第9話 肉、肉、肉肉肉

 BAR胡蝶蘭からの帰り道だ。

 俺の足はひとの列ができた屋台で止まった。そこから立ち上る湯気が豚臭い。屋台の正面の垂れ幕には『本場博多のとんこつらーめん・とん助』と店名が書かれている。俺は中途半端に酒を飲んで腹ペコだ。思い返せば、美玲と外で食おうと考えていたのだが、それは失敗した――。

 泥沼のような思考から抜けたとき、俺は屋台の前にできたひとの列に並んでいた。

 いつの間にかだった。

「大将、本物の豚骨なの。それっぽい化学調味料のスープでなくて?」

 十分ほど待って席に辿り着いた俺は、屋台を切り盛りしていた大将へ訊いた。大将はハゲ頭に捩じり鉢巻きをした恰幅の良い親父だった。正反対にヒョロっとした若い男を従業員として使っている。

 従業員は奴隷の首輪をつけていた。

「――兄さん、あれを見な」

 大将が顎を横へしゃくった。俺が椅子から腰を浮かせると厨房の奥に並んだ青いポリバケツのなかに骨があった。豚の骨だ。豚の頭もある。スープのダシを取った後のものらしい。

「――本物の豚の骨だね。どこで手に入れた?」

 俺が腰を浮かせたまま訊くと、

「うちは大農工場メジャー・ファームの精肉場に、ちょっとしたツテがあるんだ――」

 大将が鍋で煮立つ湯に入ったザルへ黄色い乾麺を立てた。

「生の麺とまではいかないか――」

 呟いた俺は椅子へ尻を落ち着けた。

「そうしたいが無理だな。生麺を作る製麺工場が静岡居住区にはない――で、兄さん、注文は?」

 大将が視線を上げた。

「チャーシュー麺、大盛りね」

 俺は少し笑って言った。

「あいよ――」

 不愛想に答えた大将が二束と半分の乾麺を茹でだした。

 注文する前に値段を確認しなかった。

 大きなどんぶりを空にすると、お代に二千四百円を取られた。腹は十分満たされたし、久々に食ったとんこつラーメンは涙が出るほど旨かった。

 しかし、俺は顔をしかめて屋台をあとにした。


 §


 人宿のお宿こまつへ帰還して貸し部屋のドアを開けるた直後、

「おい、リサ、お前な――」

 俺は唸った。

 俺の声は震えていたから身体もかなり震えていたと思う。

「――?」

 頭から毛布をかぶったリサがベッドの上から俺を見上げた。ベッドの上や周辺に食い散らかしたものが散乱している。盆に乗った麦飯と具の少ない味噌汁。おかずはめざしを焼いたものだった。珍しく、デザートとしてプリンがついていた。これは空の容器が転がっていたからわかった。これはリサがお宿に頼んだ夕食だろう。リサはこれらを乱暴に食い散らかしたあと、非常食として背嚢の底へ突っ込んであったチョコレート・ビスケットを、ベッドの上でボリボリ食べていた。俺は区外で食料を切らした場合に限って甘いものを嫌々口にする。リサが食っているこれはアメリカへ本社を移転した日本企業が作った製品だ。

 高級な非常食だ。

 リサは部屋の小さな冷蔵庫にあった缶入りの炭酸飲料――ジンジャー・エールもガブ飲みしていた。一本目の缶はもう空だった。今、リサが目を細めて口にしているのは二本目だった。

 この馬鹿たれめが――。

「――『?』じゃない。このビスケットは緊急時の保存食だ。冷蔵庫の飲料もお宿のものだから有料!」

 俺はリサの足元にあったチョコレート・ビスケットの箱をひったくった。封が開いたので奪還してももう保存食としては使えない。手遅れだ。俺は手元にきたチョコレート・ビスケットの箱を睨んだ。

「!」

 カッと表情を変えたリサがブツを取り戻そうと俺に掴みかかってきた。

 目尻を吊り上げ、顔を真っ赤にして、ふんふんと鼻息も荒い。

「くっそ、諦めが悪すぎるだろ、お前は――それと、テレビは視聴時間に応じて、っかりとお宿の親父が金を取る。もう二度と見るな、テレビは禁止!」

 俺はリサを力づくで振り払って恋愛を拗らせた男女がドタバタやる映画を放映していたテレビの電源を落とした。今、日本にある地上波のテレビ放送局は日本再生機構が運営している局――NRHK(NipponRegenerateHosoKyoukai)がひとつだけだ。NRHKは偏向した情報を垂れ流すニュース番組以外、米国から輸入した貧弱なコンテンツをいつも放映している。ケーブルでコンテンツを配信するTV局なら静岡居住区にいくつかあるが、どれも小規模なものだ。

「!?」

 リサが俺をくっわっと睨んだ。

 人間には死ぬまで懐かないことを決意した野良猫のような態度だった。

「とにかく、テレビはもう駄目。ラジオなら嫌々ながら許可してやる。だいたいな、誰が金を払うと思って――」

 俺がそう言ってる最中に、リサはテレビの電源をポチポチしていた。頭に来た俺はリサをとっ捕まえてベッドへ放り投げた。軽い身体なので扱いは容易い。

 リサのおしりがベッドで跳ねてスプリングがギシギシ音を鳴らした。

「くっそ、お宿の親父に頼んで、このテレビを撤去してもらうか――?」

 俺を睨みながら、リサがベッドの上を指差した。ベッドの上にリサの服が散らばっている。ワンピースとか、カーディガンだとか、靴下だとかショーツだとかブラジャーだとかだ。

 ブラジャー本当に必要か?

 このちっぱいめが――。

「――なんだ、服がどうしたんだ?」

 俺は皮肉で笑いながら訊いた。

 リサが強く頷いた。

 まだリサは自分の服を指差している。

 毛布を頭からかぶって身体を隠したままだ。

 ああ、なるほどね――。

「――リサは着替えを持っていない。だから、汚れ物を洗えということか?」

 俺が訊くと、リサが二度も頷いた。

 俺はリサが脱ぎ捨てた服へ視線を戻して、

「うん、汚れてるな。どれも臭いそうだ。ああいやだな、他人の臭い下着を洗うなんて――」

「!?」

 キッと歯噛みをしたリサは、自分の服をぽいぽい放り投げたあと、俺の上半身や下半身や足元を次々指差した。

 何をしているんだ、こいつ――。

「――俺の服をよこせ?」

 俺が訊くとリサはブンブンと左右に首を振った。

 違うらしい。

 少し考えたあと、

「――ああ、リサは新しい服が欲しいのか。他人ひとの血がついた服は気持ちが悪い?」

 俺は訊いた。

「!」

 リサが力強く首を縦に振った。

「贅沢を言うな、贅沢禁止」

 俺は顔を背けてやった。

「!?」

 リサの尖った視線が俺の頬へ刺さるのを感じる。

 それを無視した俺は床に落ちたリサのワンピースを拾い上げた。

 染みついた他人の血は洗っても落ちそうにない。

 よく見るとリサの服はツギが当たってボロボロだ。

「――いや、これだけはリサの言う通りかも知れん。奴隷市場へ出すときに血で汚れた服装だと確かに商品の印象が悪くなる。俺はなるべくお前を高く売りたいからな」

 俺が言うとリサは眉を強く寄せたまま瞳を伏せた。

 伏せた瞳にかぶる睫毛が長い――。

「――明日、お前に新しい服を買ってやる」

 憐憫を恐れた俺は抑揚のない声を作って言った。俺には奴隷を飼うほどの稼ぎがない。NPC狩人組合員は区内の土地の所持を許可されている裕福な区民とは立場が違う。

「――!」

 ぱっと顔を上げたリサの瞳がキラキラ輝いている。

 現金な奴だな――。

「――買う服は一番安いのだ。期待するな」

 俺がそう告げると、

「!?」

 リサはまぶたを半分落としてまた睨む。

 若いし、健康だし、目つきは少し悪いが概ねで容姿はいい。

 だが、喋れない上に性格はかなり問題がありそうだ。

 おっぱいも小さい。

 こいつ、奴隷市場へ出品しても売れ残ったりしないかな――。

 俺は少し心配になりながら、部屋の隅にあった洗濯籠へ散らかったリサの服を全部放り込んで、

「ところで、お前、その毛布の下は――」

 そのベッドに腰をかけたリサは、きょとんと俺を見上げている。

 俺はリサが頭からかぶっている毛布を素早く剥ぎ取った。

 あっとリサの瞳と唇が開いた。

「やっぱりな――」

 俺は笑ってやった。リサの顔は強張った。見応えのない胸元を手で隠して、脚を閉じたリサは、ベッドの上で後ずさりして歯を剥いた。すぐにその背がコンクリの壁につく。まる裸のリサに逃げ場はない。リサの細い肉体からだの各所にある女の淡い兆候を眺めていると、俺の喉元がどんどん熱くなっていった。お目当ての美玲と遊べなかった俺は飢えている。俺はリサが作った距離を一息に詰めた。俺の身体の下になったリサが顔を背けると、瞳からこぼれ落ちた涙でベッドのシーツが丸く濡れた。身を捩ってバタバタと抵抗を続ける唇の端っこはチョコレートで汚れている。

 この世界で無料のものはひとつもない。

 俺はリサと格闘している間、声を出さずに笑い続けた。

 ほろ苦い匂いがする――。


 §


 昨晩、俺は身体の方々を爪で引っかかれたり、噛みつかれたりしながらリサを何度も蹂躙して屈服させた。長く抵抗したあと、結局、その抵抗が及ばなかったリサは枕に顔を埋めてベッドをぽかぽか殴っていた。

 真横でそんなことをされたらうるさくて眠れない。

「――俺の用は済んだ。ベッドから退去しろ。邪魔だぞ、お前」

 眠いしダルかった俺はそんな言葉をリサへ投げつけた。

 すると、激高したリサがまた抵抗を始めた。

 リサもベッドで眠りたいらしい。

「奴隷のお前はソファで寝ろ。それが普通だろ?」

 俺はベッドに腰かけて煙草を吸いながら説得したのだが、リサからゲシゲシと背中を蹴っ飛ばされた。面倒になった俺は結局ソファで眠った。部屋にあるのはひとり座れるだけの小さなソファだ。しかし、背もたれが倒れるので横になれないこともない。

 朝起きると、やはり俺の身体はミシミシ軋んでいた。

 リサはベッドの上で熟睡している。

 俺はしばらくリサの寝顔を間近で眺めた。

 かなり長い時間そうしていたのだが、リサの横顔はくうくうと気分良く寝息を立てていた。

 まったく、図太い奴だ――。


 午前中にお宿の隣にあるコイン・ランドリーで洗濯を終えた。今はリサの服や俺の服が、狭い部屋に張り巡らせたロープからぶら下がっている。洗濯をしたのはもちろん俺だ。わざとガタガタ音を立ててやったのだが、ベッドで丸くなったリサは目を覚まさなかった。

 朝食は食わなかった。

 昼近くになるまで寝ていたリサは、お宿の女将さんが俺の部屋に運んできた昼めし――甘辛く煮たイワシとキャベツの千切りを乗せた麦めしどんぶりの匂いで目を覚ました。

 リサは俺に感謝する様子もなく昼めしを淡々と食べ終えてシャワーを浴びた。

 俺は許可してない。

 そのあと、着るものがないリサは俺の白い開襟シャツを着た。

 ベッドの下から勝手に引っ張り出して着ていた。その他は下着すらつけていない。

 俺から十分な距離を取って注意深く行動するリサを眺めながら、机の上でリボルバーとライフル銃のクリーニングを終え、凝り固まった肩を回していると、背中をドスドス乱暴につっつく奴がいる。ソファから振り向くと、シャツの裾を左の手で思い切り下げながら、隠したい部分を強調したリサが顔を紅潮させて俺を睨んでいた。

 俺のシャツが伸びるだろ。

 やめろ、この馬鹿たれめが――。

「――俺のシャツが伸びるだろ。やめろ、この馬鹿たれめが。それで何の用だ?」

 俺は発音で命令したあとに訊いた。眉を強く寄せたまま、何かを持つ仕草をしたリサが、宙に文字らしきものを何度も書いて見せる。

「――書くものが欲しい?」

 俺が訊くと、リサはこくんと頷いた。

「ああ、お前は喋れなくても筆談ならできるんだよな――ほら、使え」

 今さら気がついたフリをした俺は、背嚢のポケットからメモ帳とボールペンを取り出して、それをリサに渡した。メモ帳とボールペンを手にしたリサは物を書く姿勢を作って、俺をじっと見つめている。

 質問を絶対にしない記者のような佇まいだ。

「――何か尋ねろ?」

 俺が訊くとリサは小さく頷いた。

「面倒な奴だな――」

 そう言ったものの、今日の俺は暇を持て余している。組合に行って仕事の依頼を受けたくても、このリサを売り払うまで身動きが取れない。居住区に帰ってすぐに(リサの所為で)出費がかさんだから遊びに行く金もない。

 少し考えたあと、

「――区外の集落で、リサは誰と住んでいた?」

 俺は訊いた。

 リサはメモ帳にボールペンを走らせて俺にそれを見せた。

 わたしのおじいちゃん。

 リサの下手くそな丸っこい字でそう書いたあった。

「そうか、リサは爺さんと一緒に暮らしていたのか――ああ、リサの親父さんやお袋さんは――」

 俺はそう言ってる途中で視線を落とした。

 同時にリサも視線を落とした。

 俺とリサはお互いが床を見つめている。

 俺は知る必要がないことだ。

 リサだって他人ひとへ語りたくもないだろう――。

「――リサの爺さんは集落で何をしてたんだ?」

 俺はそれ以上の沈黙を恐れて訊いた。

 おじいちゃんとりさは毎日、うらのお山でてっぽうをうってた。

 リサの下手な字が教えてくれた。

 鉄砲を売ってた、じゃない。

 鉄砲を撃ってた、だな。

 そう解釈をして頷いた俺が、

「山で鉄砲撃ちをして暮らしていたのか――爺さんは何を撃ってた?」

「いのしし、カモシカ、キジ、くま、たぬきとかとって食べる」

 これがリサの筆談の返答だ。

「安倍川上流集落では、猪だとかカモシカやキジや熊や狸の肉を食っていたと。いや、ちょっと待てよ、たぬき? 狸の肉って旨いのか――まあいい。とにかく、集落にいたリサは肉に不自由をしなかったんだな。それは素直に羨ましいが――」

 俺が呟くとリサは何度もうんうん頷いた。

「――だが、待てよ。リサと爺さんは山で活動していたのか? 危険な山のなかで?」

 俺は唸るように訊いた。区外の廃墟にいた生物をほぼ食い尽くしたNPCは今、日本の山中に最も多く生息している。特別、富士山麓の樹海はNPCが集結しすさまじいことになっているらしい。生態系の頂点に君臨するNPCは山中にいる生き物を片っ端から食い荒らしているのだ。しかし、この話の流れだと、どうやらリサと爺さんはNPCの棲む危険な山中に分け入って食い物を調達していたようだが――。

 しかし、どうやって?

 俺が訊く前にリサはメモ帳を突きつけてきた。

「今日のゆうごはんはぜったいにお肉をたべたい――」

 リサのメモを発音したのは俺の声だ。

 俺は押し黙った。

 メモ帳を引っ込めたリサが、

「肉」

 と、大きく書いてそれをまた突きつけてきた。

「肉」

 またやった。

「肉、肉、肉――」

 リサは同じ行動を五回も繰り返した。

「紙を無駄に使うな。それだって無料タダじゃないんだ」

 俺はリサの手をとっ捕まえた。

 その足元に破り取られたメモ用紙が散らばっている。

 リサはムスッと不満気な顔で俺を見つめていた。

 俺も見つめ返していると艶のあるリサの唇がこの形で動いた。

 お、に、く。

 本当にしつこい性格だよな、こいつ――。

「お前が住んでいた集落ではどうか知らん。だが、居住区内で購入する肉類は軒並み馬鹿高いんだ。食用の家畜は飼育のコストが高いからな――」

 俺はリサの手を放してマグカップの珈琲を飲んだ。

 随分前に作ったインスタント・コーヒーだ。

「――食えるだけでも、感謝をしろよ」

 俺は冷たくなったマグカップを空にしてから言った。リサは強く眉を寄せて、メモ帳とボールペンを床へ叩きつけると、俺の襟首を両手で引っ掴んだ。

「しつこいし、うるさいよ、お前はもう――」

 俺は顔を背けて呻いた。

 顔を赤くしたリサは、俺をぐわんぐわん揺さぶり始めた。

「干しておいたお前の服はもう乾いただろ。陽が暮れる前に行くぞ」

 俺は身を捩ってリサの乱暴な手を振りほどいてソファから立ち上がった。

「?」

 リサは怪訝な顔を少し傾けた。

「どこへ行くって買い物だろ?」

 俺は呆れ声を聞かせたが、

「?」

 顔の傾きを大きくしたリサはまだ気づかないようだ。

「お前の新しい洋服だ。要るんだろ。もう忘れたのか――」

 俺が言うと、

「!」

 慌てて部屋にぶら下がっていた自分の服やショーツを取り寄せたリサが風呂場へ駈け込んでいった。裾の浮いたシャツからリサのおしりの下半分が覗いている。

 警戒心が強いのだか、強くないのだか、よくわからん奴だ――。

 俺は卓上のリボルバーを手に取って弾を込めた。三五七マグナム弾を銀色のシリンダーに押し込みながら考える。

 俺がリサと出会った区外の夜だ。

 燃え盛る皇国軍の軍用トラック――FMTVへリサは駆け寄ろうとした。

 そこに誰が乗っていたのかはもう聞かなくてもわかる。

 攻撃ヘリで破壊されたあのFMTVに乗っていたのはリサの家族だ。

 おそらく、リサを養っていた爺さんだろう。

 あのとき、リサは半狂乱になって俺の手を振りほどいても、おかしくない精神状態だった筈だ。

 だが、リサは俺と逃げることを選択した。

 爺さんはリサに言い含めてあった。

「自分に何があっても、お前は必ず生き延びろ」

 おそらくこんな言葉だろう。集落全体が日本皇国軍の奴隷になることを決定したとき、リサの覚悟は既に固まっていた。だから、俺が酷い扱いをしても折れる気配がまったくない。本物の覚悟を固めた奴は死ぬそのときまで折れることがない。装填を終えてスウィング・アウトしていたシリンダーを戻すとヂャッと冷たい金属音が鳴った。

 レッグ・ホルスターにリボルバーを納めたところで、風呂場のドアが勢い良く開いた。振り返ると、他人の血が染み着いて汚れたワンピースの上に同じく汚れたカーディガンを羽織ったリサが立っている。どうやらリサは自分の髪に櫛を入れてきたらしい。いつもどこかしらが跳ね上がっているリサの長い髪が今は何とか落ち着いている。

 俺と彼女の視線が交錯した。

 リサの唇にほんの少しの笑みが浮かんだ。

 注意しないとわからないほどの小さな――。

「――支度はそれで終わったか。じゃ、行くぞ」

 俺は喉元にせり上がってきた熱い渇きを無理に呑み込んで貸し部屋のドアを開けた。

 ゾンビ・ファンガスの汚染が始まって十年近くだ。

 その間、ずっと俺はNPCと対峙して生きてきた。

 汚染が始まったとき俺の家族は全員が――おそらく全員が死んだ。

 汚染後に組んだ仲間もほとんどが死んだ。

 そのあと、俺はひとりで組合の依頼を受けるようになった。

 だから、何年もの間、息のかかる距離に他人がいたことがない。

 少なくとも俺の私生活の上に他人がいたことがない。

 そうなることを俺は意識的に避けてきた。

 俺は今、怯えている。

 動揺しながら廊下を歩く俺の横をリサは平然と歩いている。

 さほど、距離が近いわけではない。

 だが、俺の肌はリサの体温を確かに感じ取っている。

 これが俺の怯えの正体だ。

 幸いなことに明日は第四金曜日。

 特に月末は駅前で大規模な奴隷市場が開かれる。

 俺はそこでリサを売り払ってしまえばこの怯えとお別れできる。

 別れることになって欲しいと俺は願っていた。

 本当に俺はそう思ってるのか――。

 迷い始めると、俺の喉元にまた熱い渇きがこみ上げる。

 困惑した俺はリサへ視線を送った。

 リサは視線を返してきた。

 その顔にも、その瞳にも、俺に対する特別な熱は見当たらない。

 むろん、これはなくて当たり前だ。

 唐突に自分の考えが滑稽になった俺は声を出さずに笑った。

 ムッと眉を寄せたリサがまぶたを半分落として不満気な顔になった。

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