第7話 胡蝶蘭のチャイナ・ガール(イ)
静岡駅周辺も南海トラフ大震災で大損害を受けた。雑然として無秩序な静岡駅周辺の街並みは元からこの周辺にいた住民や、東京から流れ込んだ避難民の手で少ない資材を使って再建されたものだ。元々の人宿町は碁盤目状にきちんと整理されていたらしい。それが今や道をひとつ間違えれば、すぐ行き止まりになる迷宮になっている。『人宿のお宿 こまつ』路地の脇に駄洒落のような名前が書かれた小さな白い看板がある。この看板を掲げた細長い八階建てのビルディングが俺の宿だ。
リサは狭苦しく薄汚い周辺へ胡乱な視線を巡らせていた。
「ついて来い」
俺は声かけて雑な手入れの花壇に囲まれた開き戸を引いた。その開き戸は重い上に錆びた
リサは警戒を維持したまま俺の後ろをついてきた。
ポリカーボネイトの板越しにある受付だ。
湯飲みを片手に雑誌を眺めていた宿屋の主人――小松の親父へ、
「――親父、今、戻ったよ」
俺は声をかけた。小松が眺めているのは、小冊子に折り込まれた、金髪の女性のヌード写真だった。近くにある歓楽街が宣伝目的で発行している小冊子だ。
返事がない。
俺も黙ったまま金髪女の豊満な肉体を眺めた。顔はアジア人のそれなので髪は染色したもののようだ。しかし、おっぱいは欧米人並みに大きい女だった。リサが俺を見上げた。俺は横目で視線を返して声を出さずに笑ってやった。リサが頬を赤くして眉間をピシピシ険しくした。鼻息も荒くなった。
受付の棚に置かれたラジオのスピーカーから、俺の聞いたことがない演歌がノイズ混じりに流れている――。
「――あ、黒神さんね。お帰りなさい」
小松は立ち上がって、壁に並んだ貸し部屋の鍵のひとつを手に取った。
散々禿げ散らかして焦土になった小松の後頭部へ、
「親父、ちょっといいか?」
俺は言った。
「――ああ、うん?」
生返事をした小松が顔を向けて老眼鏡を額へ上げた。
「二、三日、俺のライフル銃を受付で預かってもらえるかな?」
俺は背から下ろしたライフル銃を手に取って、ボルトハンドルを引いては戻すを繰り返し弾倉のなかの弾を全部抜いた。
「――へえっ!」
小松が受付の横にあるドアから素っ頓狂な声と一緒にロビーへ出てきた。チェック柄の赤い開襟シャツに革のベストを着た小柄な初老の男だ。手足が長い。この親父は背を丸めて歩く癖があって、その姿が体毛のない猿のように見える。
俺はその小松へライフル銃を手渡した。
「黒神さんが自分の相棒を他人の手に預けるとは珍しいねえ。私の宿に泊まるようになって、初めてじゃないですか。うん、記憶にはないなあ――どうしました、黒神さん。熱でもあるの? それとも、区外で胞子にやられて帰ってきたか?」
小松は眉根を寄せて心配そうな顔を見せた。
この親父は悪い人間ではない。
もちろん、善人でもないけどね――。
「――違うよ」
俺は言った。
「ああ、今日はお連れさんがいるから――」
小松はリサに気づいて視線を送った。
警戒した様子のリサが俺の身体に触れないていどの距離へ身を寄せてきた。
そのリサをじろじろ観察したあと、
「――この目つきは――黒神さんのところの団員さんかね?」
小松が首を捻った。
「まさか。俺は団を運営していないよ」
俺が苦笑すると、
「じゃあ、
おっと小松が目を開いた。
「!?」
リサが小松を睨んだ。
反応が機敏だ。
「それも違う」
俺は小さく頭を振った。
「――となると、この
小松が眉を寄せてリサを覗き込んだ。
俺の後ろへ隠れたリサへ視線を送りながら、
「当たり」
俺を中心に円を描いて移動を続けるリサを追いながら、
「へええ、黒神さんは奴隷を買ったんだあ。随分と儲けてますねえ。しかも、これは明らかに『趣味の』奴隷だよなあ――」
小松が唸った。
「俺の奴隷と言ってもね。今週末には売っちゃうつもりなんだよ」
俺が言うと、
「!」
ピタッ、と足を止めたリサが、目を丸くして俺を見上げた。
「奴隷を拾って売るとなると――はあ、じゃあこの奴隷を黒神さんは区外で捕まえたんだね。そりゃあ運が良かった。私もひとつその強運にあやかりたいなあ――」
小松が溜息をつくような調子で言った。高額交換レートのパチンコだの、麻雀だの、花札だの、手ホンビキだのと、ギャンブル全般が趣味の小松も俺と同じ運の信奉者だ。聞く限りでは毎回毎回、土地の権利書を持ち出すような大枚を張る荒々しいアソビ方をしているらしいのだが、所帯を持っている上でパンクせずに暮らしているのだから、かなりの強運の持ち主なのだろう。
俺がこのシケた宿を気に入っている理由でもある。
「ああ、そうだな、親父さん。俺は運が良かったよ。こいつ、週末まで俺の部屋に置いておくけど、変な気を起こさないでくれよな」
俺は手を突き出した。
「――あ、はあ」
気の抜けた返事をした小松が俺の手へ貸し部屋の鍵を落とした。
「こいつ、役所に奴隷登録済だから」
俺はそう言い残して受付から離れた。
リサが俺の後を慌ててついてくる。
コンクリ打ちっぱなしの殺風景な階段を使って二階へ向かう。細長い廊下は最低限の照明が確保されていた。俺とリサは硬い床へ足音を響かせながら歩いた。貸し部屋のなかからひとの気配は伝わってくるが廊下ですれ違ったひとはいなかった。
二〇五号室。
俺の借りている部屋だ。ドアを開けて脇にあったスイッチを入れた。貸し部屋の電灯が点く。そこにあったのは、四畳半に満たない見慣れた俺の貸し部屋だ。壁は床は廊下同様コンクリ打ちっぱなし。その床に擦り切れた硬い絨毯が敷いてある。部屋の装飾と同じく飾り気のないベッドとソファ(このソファは親父に頼んで調達してもらった)に、小さなテレビがひとつ。出入口の対角線上にある扉の向こうにユニット・バスがある。二階フロアの中央にある貸し部屋には窓すらない。風呂場には格子のはまった小さな窓がひとつだけだ。そこから見える景色は隣のビルディングの、漆喰が所々剥がれ落ちた壁だけだった。
俺はジャケットを脱いで背嚢の整理を終えたあと、
「ここで適当に休んでいろ」
ベッドに腰かけてムスっとしていたリサに告げてシャワーを浴びた。蓄積していた疲労が身体にからみついていた埃と一緒に、黒い排水溝へ吸い込まれる。停電の夜はこれが冷たいのでかなわない。そのついでに俺はカミソリで髭を剃った。外で仕事をするときは電動シェーバーを持ち歩いている。
風呂から出ると俺の私物をリサがとっ散らかしていた。奴の攻撃目標は途中の露店で買い込んできた日常で使う雑貨の入った紙袋だった。無言で歩み寄った俺はリサの手癖の悪い手を強く掴んだ。
リサがムッと眉を寄せて俺を見上げた。
俺も不機嫌な顔だったと思う。
「ライフル銃を宿の親父に預けておいて正解だったな――」
俺が言うとリサはプイと横を向いた。
リボルバーは風呂まで持ち込んだ。
さっぱりして部屋に戻ってきた途端、ズドンとやられたらかなわない。
風呂にあるカミソリも念のためにあとで隠しておくか――。
俺はそう考えながらこう告げた。
「第一金曜日と第三金曜日に駅前で奴隷市場が開かれる。そこで俺はお前を売る。三日の辛抱だ。それまでこの宿で大人しくしていろ」
リサが眉間を「!?」と凍らせて忙しなく部屋を見回した。
逃げ道でも探しているのだろうか。
改めて観察したところで何か新しい発見があるほど、ここは広い部屋でもないのだが――。
「――まあ、リサが逃げたければ逃げろ」
俺はベッドの下の箱から着替えを引っ張り出した。
清潔な下着と靴下。
ヨレた鼠色のハーフ・コート。
袖の無いベストに、白い開襟シャツ、それに黒いズボン。
肩の凝らない服装――。
服を着て振り返ると、
「?」
まだリサは怪訝な顔のまま、その場に突っ立っていた。
「奴隷のお前が区内をうろついたら、また誰かに捕まるだけだ。区外へ行けばNPCに殺される。さっき、お前も区内警備員に殺された逃亡奴隷を見ただろう。リサには逃げる場所なんてもうないんだよ」
俺は言った。
「!」
くっと顔をしかめたリサは斜め下へ視線を向けてうつむいた。小さな肩が震えている。握りしめた拳もプルプル震えているので、これは泣いているのではなく、怒り心頭の意思表示なのだろう。
俺は鼻で笑いながら大きなあくびをした。
疲れているが、どうするかな――。
考えていると、あくびの涙で歪んだ俺の視界いっぱいに、リサの不機嫌な顔が出現した。
リサは風呂場をビシッと指差している。
「――便所か。いちいち許可は取らんでいい。漏らす前に早く行けよ」
俺がぞんざいに言うと、リサはぱたぱた地団太を踏んだ。
どうも便所ではないらしい。
俺を睨みながらリサはまだ風呂場を指差している。
「――風呂へ入りたい?」
俺が訊くと、リサはぶんぶん二度も頷いた。
「石鹸は風呂場に置いてある。好きに使え。タオル類はベッドの下の衣装箱のなかだ。ああ、夕めしはさっき会ったお宿の猿親父に頼め。監獄ホテルの景観だが、ここは一応、民宿だからな。親父の奥さんが――女将さんがこの部屋まで食事を持ってきてくれる――」
「――お宿のめしの味は保証しないぞ」
俺は出入口のドアのノブに手をかけた。
そこで、俺のコートの裾が強く後ろへ引っ張られた。
振り返ると、
「何だよ、もう、お前はうっるさいな――」
俺を引き止めたのはリサだった。
この狭い部屋には俺と彼女しかいないのだから当然だ。
ジェスチャー・ゲームがまた始まる。
リサは出入口の扉と俺を交互に指差して、不満そうに身悶えをしていた。
三分間くらい考えたあとだ。
「――俺の行先を言え、か?」
俺は訊いた。
リサが首を縦に振った。
正解らしい。
「仕事の後だから、酒を飲みに出掛ける。俺の習慣だ」
俺が言うと、
「!」
リサが片手で俺の胸倉を掴んだ。
もう片方の手はリサ自身を指差している。
「――まだ何かあるのかよ、お前?」
俺はリサをじっと見つめた。
「!」
俺の胸倉を掴んだまま顔を近づけて、リサは何度も彼女自身を指差した。
長い時間、考え込んだあと、
「――俺だけが外食はズルイって話?」
そう訊くと、リサが力強く頷いた。
「何を言ってるんだ、お前は――そもそも、リサの首にあった入れ墨の所為だ。あれは皇国軍の奴隷を証明するものだからな。検問所でそれが気になった俺はお前の身体を売り損ねてあのバーボンを取れなかった。その埋め合わせに俺は外へ酒を飲みに行く。妥当だろ?」
俺は作った笑顔を見せつけてやった。
その途端だ。
「――
リサのつま先が俺のスネを直撃した。
悶絶した俺はその場で飛び跳ねた。
踵を返したリサはズカズカと歩いていって風呂場のドアを乱暴に閉めた。
「――元気な奴だな」
俺はリサに蹴られた足を引きずりながら貸し部屋を出た。灰色の廊下は静かで、さっきよりも温度が下がっているように感じた。
腕時計に視線を送ると夜の八時を回っている。
§
俺は人宿のお宿こまつを出て東へ向かった。道端で様々なめしの匂いを漂わせる屋台に胃袋を鳴らしつつ、歓楽街を歩いて抜けて行きつけの呑み屋の前だ。三階建てのビルディングの一階で営業をしている形のBARになる。ここの店主から訊いた上の階は店の従業員が使うスペースになっているらしい。『BAR・
俺は店の裏手に回って、
「――やあ、やっぱりここでサボってたな」
胡蝶蘭の従業員が四人固まって油を売っていた。全員、店で働いている若い女だ。三人の女は軽いカタコトの挨拶と一緒に接客用の笑顔を見せた。
「アイヤー、タケオ、生きて仕事から帰ってきたネ!」
そのうちの一人は俺に飛びついてきた。飛びついてきてくれた。仕事の発音が「シコト」だった。
以前、俺が訊いたとき、
「誰にも教わってないネ」
彼女はそう言った。接客をしているうちに日本語を上手に喋れるようになる程度の頭の良さだが、濁音を発音するのが苦手な中国の女。大きな蓮の花の柄がついた黒いチャイナ・ドレスを着た白い肌の若い女だ。
「――
俺は中国から来た女の――美玲の腰に手を回して笑顔を返した。
「アイヤー、そうかな?」
美玲は俺の肩に両肘をかけたまま笑顔を傾けた。彼女の年齢はいくつなのだろう。俺は訊いたことがない。美玲は幼く見えるときもあるし、俺と同年代に見えることもある。二つお団子を作った髪形だから顔はかなり幼く見える。チャイナ・ドレスでは窮屈そうな胸、細くくびれた腰、スリットから覗かせた白い生脚は長くて、
「お店、寄ってくでショ?」
美玲が俺の腕へ柔らかく絡みついた。
「うん、もちろん、そのつもりできたよ」
俺は美鈴と一緒にBAR胡蝶蘭へ裏口から入店した。裏口から入場できるていどにこの店へ通い詰めているというわけ。店の奥から歌声が聞こえきた。女性歌手が歌うスロー・テンポなジャズ・ソングだ。俺は曲名も歌手の名前も知らない。でも、誰もがどこかしらで耳にしたことがありそうな歌――。
店内の中央には大きな水槽がある。そこをアロワナが一匹、悠々と泳いでいた。この店の経営者はこの大きな熱帯魚を飼うためだけに非常用電源まで調達したらしい。テーブル席では客の男たちが店員の女を相手に酒を飲みながら戯れていた。
俺と美玲はカウンター席へ並んで座った。
「――バーボンにする? タケオ、アメリカのバーボン大好きネ?」
横の美玲が笑いかけた。
美玲は毎度毎度こんな感じで俺の懐を豪快に削り取る。
「お、いらっしゃい、黒神さんは、バーボンかな?」
バーテンダーも俺に声をかけた。
「うん、そうだな、今回の仕事も無事に終わったし――ああいや、サダさん。今日は安いので頼むよ。大農工場製のウィスキーね。一番、安いやつだ」
頷きかけた俺は慌てて訂正した。この痩せたのっぽのバーテンダーはアロワナのために非常用電源を調達したサダさん。バーテン姿だがこの店の
そのサダさんは少しの間、俺の顔を眺めていた。整った顔つきは柔和だが、その目尻が切れ上がって眼光が鋭い。袖をまくったシャツの袖から見える腕が密度の高い筋肉で覆われている。
俺が顔をしかめて見せると、
「――かしこまりました」
サダさんは唇の端っこを歪ませて背を向けた。
まあ聞かないでおこう。
そんな態度だった。
「としたとした、タケオらしくないネ!」
美玲は容赦がなかった。
ま、女はこうだよね――。
「うん、仕事が終わった直後に予想外の出費があってね――」
俺は苦く笑って見せた。
「――また、タケオは他の女の子に出費? 浮気良くないネ」
美玲は瞳をぐっと細くして俺を責めた。
なじる吐息で俺の耳の温度が上がる。
「いや、無駄遣いでなくて仕事の投資だから――」
しらばっくれた俺を美鈴はじっと見つめている。
サダさんが四角いウィスキーの瓶を俺の前に置いて、
「黒神さん、何かで割りますか?」
「――うん、氷だけで」
俺が言うとすぐアイス・ペールがカウンターの上にトンと出てきた。
俺は酒を割って飲まない。
いつもそうだから、サダさんも一応訊いただけだ。
「はい、何かおつまみは――?」
サダさんはカウンター・テーブルに手を置いて、そこに体重をかけた。
「つまみもいらない」
俺の返答だ。
「酒を飲むときは、何か食いながらのほうが身体に良いですよ――」
サダさんは店内の様子を眺めているようだった。俺が視線を後ろへ送ると、テーブル席は半分が埋まっている。
平日の夜八時でこの客足ならまずまずと言ったところだろう。
「――ネ?」
美玲がサダさんの言葉に同意するような仕草を見せながらウィスキーを作ってくれた。氷を入れてウィスキーを注ぐだけだ。それでも、いい女の手で作られると酒の味が違う、ような気が俺はしている。
俺は美鈴からグラスを受け取って、
「酒のつまみはいらないよ。美鈴は何か飲む?」
「烏龍茶」
美鈴が即答した。
「――ン」
待ち構えていたように、サダさんは背の高いグラスへ注がれた烏龍茶を卓へ置いた。烏龍茶に氷は入っていない。季節は秋深まる頃合いで暖房も冷房もいらない気温だ。ウィスキーのグラスを呷るついでに視線を上へ送ると、天井についたシーリングファンが、店内にある空気をゆるゆるかき回している。
うわあ、本当に――。
「くっそ、大農工場製のウィスキーは何かで割ってもロックでも平等にひどい味だ。サダさん、悪しき平等主義者ってやつだよね、この野郎は――!」
俺は卓の四角い瓶を睨んだ。そのウィスキーのラベルには黒いローブ姿の男がウイスキー・グラスを掲げるイラストと一緒に『
もしかすると世界で一番、安い野郎かも知れない。
「――アハハッ!」
サダさんが顎を上げて笑った。
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