第10話 大きな犬のぬいぐるみ

 これ以上に熟成をするのは不可能だと思わせるまで芳醇な――。

 俺の少ない語彙で表現すると、連れ込み宿で味わったルリカの肉体はそんな感じだった。

 何度か繰り返した行為のあと、ベッドの上でとろとろ笑う裸のルリカから、

「黒神さん、今晩のルリカを独占するつもりはないの?」

 と、俺は誘われた。

 男冥利に尽きる言葉だ。二つ返事で頷きかけた気分を、愛想笑いで誤魔化した俺は仕事を終えたルリカを胡蝶蘭の裏口まで送った。そうしなくてはならない理由があった。BAR・胡蝶蘭・2でナンバーワンの娼婦らしいルリカのお値段は馬鹿のように高かったのだ。

「ルリカよ、お前は請求する金額をひと桁ほど間違えていないか?」

 俺の喉元にまでこの言葉が出かかった。冷や汗ならたくさん出た。今これを考えるのは野暮というものだろう。ルリカの肉体はともかくとして、その値段のことは綺麗さっぱり忘れてしまうことにする。そう言えば別れ際、俺はルリカから再開の約束をしつこく要求された。

 どうしようか、なあ――。

 俺は下へ向けていた視線を上げた。藤枝の繁華街を行き交うひとは多い。通行人の顔は様々な色合いの光で染まっていた。東海地方の東で一番大きかった静岡居住区が壊滅して以来、藤枝居住区は以前より賑やかな居住区になったのだ。通りを埋めた七色の人混みを、黄色いタクシーがクラクションで掻き分けていく。

 藤枝駅の南にある胡蝶蘭から歩いて帰ると俺のお宿は少々遠い。それでもタクシー代をケチった俺は歩いて帰ることに決めた。歩いているうちに、俺の身体についた女の匂いと熱は冷たい風に流されていった。狭い路地に突き出している『藤枝のお宿もみじ』の白い看板が見えたところで腕時計へ視線を送った。時刻は夜の十一時を回っていた。

 藤枝のお宿もみじの表にせり出た玄関の両脇には大きな提灯型の電灯が下がっていて、周囲には松が植えられた小さな庭もある。汚染前から何代にも渡って続いてきたらしいこのお宿は汚染後でも結構な風情を保っている。

「ただいまあ、っと――」

 お宿の玄関を潜った俺は大きな声で言った。その声はまだ女の色気で浮わついていた。自分の耳でもそれがわかった。顔もニヤついていたかも知れない。

「あっ、黒神さん――」

 受付にいた男が立ち上がった。この彼がお宿もみじのご主人だ。丸い黒ぶち眼鏡をかけて、アイロンを効かせた白いシャツに黒いズボン、その上に半袖のウール・ベストを羽織っている、上品な服装のお宿のご主人はモノクロ時代の邦画に出てくる美青年俳優のような顔つきで、男の俺から見ても見栄えがいい。これは間違いなく美男子だ。しかしこの美男子は頬がこけて痩せ身で幸が薄そうに見えるのも特徴になっている。彼の年齢は俺と同い年だと聞いた。

 このご主人の名を二階堂幸喜にかいどうこうきという。

 リサと俺がどんな時間帯に帰ってきても、受付にいるこの薄幸の美男子は儚げに微笑みながら落ち着いた声で挨拶をしてくれる。

 だが、今夜はその挨拶がなかった。

 俺は怪訝に思って受付の前で足を止めた。

 幸喜さんは立ったまま俺をじっと見つめている。

 何か言いたそうな顔だ。

「――あれ、女将さんまで、どうしたの?」

 俺は呟くように言った。幸喜さんの顔の後ろにある受付の奥から暖簾を割って和服の女が顔を出している。若女将の紅葉さんだ。いつみても睫毛が長い切れ上がった流し目が妖艶な美人だった。色艶も過ぎると妖しになるものだ。

 奥から出てきた紅葉さんは幸喜さんの横に並んで、

「黒神さん。今夜は随分と帰りが遅かったじゃないですか?」

 両人ともいつもの笑顔がない。

 特に紅葉さんは俺を責めているような口調だった。

「――二人とも、どうしたの?」

 首を捻った俺は、二階堂夫妻を交互に見やった。

 幸喜さんが無言で俺へ黒い棒状のキーホルダーがついた貸し部屋の鍵を突き出した。

 三〇五号室。

 キーホルダーにはリサと俺が借りている部屋の番号がついている――。

「――貸し部屋の鍵。もしかして、リサがまだお宿に帰ってきていないのか?」

 俺は受け取った鍵を見つめた。

「そうなんだ、黒神さん」

「私たち、リサちゃんが心配で――」

 二階堂夫妻が揃って頷いた。

「もう十二時に近いよね――」

 俺はロビーの古い柱時計に視線を送って呟いた。

「――黒神さん」

 幸喜さんが呼んだ。

「ん?」

 視線を戻した俺に、

「リサちゃんの身に何かあったのかも知れないよ?」

 幸喜さんが言った。

「あなた!」

 紅葉さんが鋭い声を上げた。

「何、紅葉さん?」

 幸喜さんが首を傾げると、

「あなた、滅多なことを口に出すものじゃありませんよ」

 紅葉さんが厳しい表情を亭主へ見せた。

「ああ、そうだね。これは僕が無神経だった――」

 幸喜さんがうなだれた。

「大丈夫だよ。俺にはリサの行き先にちょっと心当たりがあるから――外を探してくる。まったく、手間をかけさせやがって――」

 俺は受付に鍵を置いてお宿を出た。営業時間を過ぎた喫茶店は~もにいはもうシャッターが下りている。路地の両脇に並ぶ店の扉がすべて閉まっているわけではない。人口が過剰に密集している藤枝駅の周辺は夜半を過ぎても眠らない。コイン・ランドリーは停電しなければずっと営業をしているし、この周辺に多い旅館やら民宿やらの玄関からは明かりが漏れている。俺は表情を夜の緞帳どんちょうで隠した建物の口から漏れ出る光で、格子状の模様がついたアスファルトを、足早に抜けていった――。


 ――ちょっと前の話だ。

 俺は夕めしの時間になっても買い物から帰ってこないリサを探しに出たことがある。そのときのリサは、お宿の近くのゲームセンターでクレーンゲームに熱中していた。硬貨を何個投入したのかは知らない。お目当ての景品がクレーンの爪から落ちるたび、顔を赤くしたリサはぱたぱた地団太を踏んで悔しがっていた。どうもリサのお目当ては、垂れた耳がついた大きな犬のぬいぐるみらしい。どう見てもそれはケースのなかに並んだ景品のなかで一番大きくて高級そうなものだった。

「――おい、リサ。この手のクレーンゲームってのはな、一番目を引く景品が絶対に取れない仕組みになっているものなんだぞ」

 呆れた俺は声をかけた。

 振り返ったリサは眉を厳しく寄せたまま、ふんっと鼻息を荒げて、ケースのなかにあったぬいぐるみを指差した。

 どうもこれは、

「わたしのためにお前がこの景品をなんとしてでも取るべし!」

 そんなリサの意思表示らしい。

「帰るぞ」

 俺は短く言って背を向けた。速攻で腰にかじりついたリサが俺の歩みを強引に止めた。ラグビーのタックルみたいな感じだった。ふんふんと全身でワガママを吠えるリサはいつのもように超しつこかった。

 渋々ながら俺はクレーンゲームに挑戦した。案の定、一番大きな景品は簡単に取れない。硬貨投入口へ何度も何度も硬貨を放り込んで、俺はその犬畜生のぬいぐるみを脱出口へ導いたのだが、しかし、その犬畜生はサイズが大きすぎて肝心の脱出口にひっかかってしまった。俺が勝ち取った筈の犬畜生は取り出し口へ落ちてくる気配がない。

 詐欺じゃないかなあこれは――。

「――おーい、店員さん。景品がひっかかった!」

 俺は苛立って怒鳴った。へらへら笑いの若い店員さんがダルそうにやってきて鍵のかかっていたケースを開くと犬畜生のぬいぐるみをリサへ手渡した。大きな犬畜生を抱きかかえたリサは満足気に頷いた。

 俺は渋い顔だったと思う――。


 ――俺は以前にこんな出来事があったゲームセンターへ辿りついた。

 建物と建物に挟まれるようにして営業している店だからさほど大きいものではない。原色を使った派手な看板には『ゲームセンター・ストーム』という店名があった。看板の下に不良少年少女(らしい)グループが何人かでたむろっている。平日の夜半過ぎに出歩いている連中だから品性良好な少年たちとはとても言えないだろう。不良と言ってもこの彼ら彼女らはおそらく裕福な区民の子供だ。今の日本で暮らす子供は裕福なものだけが不良行為を許されている。ワルぶった服装でも優しそうな顔つきを見るとおそらくみんな、区が運営している学校へ通っているのだろう。高校生くらいの年齢だ。

 俺は視線を巡らせた。

 店の表にリサの姿は見当たらない。

 苛立った俺は近くにいた不良少年どもをとっ捕まえて、リサを見たかどうか訊いてみた。

「そんな子、見てない――」

「俺も見てないよ――」

「わたしも知らない――」

「知らないよね――」

 少年たちからは小さな声で返事があった。若い彼ら彼女らは俺のレッグ・ホルスターにあるリボルバーへチラチラ視線を送ってみんな怯えた表情だ。俺を私服の区内警備員と勘違いしているのかも知れない。NPC狩人は誰かの敬意を受けるような存在ではない。しかし、俺たちに恐れを抱いている人間は多いと思う。

 NPCだけではなくNPC化する前の人間を殺すのもNPC狩人の仕事だからだ。

「――そうか。ありがとう」

 不良少年たちへ短くお礼を言った俺はゲームセンターのなかへ入って、そこにいた店員を捕まえた。その彼は以前、犬畜生のぬいぐるみの件で世話になった店員さんだった。へらへらといつも笑っている感じの、その若い店員さんはリサと俺を覚えていた。

「――ああ、あのときの女の子。そう言えばあの子、今夜はウチの店でしばらく遊んでいたね。確かに見た記憶があるよ」

 へらへら笑いの店員さんが言った。

「今もリサはこの店にいるか?」

 俺は訊いた。

「うーん、お客さん。店のなかは見ての通りだからね――」

 へらへら笑いの店員さんは腰を伸ばしながら言った。店内にある業務用ゲーム機に飛び石のように座ってゲームをしている客は男性だけだった。対戦ゲームのある箇所に小さな人だかりができていたが、そこにもリサの姿はなかった。

 リサはここにいたらしい。

 だが今はここにいない。

 俺はゲームセンターから出て、リサが立ち寄りそうな場所――暇な時間を潰せそうな深夜営業の店を近い順番から訪ねて歩いた。そうして歩き回っている最中、区内警備員が使う紺色のハンヴィーが脇を通りかかった。深夜のパトロール中らしい。

 俺は両手を上げて、そのハンヴィーを停車させて、

「俺の相方が行方不明になったんだ。リサっていう名前の女の子なんだけどね。組合員だ。あんたらはリサの姿を見ていないか。ああ、俺も組合員で、名前は黒神武雄。申し遅れた」

 俺は窓が開いた運転席へ顔を突っ込んだ。ハンヴィーのなかにいた区内警備員は四人の男で、お互いが困惑した顔を見合わせた。しかし、そこは同業のよしみだ。無線で詰所と連絡を取ってくれた。

「――ご同業。力になれなくて悪いな。今のところ、リサという名前の迷子が保護されたという情報はないみたいだ」

 無線のレシーバーを持った区内警備員が申し訳なさそうな顔になった。

「――パトロール中、そのリサちゃんを見つけたら、あんたへすぐ連絡するよ、組合員ナンバー三七五六四号――黒神武雄組合員ね。連絡先は『藤枝のお宿もみじ』でいいんだな」

 そう言い残した区内警備員のハンヴィーは南へ走り去った。人口が多すぎる居住区で失踪者がでると発見は容易でない。実際、深夜を大幅に過ぎたこの時間帯でも通りを歩くひとの姿が絶えなかった。

 そのあとも俺はリサは探して深夜の街を歩き回った。風は冷たかったが、身体は火照って寒さを感じない。リサはどこにもいなかった。深夜の二時を過ぎたところで、歩き疲れた俺は、お宿もみじへ帰ることに決めた。入れ違いになったリサがお宿へもう帰っているかも知れない。俺はそうも考えた。

 まあ、これは希望的観測というやつだろうが――。

「リサちゃんは見つかった?」

 お宿の玄関を潜ると受付にいた幸喜さんが開口一番に訊いてきた。

 それで俺はリサがまだお宿へ帰ってないことを知った。

「黒神さん、私のほうで町内会へ連絡を回してみるわ」

 紅葉さんが受付にあった電話を手にとった。眉間が厳しい紅葉さんは俺を睨んでいるような顔つきだ。

「夜遅くに迷惑をかけて悪いね、女将さん――」

 俺は幸喜さんから貸し部屋の鍵を受け取ってお宿の階段を上がった。三〇五号室の貸し部屋を開いて電灯をつけると、リサのベッドの上の大きな犬のぬいぐるみが俺を出迎えた。

 汗になった俺はシャワーを浴びた。肌がひりひりするほど熱い温度にした。それで益々、俺の目は冴えてしまった。しばらくベッドで横になった。やがて、眠ることを諦めた俺はベッドに腰かけた。

 煙草が欲しいが手元にない。

 俺が嫌になったリサは家出でもしたのかな。

 確かに共同生活上でリサと俺は色々な衝突をしている。

 しかし、そのたいていは他愛のないものだった筈だが――。

 それに暗い貸し部屋を眺めると、リサの荷物はまだほとんどが置いてある。部屋の隅にある俺の背嚢の横だ。そこにはリサが大事にしているワンちゃんの顔の背嚢もあった。ベッドの下の蓋が閉まらなくなった衣装箱には、リサの大事にしているお洋服も全部あった。リサが愛用しているクリス・ベクターだって壁にかかった俺のライフル銃の横に並んでいる。失踪したリサがこの貸し部屋から持ち出したのは彼女のピンク色のお財布と、NPC狩人組合の組合員証明書くらいのものだろう。

「身分証明書だけは、肌身離さずに持ち歩くんだぞ」

 俺はリサにしつこく言ってある。俺が言うことはいつも右から左のリサだが(リサは耳がいいので聞こえていないわけではない)、この言いつけだけは必ず守っていた。何にしろ軽装のリサが家出をしたとは考えにくい。

 リサがお宿へ帰ってこれなくなったのかなあ、と俺は考えた。

 犯罪に巻き込まれただとか。

 交通事故にあっただとか――。

 俺の頭にはネガティブな結末しか浮かんでこない。居住区の治安警備は苛烈なまでに厳しいが、それでも犯罪発生率はゼロではないのだ。銃を持っていないときのリサは無力な女の子だ。彼女の場合、何かあっても悲鳴すら上げることができない。

 鬱々としているうちに、

「煙草が一本、一本だけでいいから今すぐ吸いたい」

 それだけを俺は考えるようになっていた。

 今の俺にできることは他に何もなかった。何もできないうちに、お宿の窓の左端に見えていた東の空が明るくなった。枕元にあった腕時計へ視線を送ると朝の四時三十分だ。まだ夜は明けていない。それでも、俺はベッドから腰を上げて外套を羽織った。

 もう一度リサを探しに行く。

 探すアテなんて俺にはひとつもないけど――。

 俺の手がドアノブにかかったところで自動車が急発進する音がお宿の表から聞こえた。踵を返した俺は狭いベランダへ出た。

 白い4WD車が狭い路地を走り去っていくのがかろうじて見えた。

「黒神さん、黒神さん!」

「たいへん、たいへん、リサちゃんが!」

 下から悲鳴のような声が聞こえた。

 この声は二階堂夫妻だ。

 二階堂夫妻はタイヤの軋む音を聞いて表へ飛び出したようだった。

「ああ、そんな大声を上げなくても今、見たからもうわかってる。すぐ、俺も下へ行くから――」

 俺は貸し部屋を飛び出した。


「リサ――」

 お宿の玄関口でリサと再会した俺の呻き声だ。

「リサちゃん、大丈夫? 立って歩けるの? 無理をしちゃだめよ?」

 紅葉さんがリサの肩を抱いて呼びかけていた。頷いたリサの唇に渇いた血がこびりついていた。白いブラウスはズタズタだ。紺色のロング・スカートもざっくり裂けて、擦り傷のついたリサのふとももから腰の部分まで見えた。下着はおそらく無いだろう。靴は履いていないリサの足の片方には靴下も無かった。リサの衣服はかろうじてリサの裸体を隠している状態だ。

 俺がのろのろと歩み寄るとリサが顔を上げた。

 左の眼球が内出血をしてルビーのように赤くなっている。その周辺も、内出血で色がついていた。傷ついた身体を支えるリサの両脚はガクガク震えていた。強く噛み合わせた歯もガチガチと鳴っていた。

 それでもリサは自分の足で立っている――。

「女将さん。俺はすぐに医者を呼んでくる。この近所に急患を見てくれる病院あったかなあ――」

 俺はリサと紅葉さんの横を呻き声と一緒に抜けた。

「――黒神さん!」

 紅葉さんは俺の背に鋭い声をぶつけた。

 俺が玄関口から出たところで振り返ると、

「私の旦那が今、お医者さんを呼びにいっています」

 鋭いままで女将さんが言った。

 切れ長の瞳が濡れて、刃物のように光っていた。

 紅葉さんは、俺に憤っているわけでもないのだろうが――。

 いや、やはり俺に対して憤っているのかも知れないな――。

「ああ、そうか、幸喜さんがね。女将さん、迷惑をかけて申し訳ない――」

 俺は視線を落とした。

 居住区は汚染前にあった無料の救急車というものが存在しない。

 必要な場合は病院側に連絡して、そちらが所持している車両を出してもらう形になる。これは応急処置がついた高級なタクシーのようなものだ。当然、金がうんとかかる。だが、どこも混雑している居住区内の道は自動車がまともに移動できないことも多い。急患がでた場合、近所にある病院の扉を直接叩いて医者を叩き起こしたほうがずっと早い。

 幸喜さんがつれてきたのは女性の医師だった。

 年齢は三十路がらみだ。

 乗りつけた黒いステーションワゴンからきびきびと降りてきた、黒いベリー・ショートヘアの女医は、「私は医者の風間久子かざまひさこだ」そう短く名乗った。黒いツナギの上に白いドクターコートを羽織って、フォックス型の眼鏡の奥にある眼光が異様なまでに厳しい風間先生は医者というよりも殺し屋のような印象だった。この先生自らが運転してきた自動車に乗せられたリサは彼女が経営している風間診療所へ搬送された。俺と幸喜さんもリサの付き添いとして同乗した。お宿の北にある風間診療所は背の高い木々に鬱蒼と囲まれた二階建ての白い建物だった。

 診療所のスタッフの手でリサは診察室へ運び込まれた。

 俺は診察室の前にある長椅子に座った。

 幸喜さんも俺の横に座った。

 そのまま三十分くらい待っただろうか。

「私の患者の命に別状はない。あるのは外傷だけだ。『内臓の一部』に傷はついているが、あのていどで後遺症は残らんだろう。だが、しばらく投薬と点滴は必要だ。二~三日の入院をしてもらう。お前らは用が無いから帰ってよし。明日になったらまたここに来い」

 風間先生が診察室のドアから顔を覗かせてぶっきら棒に言った。呆気に取られた俺は、俺の返事も聞かずにバタンと閉まった診察室のドアを見つめている。

「黒神さん、風間先生は不愛想で言葉足らずで乱暴ですが名医です。安心してください」

 横にいた幸喜さんがアンニュイな笑顔を見せた。

 次の日の午後、俺は風間診療所を訪ねた。

 休日のリサはいつも昼過ぎまで寝ている。

「午前中に行ってもリサの寝顔を見るだけだろうな」

 俺はそう考えた。

 受付の女の子に声をかけて階段を上がった。白い病室にはベッドが四つあった。ゆったりした上衣を羽織ったリサの他に入院をしている患者はいなかった。静かだった。窓際のベッドの上のリサは身体を起こして外を眺めていた。窓の近くにけやきの大木があった。広がった幹が西陽で黄色くなっている。出入口に突っ立ったままの俺に気づいたリサが顔を向けた。その顔に大きなガーゼが当てられている。

「ああ、このリンゴ食えるかな。リサは口のなかがまだ痛いんじゃないか――」

 俺は小脇に抱えたリンゴの籠へ視線を落とした。お宿を出るとき紅葉さんが、リサの着替えと一緒にリンゴをひと山持たせてくれたのだ。視線を上げると、リサが俺に頷いて見せた。

 食べるらしい。

 弱く笑った俺は、リサのベッドに歩み寄って脇の丸椅子へ腰かけた。

 果物ナイフも籠のなかに入っていた。

 俺はリンゴの皮を剥いた。

 リサは俺の手元をじっと見つめている。

 どうだ、リンゴの皮を剥くていどはお手の物なのだ。

 男一匹の生活が長かったからな――。

 歯槽膿漏ではない。

 リサは齧るたびに「くうっ!」と傷の痛みで眉間を歪ませつつ、リンゴ一個を丸々食べてしまった。

 根性があるというのか。

 食い意地があるというのか。

 負けず嫌いなのかも知れないな――。

「リサは何か他に欲しいものはあるか?」

 俺は笑いながら訊いた。顔を振っただけでリサは他の反応をしなかった。その動作も傷ついた横顔にある表情も鈍い。リサは様々な箇所が傷ついている。

 当然の話だよな――。

「――そうか」

 俺は視線を落とした。

 少しの間、俺は考えた。

 そうして、やはり訊かないわけにはいかないだろうと決意した。

「なあ、リサ――」

 俺はうつむいたまま呼びかけた。

 リサは首を傾げて俺を見やった。

「――リサは誰から乱暴されたんだ?」

 俺は無理に視線を上げて訊いた。

 リサは窓の外へ視線を送った。

「わからないのか。リサの知らない奴らだった?」

 俺は訊いた。

 反応はない。

「――言いたくないのか?」

 俺の声の調子が落ちた。

 窓へ視線を送ったままのリサが右手をすっと上げた。

 その人差し指が示したところには――。

「ああ――」

 頷いた俺は、ベッドサイドテーブルの上にあったメモ帳とボールペンをリサに手渡した。メモ帳にボールペンを走らせて、リサがそれを俺に渡した。その内容を確認した俺はメモを破り取って胸のポケットに収めた。

「――リサ、他に何か欲しいものはあるか?」

 俺はまた訊いた。

 声が硬かった。

 顔までが強張っていなければいいんだがなと俺は思った。

 リサは何のリアクションもせずに窓の外を見つめている。

 感情の動きを止めたリサは絵画のようだった。

「言えば俺が買ってくるぞ」

 俺は言った。

 何も反応はなかった。

 病室は静かだった。

「そうか。俺はそろそろ行くよ――」

 丸椅子から立ち上がった俺は、

「――ああ、明々後日には退院できるそうだ。そうしたら、リサ、外へめしを食いにいこう。病院のめしって不味いだろ?」

 立ち上がったあとに言った。

 リサが俺を見上げた。

 俺は何も言わずに待った。

 リサは小さく頷いた。

「――そうだろ。じゃ、俺は一旦、お宿へ帰るからな」

 頷いて返した俺は小さく笑って見せたあとに踵を返した。

 風間診療所の玄関を出たところで、俺は胸元のポケットからリサのメモを取り出して、その内容をもう一度確認した。

『きむらとおるとそのおともだち』

 メモには丸っこくて下手くそな文字でそう書いてあった。

 俺はリサに残った傷から想像をする。

 最初、リサをさらった木村徹はおそらく彼女を殺してしまう予定だった筈だ。だが、木村はそれをしなかった。リサはNPC狩人組合の組合員証明書を持ち歩いている。木村徹には人間を殺す覚悟があっても同じ組合員を殺す覚悟がなかったのだろう。あるいは、本人には覚悟があったのだが、周辺にいた人間がそれを止めたのか。詳しいことはわからない。ともあれリサは後遺症を残すような傷を作らずに返された。組合員同士の派手なトラブルが表沙汰になると最悪の場合、組合から除籍だ。むろん、トラブルになった相手へ一方的に危害を加えれば、これはただの犯罪者として区内警備員から追われることになる。

 この他にもリサが生きて帰ってきた理由がもうひとつある。

 リサは言葉を一切喋れない。

 彼女は自分の受けた被害を他人へ伝える手段が限られている。

 痛めつけるだけ痛めつけたリサを俺の元へ返しても木村徹のリスクは少ない。

 俺を痛めつけるのが本来の目的だとすると、それが最も効果が高いのだ。

 死人には金がかからない――。

 俺はリサのメモを胸元のポケットへ戻して歩きだした。

 喉が焼けるように渇いている。

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