第8話 胡蝶蘭のチャイナ・ガール(ロ)

「サダさん、この酒はやっぱり何かで割って飲むのが正解みたいだ――」

 俺が二杯目のグラスを空にしたところで泣きを入れると、

「黒神さんがハイ・ボールですか、これは珍しい」

 サダさんがトニック・ウォーターと背の高いグラスを卓に出して笑った。横の美鈴が笑いながらウィスキー・トニックを作ってくれた。そうすると、ウィスキーの風上にも置けなかった魔導師の野郎が少しはマシな味の飲み物に変わった。

 やはり、女の手がウィスキーの味を左右するのだ。

「――美玲はいいのか?」

 俺はバック・バーを埋めた酒瓶を眺めながら訊いた。東海地方にある海路は米軍が維持している沼津港と名古屋港のみ。物に関しては何もかもが不自由な時代だ。そこに並んでいる酒瓶の種類はとにかく雑多だった。

「んんー?」

 俺の肩口に頭を乗せていた美鈴が生返事をした。

「日本に見切りをつけて中国へ帰ったらどうだ。確か、美玲は上海シャンハイっ子だろ?」

 俺はウィスキー・トニックのグラスを空にした。

「タケオ、何パカ言ってる。上海、帰ってもニッポン同じNPCたらけヨ――」

 美玲が怒りながらウィスキー・トニックを作ってくれた。

 俺はうつむいた美鈴の横顔を眺めながら、

「静岡居住区はどうもキナ臭いんだ。昨日、区外でロシア極東軍の攻撃ヘリが皇国軍をな――」

「――タケオ」

 マドラーで氷を回す音が止まった。

「ん?」

 俺が促すと、

「――同じヨ、どこも」

 美鈴が弱い笑顔と一緒にウィスキー・トニックを俺の手へよこした。いつも冷たい美鈴の手が暖かく感じるほどグラスは冷えていた。

「――そうか。向こうの――人民解放軍の支配下にある社区シゥーチィの様子はどうだ。以前、美玲は大阪で働いていたんだろ?」

 俺は冷えたグラスを噛みながら訊いた。

「――大阪社区ダーバンシゥーチィ?」

 美鈴が顔を傾けて俺を見つめた。

「――そうだ、今はそんな地名だった」

 一瞬、間を置いてから俺は頷いた。大阪から西は中国の支配地域になっている。在日米軍が日本から一時撤退した際、ロシアと口裏を合わせ喜々として日本列島へ侵攻してきた人民解放軍だが、今はきっと後悔しているだろう。不用意に日本への侵略を始めた結果、ヒト寄生型ゾンビ・ファンガスはユーラシア大陸の東半分まで飛び火した。本国が混乱を始めた人民解放軍は大阪から東への進撃を急遽停止した。北海道から攻め込んできたロシア極東軍も似たような状況になっている。

同郷出身なかまの噂を聞いている限りでは相変わらすヨ。静岡居住区も西もあまり変わらないのネ」

 美鈴がまた俺の肩へ頭を乗せた。

「そうなのか?」

 俺は身体を捻って美鈴の顔を覗き込んだ。

「中国、朝鮮、日本、ロシアも、どこも同じNPCたらけ。お金貯まったら、私、やっぱりアメリカへ行きたいネ。アメリカにはNPCいないテショ――」

 美玲は俺へ体重を預けたまま烏龍茶を飲み干した。俺の顔の横で美鈴の白い喉が動く。沼津ベースとアメリカを行き来する商船のなかに、アメリカへの密航を請け負う業者がいる。その噂に惹かれて西から静岡居住区ここまで仕事をしながら流れてきた。

 この店で初めて会ったとき、美鈴は俺へそう言った。

「それ、いつも言ってるよね。渡航資金がとうとう貯まったのか?」

 俺が訊くと、

「えっへへ――」

 美玲は子供のように笑った。

「――米国か」

「――アメリカ、ネ」

 俺と彼女は同時に呟いた。

「アメリカへの渡航手段はコンテナ船に潜り込んで密航くらいだろ?」

 俺は視線を落とした。原則、胞子と放射能に汚染された日本から海外へは脱出ができない。日本上空にある空路を使うのは危険で民間航空機は無いし、東海地方の東西にある二つある交易用の港も米軍の管理下だ。それでも輸送船に乗って日本の港へ乗り込んでくる奴らが確かにいるのだから商売人という人種は実に逞しいものだと思う。

「――怖いヨ密航。この前も海上で密航者、発見されて殺されたネ」

 美鈴が俺へ体重を預けてきた。

 軽いものだ。

「コンテナのなかには日本人と中国人に朝鮮人まで交じっていたらしいな。百人くらいか。全員が焼却処分されたって、ラジオのニュースで聞いたよ」

 俺は空にしたグラスを眺めた。

 毎日のように聞くニュースだ。

 美玲の言った「この前」とはまた違うのかも知れない。

「ネ、怖いネ――」

 美鈴が呟いた。

「それでも美玲は米国へ行きたいの?」

 俺は訊いた。

「アメリカ合衆国、胞子と放射能に汚染されてない土地いっぱいある。安心、安全、自由ネ――」

 美鈴が俺の前にあった空のグラスに手を伸ばした。

「――今のところはだよな」

 俺は言った。

「それとも、タケオ」

 美玲が下から俺を見上げた。美鈴はカウンター・テーブルに上半身を預けて、ぐでんと崩れた体勢だ。

「うん?」

 俺は星が散った彼女の瞳は上から覗き込む。

「もし、タケオが――」

 美鈴は眉尻を下げて口籠った。

「ま、遠慮をせずに言ってみなよ」

 俺は笑って見せた。

「もし、タケオが静岡居住区の住民票を買ったら、美玲を奴隷に――」

 美鈴の言葉を、

「――美玲、ちょっといいか?」

 カウンター・テーブルの向こう側からサダさんが遮った。

「――アイヤー、店長、パットタイミンクネ」

 美鈴がぐっと瞳を細くしてサダさんを見やった。

「美玲、木村さんが君をご指名だそうだ」

 サダさんは柔和な表情のまま言った。

「黒神さん、すいませんネイ――」

 俺の後ろで小太りの黒服が頭に手を置いて恐縮していた。

 この彼はサダさんが使っている店の若い衆だ。

「ああ、いいんだ。指名料を払ってないのに酒の相手をしてもらっていたからね。こっちが悪い」

 俺は視線を落とした。黒服にチップを握らせて、他の客についている女を横取りできるのが、この店のシステムだ。

 さっさと美鈴を店からつれ出せばよかったな――。

「――コメンね、タケオ、指名たから!」

 美鈴は怒ったように言って席を立った。BARで客に酒を飲ませ、要求があれば裏の連れ込み宿へ行って客と寝るのが美玲の仕事――。

「あっ、美玲。今夜、店を上がったらまた俺とメシを食いに――ああ、今日の俺は金がなかったよな――」

 俺はうなだれた。

 美玲がいなくなると、

「黒神さん、すいませんね。美玲は人気がある。ウチの稼ぎ頭だ」

 サダさんがウィスキー・トニックを作ってくれた。

 グラスを受け取りながら、

「あの達磨みたいな形の顔をしたブッサイクな中年男ね――」

 俺は美玲が呼ばれたテーブル席へ視線を送った。ダボッとした白いジャージで上下を揃えた男が美玲の肩へ手を回していた。どうもそいつがさっきから俺の背中へずっと視線を送っている。同じテーブル席で不細工な達磨のお仲間らしき連中が何人かいた。どいつもこいつも、うだつが一生上がらないチンピラのような恰好をした連中だった。

「――ああ、あれ木村ですよ。木村徹きむらとおる。あれでも奴はまだ二十代です」

 サダさんが言った。

「――あいつ、俺を睨んでいるみたいだけど?」

 俺は視線を前へ戻した。

「どうも喧嘩腰ですね」

 サダさんはまだ笑顔でその木村を眺めているようだ。

「――ああ、俺が美玲を独り占めにしていたからか。男の嫉妬?」

 俺は声を出さずに笑った。

「ああ、いえ、たぶん、仕事のブッキングでしょ。黒神さんは腕がいいから。組合で他人の仕事、横から取ったりしていませんか?」

 サダさんが笑顔を消して俺を見つめた。

「――仕事のブッキングだって? 俺と仕事がカチ合うってことは木村もNPC狩人なの?」

 俺がグラスに口をつけながら訊くと、

「ええ、木村はNPC狩人組合の組合員です。静岡居住区で結構前から小さな狩人団を運営していますよ。もっとも木村の団は半分以上愚連隊みたいなもので――」

 サダさんは美鈴のグラスを片付けながら言った。

「あいつ、サダさんの会社――任侠連ヤクザの関係者なの?」

 俺は声を低くした。

「――まあ、近いですね。駅の北で木村火砲店の店主をやってる木村勇きむらいさおっているでしょう。その木村勇は東海任侠連合会の会員です」

 サダさんが呟くような口調で教えてくれた。そう見えないのだが、サダさん――大門寺時貞だいもんじときさだもヤクザものだ。ドヤクザもいいところだ。仲間内では『菩薩のサダ』というあだ名で通っているらしい。近所のサウナで顔を合わせたとき俺も見た。確かにサダさんは菩薩の入れ墨を背負っている。あれはなかなか立派なものだった。

「へえ、そうだったんだ」

 そう言ったものの、俺は納得がいかない。俺が組合の依頼をひとりで請け負っているのも面倒な人間関係のトラブルをなるべく避けたいからだ。無駄な面倒事に巻き込まれないよう、できるだけの我慢を重ねて生きてもいる。

「――そうなんですよ。で、あそこにいる木村徹は、その木村勇の弟」

 サダさんが頷いて見せた。

「ああ、あの大嘘つき野郎の弟か。あそこの木村はヤクザの実弟なんだな。虎の威を借る狐が子分をはべらせて親分風を吹かせてるわけだ――弟も兄貴同様の屑だな」

 俺は空にしたグラスのなかへ吐き捨てた。

 サダさんが俺の罵倒で満ちたグラスを手に取って、

「黒神さんは木村あれと何かトラブルがありましたか?」

「弟のほうはないね。兄のほうだ。ちょっと前、俺は奴の――木村火砲店に寄ったんだ。そこの店主の木村勇が発注しておいた銃のパーツを何のかんの言ってよこさないんだよ。注文したパーツは、俺のライフルに使う着脱式のリア・サイトなんだけど――」

 俺は卓上を睨みながら言った。

「ちょっと、待ってください」

 マドラーでウィスキー・トニックをかき混ぜていたサダさんの手が止まった。

「うん?」

 俺は視線を上げた。

「黒神さんが今、使っているライフル銃って、M24のSWSスナイパー・ウェポン・システムでしたよね?」

 サダさんが早口で言った。

「うん?」

 俺が生返事をすると、

「言い換えると、レミントンM700系のスナイパー・カスタム」

 まだ早口でサダさんは言った。

「うん、まあそうだけど――」

 俺は苦笑いだ。

「銃本体の方にはリア・サイトが着脱できる機構がついている?」

 サダさんが熱っぽい口調のまま俺の前へグラスを押した。

「――うん。さすが、サダさんだ、よく知ってる」

 俺はウィスキー・トニックをひと口飲んでから頷いた。

「しかし、M24SWSの純正リア・サイトは結局、発売されなかった筈ですよ。これ、私の記憶違いでしたか?」

 真顔で尋ねるサダさんは銃の細かい部分が気になる性分なのだ。彼は若い頃、かなりのガン・マニアだったらしい。

 いや、今も現役か――。

 以前、本人から聞いた話だ。堅気だった頃のサダさんは名の通った会社の営業職をやっていたらしい。しかし、ある日唐突に寝る間も惜しんで働くのが嫌になったサダさんは菩薩の入れ墨を背負ったあと、某という大きな暴力団の盃を受けたという。脱サラしてヤクザに生きることを決めたサダさんだ。しかし、サダさんを拾った組のほうでは有名大卒で順当に企業エリートの道を歩んでいた経歴を見込んだ。ヤクザになったサダさんは当時世話になっていた組が運営していたフロント企業の――芸能人事務所の管理職に回されて、全然ヤクザらしくない仕事をやっていたのだとか何とか――。

 とにかく、聞いている限り、このサダさんは変な経歴のヤクザものだ。しかし、今も自分の店を経営して悠然と生きているのだから、元々が何をやってもデキる男ではあるのだろう。

 俺はこのデキる男が作ってくれた酒をチビチビやりながら、

「うん。それは俺も承知だったけどさ。でも火砲店の方の木村は俺の銃を見て、『うちなら、ピッタリ合うリア・サイトと、フロント・サイトがついたヘヴィ・バレルを調達できる』と言ったんだ。前々からM24にアイアン・サイトが欲しいなあと俺は思っていたからね。渡りに船だったし――」

「確かに、視界が遠くまで通らない街中でも使うとなると倍率の高いスコープは少々辛いですね」

 サダさんは腕組みをして頷いた。

「そうなんだよ。俺はたいていひとりで仕事をするから、長物の銃を二丁持ち歩くのは重量的に厳しいだろ――」

 俺はグラスを空にして両膝を卓へ置いた。

「駅の近くでやってる木村火砲店は結構規模の大きい店だ。客だってそれなりに多いように見えた」

 俺はウィスキー・トニックを作るサダさんの手元へ言った。

「はい――」

 サダさんがマドラーをカラカラやりながら小さく頷いた。

「だから、木村の店をちょっと試してみた。でも結果はこのザマだ。俺が発注した銃のパーツは高いものじゃない。盗られた頭金だって微々たるものだったけどさ――」

 俺はサダさんから受け取ったウィスキー・トニックを、

「――それでも、やっぱり気分は良くねェな」

 一息に飲み干してしまった。

「ま、任侠連ヤクザもピンキリですから。黒神さん、実のところね――」

 サダさんは用もないのに背を向けてバック・バーへ視線を送ると、

「木村兄弟は連合でもあまり評判が良くないんです。こっちの世界で言うと不義理が多い。兄弟揃ってハッタリ屋ですからね。まあ、その頭金は勉強料だと思って諦めるしかないでしょう」

「若頭さあ、それを先に俺へ教えてくれよ」

 俺はギャルソン風の黒いベストの下にある菩薩の入れ墨へ苦情を申し立てた。

「――黒神さん、煙草は要ります?」

 くるっと振り返ったサダさんは煙草の箱をひとつ持っていた。

「いつだって要るよ」

 俺が応えると目の前に煙草の箱がきた。箱には『幸運をぶち抜く』と英語で書いてあった。これは健康被害の塊のような悪い煙を吸うための棒だ。皮肉な銘柄だと思う。

「いつもの洋モクだね、これはありがたい――」

 皮肉に目を細めた俺は箱から煙草を一本引き抜いた。

 サダさんがマッチで俺の煙草に火をつけて、

「黒神さん、私はもう若頭ではないですよ。それどころか、ヤクザものでもないかも知れません。私は連合の会員ではありますがね。あれはもうヤクザ組織とは呼べません。やってることは商工会議所とほぼ一緒だ。ゾンビ・ファンガスのお蔭で今やヤクザも立派な堅気の仲間入りですから――」

 サダさんも思い出したように煙草を咥えた。日本がNPC発生で混乱に陥った際、民間で結成された自警団へ武器を供給したのは各地の暴力団だった。元より彼らは銃器を調達するネットワークがあったので、それを金儲けに利用したのだ。NPCの対応に使う銃器の需要が大幅に高まっていたから、かなり美味しい稼ぎだったのだろう。一部の上層部以外はたいてい貧乏をしていた野良犬どもが次々と成金になって指定居住区を闊歩するようになった。だが、皮肉なことにだ。暴力団の専売特許だった暴力を庶民が本格的に使い始めると、彼らの本来持っていたユニークな存在感は徐々に薄れていった。

 そのあとはサダさんが語った通りだ。

 今はヤクザと呼ばれていたひとはほとんど火砲店や風俗店を営む商人になった。当人が知らないうちに、公が彼らの商売を容認してしまったのだ。その彼らを取りまとめる組織は東海任侠連合会と呼ばれている。

 乱暴に言えば、この任侠連は暴力団組織だった残骸の集まり――。

「――でも、本当にそうかな。少なくともサダさんは全然堅気に見えない。これは、ドヤクザもいいところだよ」

 俺は灰皿へ煙草の灰を落としながらサダさんを見やった。

「――変な褒め方はやめてください」

 サダさんは煙草を指に挟んで柔和な笑顔を俺から背けた。

 本当に照れているらしい。

「――ああ、いや、褒めてはいないよ――それはそうと、木村って奴ね。本気で俺が気に食わないみたいだな。まだ睨んでら」

 呆れて言った俺は、もう一度、木村とその乞分こぶんのテーブル席へ視線を送った。

「そうみたいですね。ま、木村兄弟は典型的な田舎者ジモティですからね。都会人アーバンの黒神さんが気に食わないのでしょ」

 サダさんが笑った。

「サダさん、俺だって田舎者だよ?」

 俺は笑わずに言った。

「――ええ?」

 サダさんが眉根を寄せて俺をじっと見つめた。

「俺はゾンビ・ファンガス汚染が始まる前、遠州のド田舎に住んでいたんだ。前に俺、サダさんへ言わなかったかなあ――」

 俺も怪訝な顔を作って見せた。

「――いや、そうは見えないですね」

 サダさんは怪訝な顔のままだった。

 俺には田舎者と都会人の差がよくわからない。

 だが、サダさんは納得いかなかったようだ。

「――まあ、サダさん。今日はもう帰る」

 俺はサダさんの顔を眺めながら煙草を短くして席を立った。

「えっ、もうですか。木村なら気にすることはないですよ。私は黒神さんの味方ですし。ああ、そうだ、黒神さん。西からまた新しい娘が入ったんです。まだ年齢は二十歳前でね、若いですよ。肌はピチピチでおっぱいも大きい。ひとつ、黒神さん、裏で味を見てやってくださいよ。最初は安くしておきますよ」

 サダさんが早口で言った。こんな調子で美玲を紹介された俺はその彼女にハマって、これまで考えるのが嫌になるほどの散財をしてきた。

木村あいつだってサダさんの店の大事な客なんだろ」

 俺は苦笑いで言った。

「――はあ、黒神さん。余計な気を遣わせて、すいません」

 サダさんは小さく頭を下げた。

「おいおい、サダさんが頭を下げる必要は全然ないんだぜ――はい、これ勘定ね」

 顔をしかめた俺は、財布から5千円硬貨をひとつ取り出してカウンター・テーブルへ置いた。

「ああ、釣りは――」

「いいよ。要らない。それ、タバコ代だから取っておいて」

 俺はサダさんの言葉を遮って椅子の背もたれにあったジャケットを羽織った。

 頷いたサダさんの硬貨を取った手が引けると、そこに『幸運をぶち抜く』と英語で銘柄のついた新しい煙草の箱がひとつある。

 どうも、変に気を遣わせてしまったらしい。

 俺は後悔をしながら煙草を手に踵を返した。

「あ、バーボン、いいのが入ったら、また連絡をしますよ」

 サダさんが俺の背に言った。

「うん、ありがと――」

 振り返らずに俺は言った。

「女の子もね!」

 サダさんが俺の背へ追い打ちをかけた。柔和で飄々ひょうひょうとしてはいる。しかし、金のある奴からは取れるだけムシり取るのが、サダさんのヤクザな信条だ。この店は美玲のような上玉の女ばかりでもない。サダさんが俺に勧めてきた女の子は最初だけが――美玲だけが大当たりだった。他はほとんどが大外れ。その件に関しては何回も俺は泣かされた。それでも、俺は彼を憎む気になれない。サダさんは本当に不思議な男だ。

 店の外を出ると、風が冷たくなっていた。

 シャツの上に薄い外套だけでは肌寒く感じる。俺の好きな美鈴の肌とよく似た風だった。冷たくて柔らかい――今夜は美鈴の冷たくて柔らかい肉体からだを、あの木村が自由にするのだろう。俺の喉元に熱いものがせり上がってきた。だが、気分は良くなかった。

 不愉快だ。

 俺は胡蝶蘭の看板のネオンの下で小さく息を吐いたあと、立ち並ぶ屋台が噴く煙で霞む夜の繁華街を歩いて帰った。

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