ、内山さん」
「おゥ、黒神、コノヤロー」
大顎をしゃくった今日の内山さんは黒一色のスーツ姿にカーキ色のトレンチコートを羽織って、頭へ黒い中折れ帽子をのせていた。首から下がったマフラーはだけは赤い。
「ちょうど良かった。俺のほうからも内山さんを訪ねようと思っていたんだ」
俺は少し笑って言った。
「おゥ、黒神、これ――」
ムスッと表情が硬い内山さんは手から下げていたポリ袋を俺へ突き出した。
「内山さん、これはすごいね。アイスクリームだ。何年か振りに見たなあ――」
俺はポリ袋を覗き込んで呻いた。内山さんがもってきたアイスクリームは汚染前からある高級ブランドの製品だった。おそらく輸入品だろう。生産力は必需品に回されがちな今の日本ではこの手のお菓子が高価品になった。
「それはリサちゃんへの見舞いだ、コノヤロー」
内山さんが唸った。
「内山さん、気おくれするよ。こんなにも高価なもの――」
俺が言うと内山さんの顔が見る見るうちに紅潮していった。
何しろ、すぐに怒る男なのだ。
今日の内山さんはひどく虫の居所が悪そうにも見える。
これは失言だったかな。
俺が視線を惑わせたところで、
「おっ、身体の具合はどうだ、リサちゃん!」
内山さんが腰を曲げて目尻にシワを作った。食い物の匂いを嗅ぎつけたリサが踵を上げてぐいぐいと、俺が持っているポリ袋を覗き込んでいる。
「ああ、ほら、内山さんからお前にだ。すぐ食え。残った分は宿の女将さんに頼んで厨房の冷凍庫へ入れておいてもらうんだぞ。溶かしたらもったいないからな。ああそうだ、ご主人と女将さんにもお裾分けしておけよ。お前の件でお宿にも色々と迷惑をかけたからな――」
俺はアイスクリームをリサに手渡した。踵を返したリサはベッドの上にアイスクリームの丸いカップを並べた。高級アイスクリームのカップは十個もあった。そのうちの一個を手にとったリサは、鼻先をカップに寄せて匂いを嗅いだ。眉を強く寄せて真剣な顔のリサは警戒をしている様子だ。おそらく区外出身のリサはアイスクリームを食べたことがない。俺だってここ数年は口にしたことがない。各種アイスクリームのカップを、次々と手にとってクンクンしていたリサがクワッと瞳を見開いた。
「これは冷たくて甘い食べ物である!」
リサの嗅覚が認識したのだろう。ベッドに腰を下ろしたリサはおもむろにカップの蓋を開いて、木のスプーンでアイスクリームを口へ運んだ。色が白いからたぶんバニラ味だ。その動作が段々素早いものになった。リサはアイスクリームを高速で食べている。冷たい甘味に頬をゆるませる暇もないほどの必死さだ。
しばらく眺めていると、
「ぐぁあっ!」
突然、リサが仰け反った。
もっともリサの声は出ていない。
そんな感じだったという話だ。
身体を丸めたリサは両方のこめかみを手で抑えつけていた。冷たいものを急いで食べて頭が痛くなる現象をアイスクリーム頭痛というらしい。
本当に馬鹿な奴だ――。
「――内山さん。リサなら大丈夫だよ。あの通り、食欲だって申し分ないからね」
俺は笑ったが、
「黒神、リサちゃんは大丈夫じゃねェだろ、バカヤロー」
内山さんは笑わなかった。
俺は返す言葉に困って視線を落とした。
「黒神よォ」
内山さんが言った。
「何、内山さん」
俺が顔を上げると、内山さんはアイスクリームをまた食べ始めたリサを見つめていた。
「俺の宿までツラを貸せ」
内山さんが踵を返した。
「――わかった」
俺はコートハンガーにあったジャケットを羽織りながら、
「俺は内山さんと出かけてくる。すぐに戻るから、リサは部屋から出ずに大人しくしてろよ」
リサはアイスクリームを食べながら俺を見上げた。
「一人で大丈夫か?」
俺は念を押した。
リサは小さく頷いた。
アイスクリームを口へ運ぶ手は止まらない。
「じゃ、行ってくるからな。部屋から出るなよ」
俺はそう残して貸し部屋を出た。
内山さんの背を追うように階段を降りると受付に紅葉さんがいた。今日の紅葉さんは珍しく洋装だ。セーターに黒いパンツを履いた紅葉さんは、ゆったりとしたカーディガンを羽織っていた。
「ああ、女将さん、俺は出かけるから――」
俺は言った。
内山さんはそのまま宿の外へ歩いていった。
「リサちゃんが退院したばかりなのに、もう出かけるんですか?」
紅葉さんが顔を傾けた。
目つきがおっかない。
「女将さん、仕事の都合でどうしても行かなきゃならないんだ、だから――」
俺はうつむいて小さな声で言った。
「――わかりました。リサちゃんのことなら、私と旦那に任せてください」
紅葉さんが頷いた。
俺がうつむいたままチラリと視線を送ると、やっぱりそこに笑顔はない。
「女将さん、頼む。ああ、もしかすると妙な連中がこの宿へ来るかも知れない。そのときは無理をせずに区内警備員を呼んでくれ。俺もリサも組合員だ。組合員同士のトラブルだと伝えればすっとんでくる筈だから――へえ、女将さんは撃てるの?」
俺は言い訳がましい台詞を並べている途中で目を見開いた。カーディガンをはだけた紅葉さんの懐にはホルスターがあって、そこに小型拳銃が収まっている。グリップの形状を見るとワルサーPPSらしい。
「NPCが居住区へ押し寄せてきたら、自分の身は自分で守らなくてはいけませんからね。町内会の講習で毎週撃っていますよ」
カーディガンを羽織り直した紅葉さんが少しだけ笑った。
「そうなんだ。女将さんは区のガン・レンジに通っているんだね」
俺は言った。
「私の旦那もですよ。でも、黒神さん、なるべく早く宿へ帰ってきてください」
紅葉さんが少しだけあった笑顔を消した。
「――わかった。ありがとう、女将さん」
脇を抜けた俺を、
「黒神さん!」
と、紅葉さんが鋭く呼び止めた。
「うん?」
俺は背中越しに視線を送った。
「もうリサちゃんを長い時間ひとりにはしないで」
紅葉さんが言った。
ひどく硬い声だった。
「――ああ、うん」
叱られたような気分になった俺はうつむいたままお宿の玄関を潜った。玄関の軒先で黒い傘を片手に佇んだ内山さんが俺に大きな背を見せていた。俺は尻のポケットにあったワークキャップをかぶった。内山さんと並んで雨のなかを歩きだしたところで、お宿の玄関口から飛び出してきた幸喜さんが、俺に茶色い傘を貸してくれた。
冬でも雨中なら路上に傘の花がひらく。
借り物の傘を雨に打たせて歩きながら、
「内山さん、小池主任からもうあの話を聞いた?」
俺は訊いた。
「おゥ――」
黒い傘の下の内山さんが頷いた。
「迷惑になるかも知れないけど、次回の仕事は内山さんの団へ交じって――」
俺は内山さんの大顎へ視線を送った。
「黒神、その件だ」
内山さんは正面を向いていた。
「うん?」
俺は話を促した。
「その件に関係して俺の団のほうでちょっとした問題があってな、コノヤロー」
内山さんが唸った。
「ああ、やっぱり駄目なのか。気にしなくていいよ。元々が無理筋だった。内山さんには何も関係のない話だし――」
俺は濡れたアスファルトへ視線を落とした。そのまま黙って歩いて十分程度だ。
うねうねとした路地を抜けて大通りに出たところで、
「黒神、あれが俺の団の使っている宿だ」
立ち止まった内山さんが大顎をしゃくった。
「へえ、立派なホテルだね――」
俺は呟いた。通りの向こうに十階建くらいのホテルがある。回転ドアの前にはドアマンまでいた。『ホテル・ニュージャパン』と建物のてっぺんに看板が出ている。
「――黒神、さっさと来い」
内山さんは横断歩道のないところを横断し始めた。四車線ある道で車通りが多かった。急停車をした自動車の何台かがクラクションを長く鳴らした。悠然と歩く内山さんは気にする素振りもなかった。
「ああ、うん――」
俺は車に跳ね飛ばされないよう祈りながら内山さんの背を追った。
内山さんが使っているホテルのロビーのソファでまばらに座った背広姿の男たちが、珈琲を片手に雑談をしていた。商談か何かだろう。ホテルの回転扉を抜けた俺はすぐ異変に気づいて足を止めた。前の内山さんが大顎で俺を促した。ロビーの中央に男の集団がある。俺が以前の仕事で見た顔ばかりだ。
内山狩人団の団員が全部集まっている。
「内山さん、どうしても、俺が行かなきゃ駄目なの?」
俺は訊いた。
頭の上にあった中折れ帽子を手にとって、内山さんは何も言わずに頷いた。
諦めた俺はロビーの中央へ――面倒事の発生源へ歩み寄って、
「ええと、八反田は一体どうしたの?」
無言の団員たちに囲まれた八反田は床で正座をしていた。
うつむいた八反田の顔はボコボコで青紫色だ。
どう見てもこれは誰かから一方的に殴られたあとだよね――。
「――すまねェ、黒神!」
内山さんが大声で言った。驚いた俺が視線を送ると開いた膝に両手を置いた内山さんは深々と頭を下げている。
迫力のある謝罪の姿勢だ。
「うおっと、いきなりどうしたの、内山さん――?」
俺は呻いた。
「頭をひとつふたつ下げただけで済む問題じゃねェのはわかっているんだがな。俺のほうはもう面目がねェから、こうして頭を下げるしかねェんだ」
内山さんが下から唸った。
「ああ、島村さん。これは一体どうしたの?」
戸惑った俺は副団長の島村さんへ視線を送った。
「黒神さん、正直すまんかった、この通りだ――」
島村さんも毛髪の足りなくなった頭を深く下げた。
話にならない――。
「――ええと、斎藤君、橋本?」
表情を消した俺は知り合いの二人へ視線を送った。
「黒神――」
斎藤君はうつむいて暗い呻き声だ。
「リサちゃんのことなんだ!」
橋本は顔を真正面に向けて熱く吠えた。
「まさか八反田もリサに乱暴を――?」
俺のこめかみが冷えきった。
「そ、それは違うよ、黒神さん。それは違うんだ、俺の話を聞いてくれ!」
俺の視線を察した八反田が叫びながら顔を上げた。
鼻の穴の両方から血が流れている。
その金髪を掴んだ内山さんが、
「うるせェ、黙れ、このバカヤロー!」
と、吠えながら近くにあったテーブルへ八反田の顔面を叩きつけた。
ぐちゃん!
「ぶっ、もげらっ!」
八反田の悲鳴だ。
「あーあ、八反田の前歯が全部折れて――」
俺は呟いた。内山さんがテーブルに突っ伏していた八反田を引き起こすと、そこには折れた歯が何本か転がっていた。あうあうと呻き声が漏れる八反田の口からはだくだく血が流れている。
「内山さん、俺には話が全然見えないよ。八反田は一体、何をしたの?」
俺が訊くと、
「黒神の宿だ」
内山さんが八反田を放り捨てるように解放した。
ホテルの硬い床に横たわった八反田は小刻みにピクピクしている。
これはじきに死んでしまうかも知れないね――。
「――ええと。俺の宿ってもみじのこと?」
俺は訊いた。
「そうだ。俺は黒神をサダの店へ――胡蝶蘭へ誘っただろ。お前の使っている宿の名前は、この
内山さんは床でピクピクしている八反田へゴミを見るような視線を送っていた。周辺にいる団員たちも瀕死の八反田に何ら同情している様子がない。
「うん、ああ、そうだったね。俺はあの狂ったラーメンを食べに行く前に八反田と少し話をしたよ。そのとき八反田へ俺の宿――もみじの場所を教えた」
俺は「おっかない集団だよなあ」と思いながら言った。
「そうだ、八反田もそう言ってる」
内山さんが頷いた。
「でもそれが、どうかしたの?」
俺は首を捻った。
「黒神。リサちゃんに乱暴をしたバカヤローどものことだぜ」
内山さんが顔を赤くして唸った。
「――うん」
俺は頷いた。俺のほうから内山さんには伝えていない。そうなると、内山さんはリサの件を小池主任あたりから聞いたのだろう。
「そいつらは黒神の使っている宿を――もみじを知っていただろ?」
内山さんが俺へ視線を送ってきた。
怒りの形相だ。
「ああ、そうだろうね。奴らはお宿の表へリサをこれ見よがしに捨てていったから――」
俺は呟いた。
「リサちゃんを痛めつけたバカヤローどもは、お前に恨みのある奴らだな?」
俺に顔を寄せて内山さんが訊いた。
「――ああ。それは間違いないと思う」
俺はそれだけを言った。
「黒神の使っている宿を特定したそいつらは、お前自身へヤキを入れようとしていたのかも知れんぞ、コノヤロー」
内山さんが声を低くした。
警告をしているような響きだった。
「あのとき――リサが乱暴されたとき、俺は胡蝶蘭でアソんでいたからね。この場合、俺だけが難を逃れた形になるのか――」
俺は言った。
少し間を置いて、
「――ああ、結局、黒神は胡蝶蘭でアソんでから帰ったのかよ。どの女を買ったんだ、え、コノヤロー?」
内山さんが訊いてきた。
小さな声だ。
「内山さん、その話は今しなくていいだろ?」
俺の返答だ。
これも小さな声だった。
「――ああ、それもそうだな、コノヤロー」
小さく頷いた内山さんが、
「とにかく、黒神は一匹狼で仕事をやっているだろ。だから、お前の宿を知っている奴は極端に少ない筈なんだ。俺だってこの
「そう言われるとそうだね。俺の貸し部屋に来客なんて、内山さんが何年か振りだったよ」
俺も頷いた。
「それをふまえてだ、黒神」
内山さんが床で呻いている八反田へ視線を送った。
「うん」
俺も八反田を見やった。
「リサちゃんがあんなことになったと聞いてな。見てわかるほど顔色を青く変えた奴が、俺の近くにいたんだよ――それが、
内山さんが吠えながら八反田の腹へ蹴りをぶち込んだ。
俺は蹴ってない。
「――げっふうっ!」
八反田が元気にのたうち回った。
まだ生きていたようだ。
「ああ、内山さん、もう暴力はやめておこう。これ以上やると、八反田が本当に死んじゃうぞ――」
俺は周辺の団員を見回した。誰か止めないのかなと思ったのだ。団員たちはみんな「八反田は暴行を受けて当たり前だろ」そんな態度で平然としている。
サダさんも言っていたけどね。
内山さんも内山さんの狩人団の連中も本当におっかないなあ――。
「このバカヤローは死ねばいいんだよ――なあ、
内山さんが怒鳴った。
「ふぁい、団長――」
八反田が震えながらも四つん這いの体勢になった。
へえ、八反田はまだ動けたのか。
細身だけど案外と頑丈だよなあ。
俺は感心をした。
「おい、
身を屈めて、内山さんが唸り声を聞かせた。
「すまんすまん、黒神しゃん。リサちゃんがしょんなことになるなんて、俺は全然、思っていなくて――」
八反田が涙声で言っている最中だ。
「回りくどい言い訳をするんじゃねェ、この、バカヤロー!」
内山さんが八反田の胸倉を片手で引っ掴んで立ち上がると、咆哮と一緒に右拳を八反田の顔面へ突き刺した。
一直線のものすごいパンチだった。
「みぎゃあ!」
そんな悲鳴を上げて後ろへぶっとんだ八反田は、暴行現場を囲っている団員の手でぽいんと戻ってきた。俺の足元でうつ伏せになった八反田の指先がピクピクしている。
「――まあ、そういうわけだ。黒神、八反田を好きなように殺していいぞ」
内山さんが淡々と言った。
もうこれ、八反田は死んでいるんじゃないかなあ。
怪訝に思いながらも、
「あのね、内山さん。わけもわからないうちに俺が八反田を殺してどうするの。それって俺が骨折り損をするだけだよ?」
俺は言った。
「黒神、おめェ甘いなあ。そんなのだと長生きできねェぞ、コノヤロー?」
内山さんが眉根を寄せて見せた。
いや、あんたが厳しすぎだろ。
それは言わずに、
「まあ、この様子だと、八反田に悪気はなさそうだしね――」
俺は床で伸びた八反田へ視線を送った。
「そうか。でもそれだと俺の気が済まねェからな。八反田に指だけでも詰めさせとくか?」
内山さんが真顔で言った。
「あのねえ、内山さん――」
俺はうなだれた。
「何だ、黒神、コノヤロー?」
内山さんが怪訝な顔になった。
「俺はヤクザじゃないんだから、八反田の指なんてもらっても嬉しくないよ。内山さんだってそうだよね?」
俺は言った。
少し待った。
俺をじっと見つめたままの内山さんからは返答がない。
俺は視線を巡らせた。
周囲にいる団員も全員が沈黙している。
「おい、八反田。一体、何があったんだ。俺に詳しく教えてくれ」
俺は溜息と一緒に腰を落として八反田の肩に手をかけた。
「く、黒神しゃん、ひいてひょれ。俺のひょれがの兄さんのしぇんぱいのともひゃちがきゅむらとおるのしぇわになってて――」
八反田が床から視線だけを上げて呻いた。
「――うん、何を言ってるのか全然わかんないから」
俺は言った。
八反田の前歯は全部折れているからね。
ガクッと顔を伏せた八反田は動くのをやめた。
「八反田が今付き合っている女の兄さんの先輩の友達が木村徹と仲良くしてた――」
斎藤君が暗い声で八反田のダイイングメッセージを翻訳した。
「そのツテを辿って木村徹が八反田と女のところへ訪ねてきたんだ。そのときに八反田は黒神のことを木村徹とその仲間へ喋った!」
橋本が吠えて教えてくれた。
「ああ、斎藤君、橋本、ありがと。八反田経由で俺のお宿の位置を木村徹が知ったって話になるんだな――」
俺は頷いて顔を歪めた。腑に落ちなかった点が、ここでようやく判明した。八反田から情報を得て、お宿もみじの周辺をあの白い4WD車で流していた『きむらとおるとそのおともだち』は、俺より先に玄関口を飛び出したリサへ目標を絞ったのだ。八反田と俺が交わしたのは何気ない雑談だった。それでも使っているお宿を言うべきではなかった。
これは俺のミスだ――。
「黒神、そういうことだ。木村徹かあ――事務所の応接間で喚いていたあの小チンピラのことだよなあ。あの、バカヤロー」
内山さんが俺の横で屈みこんだ。
「内山さん。八反田がやったことってそれだけなの?」
俺は訊いた。
「黒神。何本欲しいんだ、コノヤロー?」
内山さんは俺の質問を無視した。
「えっ、何が。何本って金のこと?」
首を捻った俺に、
「何がって八反田が今から詰める指の数だよ。そんなのは言わなくてもわかるだろ、バカヤロー」
内山さんが呆れ顔で言った。
「内山さん。さっきも言ったけど、俺は八反田の指なんかいらないってば」
「黒神。遠慮をしなくていいぜ」
内山さんは話がわかる男だと思う。しかしこの一点だけ、内山さんと俺の会話はまったく噛み合わない。
「ああ、いや、内山さん。本当にいらない。八反田の指はいらないから」
「黒神、そう言われても俺の気持ちとしてはだなあ――」
「俺はちょっと内山さんの世話になる予定だから気にしなくていいよ」
「それは小池からもう聞いてる。俺の団の車両に乗せたお前を区外のエリアまで移動させるだけなんだろ、コノヤロー?」
「うん、それだけでいい。そのあとは俺たちが全部やる。内山さんに迷惑はかからないと思うよ」
「そうか。黒神は俺に迷惑をかけるつもりがねェのか――」
「うん、それはないから、安心してくれ」
「――黒神、コノヤロー」
「えっ、まだ何かあるの?」
弱々しい呻き声を上げる八反田を眺めながらの会話を交わしたあとで、
「いや、それだと俺の気持ちの収まりがつかねェ。ここは落とし前が必要だろ。やっぱ、八反田の指を今から詰めるわ。おい、八反田、人差し指だけは簡便してやる。銃のトリガーが引けないとNPC狩人は務まらないからなあ。これって温情だぞ、俺に感謝をしろよなあ、コノヤロー――」
内山さんが懐からドスを引き抜いた。
ああ、やっぱりそういうのも用意してたのね。
「ひょえぇえぇえ!」
八反田が四つん這いで逃げだした。
結構、元気そうに見える。
今まで気絶したフリをしていたようだ。
よたよた逃げる八反田に詰め寄る内山さんのいかり肩へ、
「ああ、内山さん待って待って!」
俺は手をかけた。
「何だ、黒神、コノヤロー。やっぱりお前の手で八反田を殺したいのか?」
内山さんがでっかい背中越しに唸った。
慌てた俺は、
「ああ、いや、それは違う違う! じゃあ、もうひとつだけ俺から内山さんに頼めるかな?」
「ああ、喜んで協力をするぜ。何でも言えよ、コノヤロー!」
振り返った内山さんが目尻のシワを増やしてドスを後ろへ放った。
次の瞬間、
「ぎゃあ!」
内山さんの後ろですごい悲鳴が上がった。
八反田の尻に内山さんのドスがぶっ刺さっている。
これは痛そうだ。
俺はそれを見なかったことにして、
「内山さんの狩人団で、うちのリサをちょっと預かってほしいんだよ」
「――ああ?」
背を丸めた内山さんが俺を見つめた。
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