第9話 娼婦とおでん
弱いわけではないと思う。
しかし、度を過ぎれば普通に酔うのが俺の酒だ。朝まで飲んでもウィスキー一瓶を空けるのは無理がある。
他人から奢ってもらったボトルを店でキープするのはどうかなあ。
ちょっと、格好が悪いよなあ――。
そう思いながら、俺はサダさんへ内山さんから奢られたバーボンのキープを頼んだ。
俺は貧乏性なのだ。
荒くれ七面鳥十二歳の首へ『黒神様』と書かれた小さな名札をぶら下げたサダさんが、
「黒神さん、黒神さん。せっかくウチへ来たんですから、女の子と遊んでいってくださいよ」
「それはどうしようかな。最近、生活が苦しくなったし――」
俺は視線を惑わせた。
サダさんがお勧めしてくる女の子はかなり危険なのだ。
「いいコがまた入ったんですよ。本当にいい女ですよ。きっと、黒神さんも気に入る筈ですから――」
サダさんが言った。静岡の店に通っていた頃の俺が何度も何度も聞いた台詞だ。この台詞に散々泣かされてもいる。
俺の返事を待たずに、
「ああ、
サダさんは近くにいた黒服――
「ハイ、サダサン、ワカタワカタ!」
カタコトで返事をした宇都は店の裏口へ走っていった。
「あ、サダさん、やっぱり今日はやめておく。お宿でリサが待っているだろうし――ちょっと待ってよ。ルリカだって?」
カウンター席から腰を浮かせた俺が、そのまま動きを止めて裏口へ視線を送っていると、
「――あっ、黒神さんなの?」
裏口から姿を現した赤いナイト・スーツの女が瞳を開いた。ゆるゆるとした長い髪と、甘く垂れた目尻が印象的な美女だ。
「ああ、本当にあのルリカなのか――」
俺の尻はカウンター席へ戻っていた。
「なぁんだ。黒神さんはうちの店のナンバーワンを――ルリカを知っていたんですか。耳が早いなあ――」
サダさんは横を向いて面白くなさそうだ。
「知り合いというかね。この彼女は俺の知り合いの所有物だったから――」
俺がそう言っている最中に、
「――黒神さん、生きてたのね。良かったあ!」
ルリカが俺に身を寄せていた。
香水の甘い匂いがする。
「お互いに、無事で何よりだったね。あれ――」
俺は前屈みになったルリカの胸元から意識的に視線を上げて首を捻った。
「――あら、どうかしたの?」
ルリカが笑顔を傾けた。
「ルリカは奴隷の首輪をつけてないようだけど――」
俺はその首元を見つめた。
細くて白い首だ。
鎖骨のあたりが特別に眩しい。
「――ふふっ」
笑ったルリカが身を起こして頬にかかった髪の毛を後ろへ送った。
「ルリカは藤枝居住区の住民票を買ったのか?」
俺はルリカを上から下まで眺めた。相変わらず、ゴージャスな
「――まさか」
ルリカが笑顔のまま言った。
俺のほうは首を捻ったままカウンター・テーブルの向こうへ視線を送ると、
「あんな高いもの、とても買えませんよ」
サダさんが肩を竦めて見せた。
§
外套の裾を揺らすほどの風はない。
藤枝の夜はまだ震えるほどの寒さではなかった。それでも、外を歩くと足元から冷気が上がってくるのを感じる。俺の左腕に絡んで歩くルリカも身を縮めているように見えた。BAR・胡蝶蘭・2の裏手には食い物の屋台が並んでいた。屋台の後ろではけばけばしいネオンサインの看板を掲げた連れ込み宿が多く営業している。そこへ出入りする男女も多い。男と男、女と女の組もいた。何を目的にしているのかはわかないが団体で入っていくものまでいる。居住区の繁華街の裏に入るとこれがそう珍しい光景でもない。
ルリカがおでんの屋台の前で歩く足を止めて、
「前のご主人様は、『屋台の食べ物は貧乏人が食うものだ』って嫌っていたのよね。私は結構好きなのだけれど――」
「ルリカの前のご主人様ってあのアブラ狸?」
俺は顔をしかめた。
「そうそう、そのアブラ狸――」
ルリカの笑顔が苦いものになった。アブラ狸の奴隷時代はルリカにとってあまりいいものではなかったらしい。視線で同意を交わした俺とルリカはおでんの屋台の暖簾を分けた。
「へい、いらっしゃい。ささ、座って座って!」
痩せぎすの鶴みたいな屋台の親父が愛想良く出迎えた。屋台には男性二人組の先客がいた。両方背広姿だ。外套を着たまま身を寄せ合っておでんを頬張る彼らは、どう見てもラブラブだった。汚染後、居住区へ異常に人口が集中した所為なのかセクシャル・マイノリティに対しての偏見が大衆からなくなった気がする。日本は異常事態がずっと続いているので、何を見てもみんな驚かなくなっているだけなのかも知れない。ゲイのカップルから視線を外すと、仕切りのある鍋は真っ黒な出だしで満たされて、そこで串に刺さったおでんのタネがぐつぐつ煮えていた。そこから細く上がる湯気はルリカの髪の曲線と似た形だった。
どうやら、これは静岡式おでんというやつらしいね。
俺は屋台の鶴親父へ焼酎のお湯割りを頼んだ。
ルリカも同じものを飲むと言った。
「ルリカはもう誰かの奴隷じゃないのか?」
俺は熱いコップを呷った。麦焼酎のお湯割りが入ったコップの底にある大きな梅干しが、視線の先でコロコロ動く。
「そうよね、今は娼婦よね――黒神さん。奴隷と娼婦はどっちがマシなのかしら?」
ルリカはコップの底にある梅干しを割り箸でズクズク突いている。
「わからんなあ――」
俺はおでんのこんにゃくを噛みながら言った。墨のような色合いの出汁に浸って煮込まれた静岡式おでんのこんにゃくは甘さが強くて確固とした味だ。それにダシ粉と青のりがたっぷりかかっている。
ルリカの皿にあるおでんには青のりがない。
「青のりって歯につくからお仕事中は食べません!」
ルリカは笑いながら屋台の親父へ言っていた。
「黒神さんとしては奴隷も娼婦も似たようなものってこと?」
ルリカが梅干しの虐待を終えて顔を上げた。
笑顔ではない顔だ。
「ああ、違うんだ。ルリカは区の住民票がないんだよな。モグリの奴隷って区内警備員に見つかると奴隷市場へつれていかれちゃうだろ。気軽に外を出歩いているがルリカは大丈夫なのか?」
俺は苦笑いで訊いた。
「私はちゃんとした身分証を持っているもの――」
ルリカは焼酎のコップに唇をつけて微笑んだ。
「――ええ?」
目を細くした女の横顔を、俺は目を丸くして見つめた。
「――黒神さんはルリカのを見たい?」
ルリカは俺へ視線を流した。
「それを俺が見ていいものなのか?」
俺は首を捻った。ルリカは偽造された住民票だとか組合員証明書だとか奴隷証明書を所持しているのかな。俺はそう考えたのだ。区の刑法上、公文書偽造は罰金刑でない刑罰が必ず科せられる重犯罪扱いだ。区内警備員に嗅ぎつけられた場合、その場で撃ち殺されても文句は言えない。
「――サダさんに怒られちゃうかも」
ルリカがハンドバックから赤い手帳を取りだしてそれを俺の手に渡した。
「――パスポートだよね。ええと、『KINGDOM OF CAMBODIA』――カンボジアだと?」
俺は呟いた。
「そうよ、今の私はカンボジア人なの。クロカミサン、チョムリアップ・スオ!」
ルリカがモツの串を左手に持った右の手のひらを俺に見せた。
「――ルリカ、何それ?」
俺は表情を消した。ルリカはこんな性格の――会話が成り立つタイプの女だったのか。失礼な話だが、どっぷり性奴隷の生活に染まった少々頭の弱い女というのが、これまで俺の持っていたルリカの印象だった――。
「これクメール語の挨拶らしいのよ」
笑顔のルリカはモツの串を噛んだ。
「へえ、よく知っているね――」
俺が呟くと、
「黒服にカンボジア人がいるから教えてもらったのよ。私、今はカンボジア人だし、挨拶くらいはできないと困るかなと思ってね」
ルリカが空にした串を左右に振って見せた。
「胡蝶蘭の黒服にカンボジア人ねえ――」
俺は視線を上へ送った。
「他にはフィリピン人やインドネシア人、タイ人に台湾人、ベトナム人とフィリピン人なんかもいるわ。胡蝶蘭の従業員って多国籍軍なのよ――」
ルリカは砕けた梅干しが躍る焼酎をぐいぐい飲んでいる。
「ルリカ、フィリピンを二度言ったぞ」
俺が指摘すると、
「あらやだ、黒神さん、そうだった?」
笑ったルリカは焼酎のコップを急角度に傾けて空にした。俺が頷いて見せると、目元だけで感謝を伝えてきたルリカが、屋台の親父に焼酎のお代わりを注文した。店の女を外につれ出したわけだからめしの払いは全部俺持ちだ。
「これって偽造パスポートだよな?」
俺が手元のインチキパスポートへ視線を落とすと、
「本物のパスポートなのよ?」
ルリカが横からずいっと顔を寄せてきた。
「ああいや、これどう見ても偽装だろ?」
俺は横目でルリカの顔を見やった。甘い美貌という言葉がしっくりくる女の顔だ。化粧は少々濃いかも知れない。商売柄、それはまあ仕方がないのだろう。
「黒神さん、それって本物なのよお!」
泣きそうな顔でくねくねするルリカは黒はんぺんの串を持っている。
「まあ、それは、いいや――パスポートに査証がついてるね。これは就労ビザか?」
俺は大根の串を食いながら訊いた。出汁が奥の奥まで染みてなかまで黒くなった大根だ。
「――そういうこと」
ルリカは黒はんぺんを口に咥えると、俺の手から偽造パスポートをひょいと取り上げてハンドバックへ戻した。
「なるほど、じゃあ、あそこに――サダさんの店にいる女の子はたいていが国籍を偽造した日本人なんだね。元は逃亡奴隷と言った方がわかりやすいかな?」
頷いた俺は焼酎を飲んだ。
「そうね、胡蝶蘭の従業員には元奴隷の女の子が大勢いるわ。
ルリカが弱く笑った。
「それはまた、ものすごい強運だなあ。あの警備が厳重な大農工場から逃亡をしてきたのか。よく生きて居住区まで辿り着けたものだよ――」
俺は目を見開いた。無償の労働力を――社畜をかき集めて複合企業体が運営する東海地方の大農工場は日本の――日本再生機構の生命線になっている。大農工場は外資を稼げる唯一の施設なのだ。汚染後十年生きている俺もまだ大農工場を囲う障壁の内部に入ったことがない。たいていの人間は大農工場のなかに入ると二度と出てこれない。
「でも、他所の国から来た女の子だってうちの店には多いわよ。名古屋港って国から出るのは難しいけれど、入ってくる分にはうるさくないらしいのよね。一番多いのは中国人かな。人民解放軍が作った西の
ルリカはおでんの卵をポクポク食べている。
俺はおでんのじゃがいもをぽくぽく食べながら、
「なるほどな。サダさんの店の女の子は全員、再生機構へ外国人として居住区在留申請をしているわけか。こうやって区の税金の大半を逃れてるんだな。ルリカの国籍は外国に――この場合はカンボジアか。カンボジア人には区内警備員も手だしができないってわけだ」
「大っぴらに奴隷制度があるのは日本だけですし。ただでさえ外貨不足の日本が外国を相手に問題を起こしたら面倒だものね」
頷いたルリカが焼酎のコップを傾けた。
「ルリカは詳しいんだな――」
俺は呟いた。
「――詳しくさせられたのよ」
ルリカが正面を向いたまま目をぐっと細くした。怒っているような表情でトンと卓上に置かれたルリカのコップには、その内容がもう残っていない。
「――ルリカはアブラ狸に売られたあと、すぐサダさんに買われたの?」
俺も焼酎のお湯割りをお代わりした。
梅干しはまるっと底に残っていた。
「梅干し、代えますか?」
屋台の親父が鉄瓶から俺のコップへ焼酎を注ぐ前に言った。本当に愛想がいい親父だ。いつ視線を送ってもこの親父は笑っている。
「ああ、そのままでいい」
俺のコップは熱い焼酎のお湯割りで満たされた。
「そうよ、私はサダさんに買われたの」
ルリカが空にしたコップを掲げながら言った。無言のまま笑顔で答えた屋台の親父が、ルリカのコップも焼酎のお湯割りで満たした。
「あっ、おとうさん、梅干し、梅干しもちょうだいな!」
ルリカが小さく叫ぶように言った。
「ああっ、こりゃあ、お嬢さん。こっちが気づかずにすんませんねえ――」
笑顔のまま頭を下げた屋台の親父が壺にあった梅干しを菜箸でひとつつまんで、ルリカのコップへ落とした。
「じゃあ、今のルリカは実質的にサダさんの奴隷になるの?」
俺はコップを手とった。
まだかなり熱かった。
「奴隷なのかな――それは、少し違うかも?」
ルリカが割り箸でコップの梅干しをズクズク突き崩しながら呟くように言った。
「違う?」
俺はコップを傾けながら話を促したが、
「そう、奴隷はちょっと違うの――」
梅干しを虐待中のルリカは曖昧な返事をした。
「じゃあ今のルリカは何なんだ?」
俺は首を捻った。
「いやだわ、黒神さん。今の私は見てのとおり娼婦よ。お客さんに私の
ルリカが割り箸を卓上に置いて笑った。
「――うん、それはそうなんだろうけど」
俺はルリカを横目で見やった。
「サダさんってすごくビジネスライクなひとだから――」
ルリカがまた視線を落とした。彼女の視線の先にあるコップのなかで砕けた梅干しが躍っている。
「――ねえ、聞いてよ、黒神さん!」
突然、大きな声を出したルリカがガバッと俺へ顔を向けた。
「うん、聞いてる聞いてる」
俺は二度度頷いて見せた。
ルリカは垂れていた目尻を吊り上げて、
「あの
「あ、そうなの?」
俺のほうは笑いを堪えた。
ルリカは大真面目なので笑うと怒りそうだ。
「――いえ、それは違うわね」
視線を横にやったルリカが、ツヤのある赤いルージュを塗った唇を親指で触れた。親指の爪にも赤いマニキュアが塗られている。
「――違うの?」
俺は笑いを堪えたまま訊いた。
「――サダさんってゲイなのよ」
ルリカが断定的な口調で言った。すると、同じ屋台の長椅子で、彼らだけの世界にいた背広のゲイのカップルが同時にルリカの方へ顔を向けた。二人とも神経質に眉毛を整えた、睫毛の長い若い男だ。耳には小さなピアスがある。どちらもそれぞれお洒落でハンサムだが、それがまた如何にもゲイな雰囲気を醸していた。
「サダさんがまさか――」
俺は苦く笑って見せたが、
「でも女の子が彼の周辺にいる気配は全然ないし――それでも、サダさんの舎弟はたくさんいるわ。もちろん、舎弟は全員が男よ――これって、ゲイよね?」
眉を寄せたルリカの疑惑は晴れないようで、俺に同意を求めてきた。
「ルリカはもしかして、サダさんの嫁の座を狙っていたとか?」
俺はルリカへ顔を寄せた。
「とにかく、サダさんはビジネスライクなのよ」
ルリカはプイッと顔を背けた。
図星だったのかも知れない。
「サダさんのどこらがビジネスライクなの?」
俺は笑った。
「私の借金を――奴隷市場で買ったときのお金を、あのお店で働いて返し終わったら、あとはお前の好きにしろって。花の命は短いからって。もちろん、お店は慈善事業ではないから、サダさんの儲けは私からしっかり取っているのでしょうけれど?」
ルリカはぐちぐちと言った。
「へえ、そうなんだ」
笑顔の俺は生返事だったが、
「そうなのよ」
ルリカは真剣な顔で深々と頷いた。
「ルリカがサダさんの店に作った借金はいくらなの?」
これは何となく言ってみた俺の意地悪だ。
「――それは内緒」
面白くなさそうにルリカが言った。商売女の口からお決まりのように飛び出てくる、お涙頂戴目的の嘘くさい不幸自慢か。目を背けたくなる現実をボヤかす為だけの、夢物語みたいな将来設計か。はたまた、他人から聞いた話をさも自分が経験したかのように語る安っぽい人生論か。
そのどれかかが今から始まるのかなあ。
そんな感じで意地悪く身構えていた俺は、
「へえ――」
と、声に出して感心をした。
ルリカは自尊心の強い、自立した、尊敬できる女だ。
酒が入って取り乱すこともないらしい。
「サダさんへ借金を返し終えたら、ルリカは晴れて自由の身か――」
俺は正面を向いて呟いた。
「自由だなんて困るわ」
呟いて返したルリカへ横目で視線を送ると、彼女はコップに半分ほど残った焼酎を覗き込んでいた。
「自由は困らないだろ?」
俺は少し笑った。
「女の身ひとつで外へほっぽり出されても困るわよ」
ルリカが眉を寄せた。
「まあ、それもそうだね――」
俺は苦笑いで焼酎を一息に呷った。
ルリカの言う通りだ。
俺もそれはよく知っている。
自由を保持する為には手段が要る。
俺の手段は
ルリカの場合はなんなのだろう――。
「サダさんは、ビジネスライクなのよね――」
ルリカもコップを手にとった。
俺は頬にルリカの視線を感じた。
コップに唇を寄せたルリカは品定めをするような視線を俺へ送っている。
目を泳がせた俺は、
「ああ、うん――」
と、意味のない返事をした。
無言のルリカは俺をまだ見つめていた。
俺は横目で確認をした。
彼女の顔にはっきりとわかる表情はない。
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