第2話 アブラ狸と奴隷の少年(ロ)

 俺はそのまま黙っていたのだが、

「ああ、たぶん、その木村徹だ」

 小池主任は笑顔のままで頷いた。

 俺はリサへ視線を送った。

 リサは少しだけ顔を傾けて見せた。

 さて、どうするかな。

 藪から蛇で、俺はまた弱みを小池主任に握られる可能性がある。

 しかし、木村徹の情報をここで引き出したい。

 俺がトボけ通した場合、別の案件で危険が発生しそうだ。

 少し考えたあと、

「――小池主任が言っているのは、静岡居住区で狩人団の団長をやっていた、あの木村徹のことか?」

 俺は訊いた。

「そうそう、その木村徹だよォ。黒神は奴と何かトラブルがあったのか?」

 小池主任が笑顔を消した。

「木村勇の弟は生きていたのか。案外としぶといよな。静岡居住区でくたばったと思っていたが――」

 俺は呟くように言った。

「それが生きてたんだよなァ。奴らの団は――木村狩人団は総勢で十五人だったか。全員、自力で静岡居住区を脱出したらしいぞ。トラックを何台か使ってなァ。あのとき、静岡駅の南では暴動が起こってひとが死にまくったが、自前の車両を使って西へ脱出した奴は、ほとんど助かったんだ。木村徹は運が良かったよな。まァ、俺だってそうだが――」

 小池主任の声が低くなった。

「小池主任、その木村徹がどうかしたのか?」

 俺は言葉を選んで訊いた。

「木村徹は黒神武雄のことを熱心に知りたがっていた。住んでいる場所だとか仕事の状況だとか、まァ、その他にも色々とな――」

 小池主任が俺をじっと見つめた。アブラ狸の黄ばんだ瞳の奥で、何かをあれこれ思案中らしい鋭い光がチラついている。

 どうやら、小池主任も木村徹と何か関係しているようだが――。

「小池主任、あんたが木村狩人団の担当をしているのか?」

 俺は低い声で訊いた。

「ああ、俺が木村狩人団の担当だった」

 小池主任も低い声で応えた。

「――だった? それって俺たちが静岡居住区にいた頃の話なのか?」

「ああ、そうだ」

「小池主任が奴へ――木村狩人団へ、組合の仕事を発注をしていたのか?」

「木村狩人団へ、俺は一度も仕事をくれていないぞ」

 小池主任がニタリと笑った。

「何でだ。組合員に仕事を提供するのが、あんたの役割だろう?」

 俺のほうは顔をしかめた。

「木村徹は見るからに頭の鈍そうなチンピラだろォが?」

 小池主任は木村徹を痛罵したが、

「――うん」

 俺は頷いただけだった。

 生きている人間の悪口は言わないのが俺の信条だ。

 我慢のできる範囲のなかで、ではある。

「俺は木村徹を相手にしなかったんだ。馬鹿を相手にしても俺は全然儲からないだろォ。だから、同じくらい使えない馬鹿の安藤へ木村狩人団の担当を回したんだよなァ――」

 木村主任が職員用デスクにいる安藤職員を見やった。安藤職員はたまに咳き込みながら緩慢な動作で電卓を叩いている。

 俺は顔を大いに歪めて、

「もしかしてな。小池主任?」

 その俺をリサが怪訝そうな顔で見つめていた。

「うーん、どうしたァ、黒神?」

 小池主任が片方の眉を吊り上げてぶ厚い唇を突き出した。

 驚いた表情を作ったつもりらしい。

 かなりイラっとくる顔だ。

 横目で視線を送ると小池主任の顔を見て、目尻を吊り上げたリサが殺気立っていた。

 俺は苛立ちを吐息と一緒に呑み込んで、

「静岡居住区にいた頃の話だぜ?」

「うーん?」

 トボけた顔のまま小池主任が俺の話を促した。

 俺は歯噛みしながら言った。

「あんたは木村狩人団へ回す仕事を横からさらって俺へ流していたのか?」

「おいおいおーい、黒神。人聞きが悪いなァ。その言い方だと俺がまるで泥棒みたいじゃないかァ。俺は安藤が忙しそうだったから仕事を代行しただけだぞォ。あいつは本当にすっトロ臭いからなあ。あれを見てみろよ、黒神ィ――?」

 大仰おおぎょうに目を見開いた小池主任が書類の山に囲まれて電卓を叩いている安藤職員へ顎をしゃくった。

 渋い顔のまま俺も安藤職員へ視線を送った。

 リサも無表情で安藤職員へちらりと目を向けた。

「――ほらなァ。今だってあのアホは残業代も出ないのに残業をしてるだろ。サービス残業なんてものはなァ、『んなものやなこった、てめえひとりでやってろ、バーカ!』って突っぱねれば簡単に回避できるからな。だいたい、金を取らずに働くなんてのは奴隷だとか社畜がやることだろう。黒神、違うかァ?」

 小池主任がぶ厚い肩を揺らして心底可笑しそうにげひげひと笑った。

 俺は顔をしかめたままだ。

 ただ、リサは軽く頷いて小池主任に同意した。

 リサとアブラ狸はもしかして性格が似ているのか?

 ハヤト君の件もそうだったが――。

「――小池主任」

 俺は視線を落として卓上へ呼びかけた。

「なんだァ?」

 鷹揚な態度で小池主任が言った。

「あんた、かなり面倒なことをやってくれたな?」

 俺の声は冷たい。

 うつむいた顔から送った俺の視線も冷えている。

「あのなァ、黒神。俺はお前に仕事を回してやったんだぞォ?」

 小池主任はぶ厚い唇の端を吊り上げた。

 目は全然、笑っていない。

 こいつはいつもそうだ。

「それで木村兄弟は俺を目の敵にしていたのか。くそっ、あのリア・サイトとバレルの件、何かおかしいと思ったんだ。俺自身は木村兄弟に恨まれることをひとつもしていなかった筈だからな――」

 これは俺の愚痴だ。

「黒神、木村徹って野郎なァ。ありゃあ、典型的な田舎者だぞ?」

 小池主任は空の茶碗を眺めている。

「――それは、もうよく知ってる」

 俺は空になった珈琲カップを見つめていた。

「あいつ――木村徹なァ。田舎者だから面倒なんだよ。木村徹は何を言っても余所者と打ち解けん。地元の人間だけで固めたあいつの狩人団は何をやるにしても中途半端な人数だ。だが、木村徹は自分の団の規模をあれ以上大きくできないんだな。余所者と打ち解けたら田舎者の人間関係は瓦解するだろォ。あの手の無能なチンピラにはそれしか――地元での繋がりしか取柄が無いわけだからなァ――なァ、黒神?」

 小池主任が冷めた視線を上げた。

「何だよ?」

 俺は顔を下向けたまま小池主任に視線を返した。

「お前、木村兄弟と何のトラブルがあった?」

 俺は小池主任には返事をせずに横目でリサを見やった。

 リサは正面を向いて無表情を装っている。

「『静岡居住区が壊滅したドサクサ紛れに、俺の兄貴は殺された』ってなァ。木村徹はカンカンだったぞ。奴の兄貴は――木村勇は鉛玉で頭をぶっ飛ばされていたらしい。そうなると木村勇を殺したのはNPCじゃないわけだ。木村勇が殺された現場は火砲店の事務所だって話だったが――」

 言葉を切って、小池主任は俺を見つめた。

 俺はリサの横顔を眺めていた。

 リサの表情は変わらない。

「――木村火砲店の事務所には、薬莢がひとつも落ちてなかったとさ。そうなると木村勇を殺した凶器は――リボルバーなのか?」

 小池主任の声に重量が増していた。

「犯人が床に落ちた薬莢を持ち去った可能性だってあるよな。プロの犯行ってやつだろ」

 俺はせせら笑ってやった。

「そうかもなァ。だが、木村徹は凶器をリボルバーだと決めつけていたぞ?」

 小池主任が両腕をソファの背もたれへ回した。

 その胸元には相変わらずジャラジャラと貴金属が輝いていた。

 たいていは金色のものだ。

「――小池主任」

 俺が呼びかけると、

「何だあ?」

 小池主任は片方だけ眉を吊り上げた。

「俺にトラブルは何もないよ。俺はずっと、できる限りの我慢をして、トラブルに巻き込まれない生き方をしているからな」

 俺は言った。

 感情のない声だった。

 ぶん、と鼻を鳴らした小池主任が、

「黒神、正直に言えよォ。金にならない面倒事は俺だってお断りなんだ」

「――じゃあ、正直に言う」

 俺は小池主任のぶ厚く脂ぎった顔へ唸り声と一緒に視線を送った。

「お、ほォ?」

 小池主任が両方の眉を吊り上げた。

「元はあんたの――小池幾太郎の責任だ。これから面倒になっても全部、文句を言わずに受け入れろよ」

 俺は吐き捨てた。

「――俺の責任? そうなのかァ?」

 小池主任はおどけた顔を俺に見せた。

 他人様ひとさまを馬鹿にしくさった態度だ。

 そうとしか思えない。

 俺の横で眉間を凍らせたリサが猛烈に殺気立っている。

「そうだよ、間違いない」

 苛立ったまま俺は頷いた。

「――まァ、それはいいや。黒神、やっちまえよ」

 小池主任が笑った。

「――何をだ?」

 俺は返事を期待していなかったのだが、

「何をって木村の弟をだよ。あいつは馬鹿の上に目障りだ。この前もここで――応接間で俺を相手に喚き散らしやがってな。あァ、あの馬鹿の顔を思い出すだけでもうざってえ。今日明日にでも消しちまえ」

 小池主任ははっきりと応えた。

 俺の視線の先にあったのは目だけが笑っていない満面の笑顔だ。

「――そんなに簡単に言うなよ。組合員同士の争いはご法度だろ。それとも何か、奴をったあとで、あんたは俺のところへ区内警備員を差し向けるつもりか?」

 俺は訊いた。

 小池主任は何も言わずにそのまま笑っていた。

「あんたにとっては都合が悪くなったから、俺も木村やつも両方ここで消えちまえ、って話なのか。そうなると、俺のほうでも考えがあるぜ――?」

 俺は唸った。

 事務所は何秒間か完全に沈黙した。

 リサが俺へ視線を送ってきたところで、

「――ああ、いやいや、黒神、喧嘩はするなよォ!」

 小池主任が大声を出して、

「まあ、不運にも味方の流れ弾に当たったりもするだろう。NPC狩人は危険な仕事だからなあ。黒神流に言うと『俺たちは運の無い奴から死んでいく』になるのかァ――?」

 そうぶつぶつと言いながら、卓上の地図へ視線を落とした。

 しばらくの間、俺はアブラ狸の顔を睨んでいた。

 リサも同じだった。

「――まァ、黒神団長さん。そんなわけでだなァ?」

 小池主任が顔を上げて笑った。

「どういうわけだ?」

 俺は顔をしかめた。

「今回の依頼、素直に受けてもらえるか?」

 小池主任がニタリと笑った。

 お互いの思惑が何であれ俺とこいつは共犯者だ。

「小池主任。先に依頼の内容を説明してくれ。なんだよ、こんな広い範囲、俺とリサだけでカバーができるわけないだろ?」

 諦めた俺は地図に記された広大なエリアを見つめた。

 赤い線で囲まれたのは藤枝居住区の北一線をほぼカバーする広大な領域だ。

 リサも地図を覗き込みながら小さく頷いた。

「ああ、そうだったそうだった。黒神、リサちゃん、今回の依頼はローラー作戦なんだよ。この依頼を受けた他の狩人団も、お前らと同じタイミングで区外へ出る。簡単に言えば、障壁から外に出たら横一線になって北上だ。ということでだな――この仕事の参加者を集めて打ち合わせをする。事前の会議だよなァ。これが今回の作戦の説明書になる」

 書類入れを漁った小池主任が青い背表紙の小冊子を俺に突き出した。

 俺はその小冊子をパラパラやりながら、

「何個かの狩人団で共同作戦か。かなり大規模なんだな――」

 これまで、他の狩人団と協力して行う依頼を、俺は組合から一度も受けたことがない。

 俺の不安を見透かしたのか、

「いつもとは勝手が違う。黒神、やれるか?」

 小池主任が言った。

「――まあ、俺は金がないからな」

 俺は曖昧な返事をしてやった。

「そうかそうか。会議は明後日の午前九時だ。場所はこの上の会議室。会議自体は昼前に終わると思うが――」

「これ、他の狩人団と合同なんだよな?」

 小池主任の言葉を遮った俺は、

「それだと俺達だけで――リサと俺だけが徒歩の移動では厳しいぞ。悪路の走破と仮の寝床に使える頑丈な車が必要だ。周囲でバタバタやられると、NPCが目を覚ますからな。二人だけでは防衛の人員だって厳しいだろう。小池主任。そこらの段取りや下準備は、どうすればいいんだ?」

 俺は一週間近くの行動計画が書き込まれた小冊子から視線を上げて、小池主任の脂っこい笑顔を見つめた。横から俺の手元の小冊子を覗き込んでいたリサも頷いて小池主任を見やった。

「まあまあ、そこらへんは俺が何とか調整をしておくから。とにかく、黒神とリサちゃんは明後日の会議に必ず来い」

 小池主任が言った。このアブラ狸はまるで信用のならない奴だが、それ以上に強欲な奴でもある。仕事となれば――そのたいていの内容は組合にある公金の横領なのだが――ともあれ仕事となればアブラ狸は誰よりも精力的に動く人間ではあった。

「――ああ、そう。細かいことは小池主任に任せていいのか。それでも、俺はあんたに感謝をしないよ」

 少し考えたあと、俺は小冊子を閉じた。

「おいおいおーい、感謝をしろよなァ!」

 小池主任が大声で言ったところで、

「――すいません。遅くなりました」

 ハヤト君がテーブル席へ戻ってきた。

 お盆には湯気の上がる珈琲ポットと急須があった。

「あっ、黒神さん、リサさん。珈琲のお代わりを――」

 ハヤト君は俺に身を寄せた。男子だがハヤト君は甘い匂いがする。それに、男子の匂いがはっきりと交っていた。それはアブラ狸がやらかした淫行の残り香だ。ご主人様よりも、俺を優先して接待をするハヤト君をアブラ狸が平坦な顔で見つめている。

「あっ、ああ、気を使わせて悪いな、ハヤト君。でも、俺たちはもうそろそろ帰るから――」

 動揺を抑えて俺は言った。

 契約書に書き込んでいた俺の文字が少し歪む。

 黒神狩人団、代表、黒神武雄、と――。

「――そうですか」

 ハヤト君がうなだれると、柔い髪が俺の頬を撫でた。

 距離が近い。

 ハヤト君、俺にそっちの趣味はないのだ。

 そういう趣味がない筈だと俺自身は考えているんだぞ――。

 俺は戸惑いながら、盆の上にあった珈琲ポットへにゅっと横から伸びてきた白い手をガッシと掴んだ。

「――!?」

 手を掴まれたリサが顔を振り向けて俺をキッと睨んだ。

 こいつはひとをすぐ睨む。

 可愛気がない。

 従順な奴隷少年のハヤト君とは大違いだよな。

「あのなあ、リサ。もう夕めしの時間だぞ。珈琲で腹をガボガボにしてどうするの?」

 俺はリサの手を掴んだまま言った。

 夕めしと耳にして、

「!」

 リサは瞳をキラキラさせた。

 顔をしかめて見せたあと、

「お給料の日はお宿の外でめしを食いたいか?」

 俺は言った。

 これは最近になってできた俺とリサの習慣だが――。

「!」

 リサが力強く頷いた。

「肉は駄目。肉は高いからな。それ以外なら許可する」

 俺はゆっくりと言った。

「!?」

 眉間を凍らせたリサが俺を睨んだ。

 歯ぎしりの音までさせている。

「あのな、俺の所為じゃない。小池主任がまたお前の分の報酬を出し渋ったんだ。お前も俺の横でその話を聞いていただろう。俺たちの生活は苦しい。贅沢は禁止だ――」

 俺は背嚢へ受け取った地図と小冊子を突っ込みながら、リサの怒りの矛先を小池主任へ逸らした。リサが今度は小池主任をギリギリ睨んでいる。

 本当に単純な奴だ――。

「――小池主任」

 俺はソファから立ち上がった。

「うーん?」

 生返事の小池主任がお茶を煎れにきたハヤト君を抱き寄せた。

「ひゃっ――!」

 女の子のような悲鳴を上げたハヤト君が小池主任の膝の上へ倒れ込む。

「ハヤト君の前の奴隷――ルリカはどうしたんだ。静岡居住区で死んだのか?」

 俺は背嚢を背負った。リサはまだソファの上で、もつれあうアブラ狸とハヤト君を凝視していた。

 リサはまたアブラ狸に誤魔化されている――。

「ああ、ルリカなァ。あれ売っちゃった」

 アブラ狸はハヤト君に覆いかぶさりながら言った。そのハヤト君は向こう側に顔を背けている。ソファの背もたれのある方向だった。

「おい、リサ。もう帰るぞ」

 俺が促すとリサはギクシャクしながら立ち上がった。

「――そうか、ルリカは売ったのか」

 俺はアブラ狸とハヤト君へ背を向けた。

「静岡居住区を脱出するときな。出費がかさんだからなァ。皇国軍はタカリ体質だろ。俺だってルリカはちょっと惜しかったんだけどなあ――」

 アブラ狸の声の下からハヤト君の悲鳴が途切れ途切れに聞こえた。

「――まあ、今日は帰る。車の件は頼んでおくぜ」

 俺はそう言い残して事務所の出入口へ足を向けた。

「おう、黒神、リサちゃん、お疲れ。依頼の方は頼んだぞォ――」

 アブラ狸が言った。俺のジャケットの袖を握って歩くリサは何度も振り返った。振り返るたび、リサは俺の袖を強く引っ張った。そのしつこさに根負けして、俺は一度だけ振り返った。応接用に並んだ黒いソファの向こうで、アブラ狸のぶ厚い背中が忙しなく運動を繰り返している。その下になったハヤト君が子犬のような声で鳴いていた。職員用デスクにいた安藤職員が「げっほん、げっほん!」と激しく咳き込んだ。

 俺は顔をしかめて事務所の出入口を潜った。暗い受付で細長い葉の観葉植物の植木鉢がひとつ、俺を見送ってくれた。

 リサはどんな顔だったのかは確認していない。


 §


 俺とリサが藤枝居住区で使っているお宿を『藤枝のお宿もみじ』という。

 藤枝駅の北東へ十五分程度、路地裏の裏側にあるような細道を歩いていくと、俺とリサが使っている定宿のこじんまりとした白い縦看板が見える。藤枝のお宿もみじは汚染前からある建物を使った和風の民宿で宿賃は安いし、経営者夫妻は愛想がいいし、すぐ隣にはレギュラー珈琲が飲めてモーニングが安い喫茶店もあるし、雑貨屋に火砲店と必要な店も近くにある。藤枝駅からも近いから悪くないお宿だと思う。洗い物だって女将に頼めば特別な料金無しでやってくれる。これが一番ありがたい。

 だが、もみじの美人女将が作るお宿のめしは、比類を見ないほどのマズメシだ。

 あの女将は、甘いか辛いかの味覚しか持ち合わせていない上、その二種類だけ異常に突出させた味つけを混ぜ合わせて工夫するオリジナルの料理を作って他人へ食わせたがる類の、本当に危険な味覚障害者だ。この非道な料理以外、女将さんは完璧な女性と断言できる。もみじの女将さんは、たいていの男が見て感嘆の声が漏らすほどの美貌の持ち主でスタイルは抜群で、さらには気立てまで良い。彼女は天女のように愛らしい女性なのだ。だからこそ余計に始末が悪い。

 この若くて綺麗で性格が良くて、ただ作るめしだけは尋常でなく不味い天女を嫁にした気の良さそうな藤枝のお宿もみじのご主人(彼は婿養子のような立場らしい)は、見るも無残に痩せ細っている。

 メシマズ嫁殺人事件か――。

 俺は震災後に新築された真新しい日本NPC狩人組合藤枝本部を出てすぐ東にある猥雑な繁華街を、くだらないことを考えながら歩きつつお宿へ向かった。俺の足はどんどん重くなった。リサは俺のジャケットの袖をぐいぐい引っ張っていた。お宿が近づくにつれてリサの顔が強張っていく。俺もかなり渋い顔になっていると思う。藤枝に来てあのお宿の――もみじのマズメシを食べた初めての夜だった。あの時、滅多なことで涙を見せないこのリサがさめざめと泣いていた。

 犠牲になった食材に哀れみを感じたのか、

 自分の味覚を虐待をされたと感じたのか、

 その他に理由があったのか、

 俺にはわからない。

 あえて、俺はリサに尋ねなかった。

 同じめしを食いながら俺だって泣きたい気分だったからだ。

 女将が眩いような笑顔と一緒に部屋へ運んできたのは秋刀魚の麦めしカレーという珍妙な食い物だった。カレーのルーはチョコレートのように甘く、内臓を抜いていない秋刀魚は半生で、麦飯はパリパリとしたシリアルのような食感の――。

 リサのワガママに屈したわけではないのだが、

「まあ、とりあえず報酬は入ったんだ。リサ、今日は外で食っていくか?」

 俺は弱く笑った。

「!」

「!」

「!」

 何度も頷いたリサがほっと頬ををゆるめた。

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