第5話 静岡居住区(ロ)
ルリカのおしりがあった空間をまだニギニギしながら、
「あー、それで黒神。その女の子は――」
小池主任がリサへ視線を送って、頭頂部の髪よりもずっと色の濃い眉毛を吊り上げた。
リサも小池主任へ視線を返した。
はっきりとわかる表情はなかった。
「小池主任、仕事を終わらせる前に、ひとつ訊いておきたいんだ」
俺は言ったが、
「――うーん。何だァ?」
生返事の小池主任はまだリサを眺めている。
「今回、俺があんたから受けた偵察依頼だよ。皇国軍がやった
俺は声を低くした。
「あっちゃー、それ知られちゃったかァ!」
目を丸くして広い額を「ぴしゃん」と叩いた小池主任が大袈裟な表情を作った。
「俺が偵察した区域の南西の集落で、皇国軍は奴隷狩りをしていたんだろう。違うのか?」
俺の方は目を細くした。
「黒神なあ、皇国軍の注文を組合としてはどうしても断り辛くてな。
腕を組んだ小池主任はぶ厚い笑顔のままだった。
「俺があんたから受注した依頼――安倍川の上流にあった集落の偵察だ。内実は皇国軍の手が回らない場所にいた生存者の確認だったな。俺は帰り道にその皇国軍と鉢合わせたんだ。ロシア極東軍の攻撃ヘリに追い回されていてな。たぶん予定より早く引き上げる羽目になったんだろ。それで俺は死にかけた。皇国軍に撃墜されたロシアの馬鹿でかいヘリが、俺の頭の上へ――」
俺が言っている最中に、
「あァ、ロシアのヘリ部隊なァ。皇国軍の基地でも大騒ぎになっていた。あれはまあ、完全にこちら側の想定外ってやつでなァ――」
小池主任は発言を重ねようとしたが、
「――黙れ」
俺は唸った。
小池主任は口を閉じた。
厚ぼったい唇は笑みを作ったままだ。
「南の逃走経路でドンパチをやられていたら、俺は死んでいたかも知れん。今後、真意を隠した依頼をよこした場合、小池主任、俺はあんたを真っ先に
俺は言った。
小池主任は分厚い笑顔のまま俺を見つめている。
「――本気だぜ」
俺は奴の目へ視線を送り込んだ。
アブラ狸の黄ばんだ目の奥で何やら思案をする冷たい光が走った。
俺は仕事の受注。
小池主任は俺へ仕事の発注をしている。
当然、俺のほうが立場は弱い。
だが、このアブラ狸にはわかりやすい弱みがある。
あるいは、負い目か――。
タイのないこいつの開襟シャツは上のボタンが二つが開いていて、固太りしてぶっとい首回りが見える。その首には純金のネックレスやら健康にいい(らしい)磁気ネックレスやらがジャラジャラと下がっていた。そのどれもが、組合職員の主任がもらう月給では手が届かない高価な品だ。
見るからにお高い奴隷のルリカだって同様だよな――。
「――わかったわかった、黒神。だが、あれは本当にこちらの想定外だったんだぞ。お前をハメようとしたわけじゃない。だから、そう怒るなよォ。それに今回、皇国軍がやっていたのは本格的な奴隷狩りってわけでもなくてなァ――」
小池主任が笑顔を消して言った。
俺が単独で依頼を受ける。
小池主任は経理へ任務に関与した人数を水増して報告する。
そうすれば小池主任は差額の報酬を全部自分の懐へネジ込める。
区外のNPC偵察・駆除任務を単独で受けるNPC狩人は珍しい。危険な任務はたいてい悪路を走破できる装甲車を所持しているような大手の狩人団が受けるものだ。
だからこそ、このアブラ狸は俺へ優先的に組合の仕事を回したがる。
こいつは本当に薄汚い野郎だ。
信用もできない。
もっとも、俺はこのクソ野郎とツルんで組合から得る報酬を不当に嵩上げしている。
前々からお互いが悪党なのは承知の上だ――。
「――いや、小池主任。どう見てもあれは皇国軍の奴隷狩りだった。とにかく、皇国軍が絡んだ依頼はもう勘弁だ。居住区外の人間を敵に回すと俺は仕事がやり辛くなる」
俺はソファの背もたれに体重を預けた。
「だから、それは心配ないから。そっちの嬢ちゃんは知っている筈だがなァ。おい、お嬢ちゃん、黒神へそこらの事情を詳しく話してないのかァ?」
小池主任がリサを見やった。
ムッと眉間を寄せたリサはアブラ狸から顔を背けた。
「――ん、どうした、返事がないなァ?」
小池主任が怪訝な顔になった。
「こいつは――リサは口がきけないんだ」
リサの代わりに俺が応えた。
リサは真横を向いたまま反応しない。
「――なるほど、こいつは聾唖なのかァ。そんなので、こいつはよく今まで生きてこれたなァ」
小池主任が高い声で言った。
「――!?」
カッと顔を向けたリサがアブラ狸の感心した顔を強く睨んだ。
「いやあ、こいつは運のいい奴だぞォ、気も強そうだァ――」
小池主任がげひげひと肩を揺らして笑った。
「ああ、リサは運のいい奴だ。だから、俺は区外からつれて帰ってきた。こいつの強運にあやかりたいよ――」
俺が視線を送るとリサが視線を返してきた。
顔を傾けて怪訝な顔だった。
「――運ねえ」
唸った小池主任が、
「黒神、案外とお前は迷信深いよなァ――」
「迷信じゃない。運に賭けるのは俺の信心だ」
俺はそう応えた。
「――信心ねえ。で、この奴隷の耳は聞こえるのかァ?」
小池主任は片方の眉だけを吊り上げた。
「耳は聞こえる。
俺が横目でリサを見やった。南に面した窓から陽の光が差し込んでいる。明るい場所で見ると、リサの幼い身体はどこも細く頼りなく女性としては貧相もいいところだ。使おうと思えば、まあ、使えないこともない。俺が試した感想はそのていどだった。ルリカのゴージャスな
とにかくこいつは、おっぱいが小さい。
「――!」
ビクッ、と表情と身体を硬くしたリサが、ソファの端っこへ素早く移動をしたあとで、俺を射るように睨みだした。
俺は口に出して何も言っていないぞ。
随分とカンの鋭い奴だよな――。
「――たぶん、かな。まだリサを医者に見せていないから、詳しくはわからんよ」
俺は言った。
「まあ、完全なキズモノでもないのかァ――」
小池主任が頷いたところで、
「――お待たせしました」
緑茶と珈琲の匂いと一緒にルリカが戻ってきた。
ルリカは片手にお盆、片手に黒い書類入れを持っている。
「おっ、来た来た。遅いよお、ルリカ!」
小池主任がルリカの太ももの内側へ手を這わせた。
「やん!」
ルリカは軽い悲鳴を上げて身を捩ったが、お盆のお茶や珈琲はこぼれない。ルリカのスカートがアブラ狸の手でずり上がると紫色のショーツがちらりと見えた。ほとんどの部分がレースで透けた柔い肉に食い込むような小さい下着――。
「――申し訳ありません、ご主人様」
ルリカが卓上へ盆と黒い書類入れを置いた。小池主任は粘っこい笑みを唇の端へ浮かせたまま、ルリカの太ももへしつこく手を這わせていた。眉間を寄せたリサは窓の外を眺めていた。俺は視線を落とした。卓上の黒い書類入れには『組合員37564号』とラベルが貼ってある。これが俺の組合員番号だ。
「――黒神、遠慮をせずに飲めよ」
その声で俺が視線を上げると、ルリカを解放した小池主任はお茶を飲んでいる。俺の鼻先に漂ってきた緑茶の匂いを香水の匂いが打ち消した。前屈みになったルリカが珈琲の入ったカップを俺の前へ置いた。俺は近くにきたルリカの胸元を眺めていた。銀色のチェーンがついた、品のいいペンダントを、柔らかく前へ前へ押しやるような、乳房の大きさだった。どう考えても、小役人のアブラ狸が好き放題にするのは惜しい女だ。そう強く思いながら、左の手を伸ばした俺はティー・スプーンを持ったリサの手を強く掴んだ。
「――!」
リサが横目で俺を睨みつけてきた。その手癖の悪い手元に俺の前にあった筈の珈琲がある。リサは俺から盗んだ珈琲へ小壺から大量に砂糖を投入する直前だった。
重ねて言っておく。
俺は甘いものが大嫌いだ。
「『!』じゃない。珈琲を頼んだのは俺だ。お前は大人しくお茶を飲め」
俺は唸った。
「!?」
ギッと歯ぎしりの音と一緒に、背を丸めたリサは珈琲のカップを両手で抱えて抵抗をした。しかし、所詮は幼い力だ。俺は少し格闘しただけで、ブラックのまま珈琲を取り戻した。残念だが、希少なレギュラー珈琲は少しこぼれてしまった。俺は手の甲に少し火傷もした。砂糖もかなりテーブルの上へ散らばっている。
「あら、そっちのおちびさんも珈琲が良かった?」
リサに声をかけたルリカの上半身が俺の鼻先を掠めた。
「ごめんね、お姉さん、気がつかなくて――」
ルリカが緑茶の入った茶碗をリサの前へ置いた。そのついでに、ルリカは汚れたテーブルを布巾で拭く。ムスッと不機嫌な顔でリサはルリカの手で置かれた茶碗を見つめていた。盆にはお茶請けが乗った皿もあった。なすだの青菜だの漬物と小さな味噌饅頭が乗った皿だった。小池主任がルリカのおしりを見送りながら、ナスの漬物をつまんで口へ放り込んだ。味噌饅頭を手にしたリサの頬がわかりやすくゆるんだ。それに噛みつくとリサの顔全体がゆるんだ。
俺は和んだリサの横顔を眺めながら粉末ミルクだけを入れた珈琲のカップを手にとって、
「――この香り?」
「うーん?」
小池主任が視線を送ってよこした。
「インスタント・コーヒーじゃないよな」
俺はカップの上から視線を返した。
「それ、
小池主任が味噌饅頭を口へ放り込んだ。大きさは小さなものだから、大人の口なら丸のみできる。それは、リサが伸ばした手の先にあったものだった。皿の上にいくつかあった味噌饅頭はなくなった。目を丸々とさせたリサの前で、小池主任が呷るように緑茶を飲んだ。
「どこから手に入れた?」
俺が訊くと、
「一週間前、アメリカからきた支援物資を皇国軍が民間へ横流しした。そのとき、ちょっとな」
小池主任が急須から自分の茶碗へ緑茶を注いだ。
「ちょっと、ね――」
俺は珈琲に口をつけた。
少しぬるくなっていた。
「それコロンビアの豆らしいぞ。黒神、味はどうだ?」
小池主任が訊いてきた。
「うん――」
素直に応じるのが気に食わなかった俺はそれだけ言った。
珈琲の香りが皮肉っぽく鼻孔にまで広がる。
「それと、ほれ、黒神。今回の偵察依頼の報酬。間違いがないか、ここで確かめてくれや。お前も偵察報告書とSDメモリカードを――」
小池主任が黒い書類入れの中から封筒を取り出した。
「――ん? ちょっと待て」
俺が言った。
「何だ、黒神、金いらんのか?」
小池主任は一旦は出した封筒――俺の報酬が入った封筒を引っ込めようとした。
このアブラ狸はそういう男だ。
「――違う。金はさっさとよこせ」
腰を浮かせた俺は小池主任の手にあった封筒をひったくって、
「小池主任。皇国軍が安倍川上流でやっていたのは奴隷狩りじゃないと、さっき確かに言ったよな?」
「うん、そうだ。あれは集落のほうから救援要請が来たんだ」
頷いた小池主任が、俺の手から地図とSDメモリカードを受け取った。
「それは、どういう意味だ。区内の奴隷や大農工場の社畜を拒否して集落で生活している奴らのほうから、奴隷にしてくれという要請が来ただと――」
そう言いながら、俺は封筒の中身を確認した。
十万円硬貨が五枚。
一万円硬貨が四枚。
五千円硬貨が一枚。
千円硬貨が二枚。
金額に間違いはない。
合計で五十四万と七千円の硬貨が今回の仕事で俺の得た報酬だ。
今は日本で流通する紙幣はない。日本全土の混乱が極地に達した南海トラフ大地震後、在日米軍の一時撤退が決定されると、中露の軍隊がNPCからの防衛を名目に日本列島へ進撃して、日本政府が発行する紙幣供給は停止した。これに対応して当時の全国にあった自警団――今の日本NPC狩人組合は偽造防止用のマイクロ・チップを内臓した臨時高額硬貨の発行を開始した。臨時的な処置だったこの高額硬貨は当初、組合内部だけで流通していたが、自衛隊の残存兵力とアメリカ合衆国、それと活動拠点をアメリカに移して組織を保っていた企業体のバックアップを受けて発足した日本再生機構――暫定政府は組合が使っていた高額硬貨を支配地域全体――おおむねは東海地方にある指定居住区へ流通させることに決めたのだ。この新日本硬貨の他に、米ドル、ロシアルーブル、中国人民元を使っても商品の売り買いができる。
使う場所によってロシア・ルーブルはかなり嫌がられるが――。
「――NPC狩人組合もとうとう奴隷狩りを始めたのか?」
俺は確認した報酬をジャケットの内ポケットに封筒ごと突っ込んだ。
「いやいや、黒神、それは違うぞォ――」
俺が渡した地図(その裏に新山りさと大きく書かれた)を卓上に広げた小池主任が、
「黒神は何か勘違いをしているなァ――安倍川上流の集落が出した救援要請が届いたのは、皇国軍の基地のほうだ。区外で頻繁に皇国民募集のビラをバラ撒いてるだろ、あいつら――ああ、やっぱり安倍川上流にあった水力発電所にNPCが湧いていたのか。数は三十近くだとォ? 厄介だなァ、これ――」
「集落で頑張っていた連中が、自分たちから希望して皇国軍の奴隷になったって言うのか?」
俺は小池主任のぶ熱い顔をまっすぐ見つめた。
「簡単に言えばそうだァ。付近に発生したNPCだか胞子だかの処理が追い付かなくなったらしいな。皇国軍を通して
小池主任に嘘を吐いている様子はなかったが、
「本当にそうなのか?」
俺は鼻で笑ったやった。耳にした限り、どの支配地域でも奴隷の扱いにさほどの差はない。強いて言うなら区民の奴隷になるのが一番マシな生活ができるらしい。確かに金持ち夫婦の養子になった奴隷が区民へ格上げされることも稀にある。
まあ、これはあくまで稀に聞く話だ――。
「――ところで、黒神。その奴隷をどうするつもりだ?」
小池主任がリサを見やった。
そのリサは緑茶をふうふうやりながら飲んでいる。
猫舌らしい。
「――どうって言われてもな――区の住民票は高くてリサに買えん。NPC狩人の俺に奴隷を飼う金銭的な余裕はない。週末の奴隷市場で値段をつけてもらうしかないだろ?」
俺は小池主任の顔を見つめて言った。
頬にリサの視線を強く感じる。
「――そうかァ。黒神、お前、結果的に今回はかなりの金額を稼いだよな?」
小池主任は地図を眺めながら言った。
俺は何も答えなかった。
頬に当たっていた視線が消えた。
見なかった。
だが、リサはきっと瞳を伏せたのだろう。
「――だから、黒神。そう怒るなよって。ほれ、ここ、受け取りにサインをしてくれ」
小池主任が万年筆と一緒に書類を突き出した。
俺がサインする場所には、
『NPC狩人組合静岡本部登録済み『黒神狩人団』。代表者――』
そこまで既に書いてあった。架空の狩人団の団員として知らない男たちの名前も並んでいる。そこにあった報酬の金額は俺が受け取った金額の倍どころではない。これはアブラ狸が丹精込めて偽造した書類だ。
俺はそこへ自分の名前をつけ加えたあとで、
「俺は今回、死にかけたんだ。報酬がなんぼでも死んだら割に合わん。小池主任、今後、依頼の内容だけは絶対に偽造をしてくれるな」
もう一度、釘を刺しておいた。
俺にもアブラ狸にも弱みはあるのだ。
非情でなければ死人になる今の日本でのうのう生きのびている奴らには例外なく弱みが――引け目がある――。
「まァ、そうなんだろうが――ま、これで無事に依頼は完了。黒神は五体満足で帰ってきた。だから、そうまで不満そうな顔をしなさるなァ」
小池主任は俺の協力で完成した偽造書類を手にすると本日最高に脂っこい笑顔を見せた。
「この、クソ野郎が――!」
俺は冷めたくなった珈琲を飲み干した。
小池主任は書類入れに地図と偽造書類を納めて、
「黒神、もっと笑え。笑顔だぞ笑顔。それに笑うのは健康にいいらしいからなァ。午前中、ラジオの『DJミヤビの健康ワンポイント・アドバイス』でなァ――あァ、そうだそうだ、お前に言い忘れるところだった」
「組合の仕事がまだあるのか。それなら俺へどんどん回してくれ。金が要るんだ」
俺はソファから身を乗り出した。
「――いやいや、そうじゃない。黒神よォ、そのお嬢ちゃんを売り飛ばす前に医者へ頼んで首の『入れ墨』を消しておけよ」
小池主任が笑顔を消して声を低くした。見えないようにしてある。しかし、確かにアブラ狸の言う通りだ。リサの首に巻かれたスカーフの下は『甲種皇国民』そうバーコードと一緒に刻まれている。
「――ああ、このあとそうするつもりだ」
俺は顔を歪めないよう注意したつもりだったが、それが上手くできたのかどうかはわからない。
小池主任のぶ厚い表情はピクリとも動かなかった。
この、アブラ狸め――。
「黒神、拾ったものは自分でケジメをつけろよォ。皇国軍の持ち物をパクると後々がウルサイからなァ――」
小池主任は書類入れを小脇に抱えてソファから立ち上がった。
その厚ぼったい唇の端が歪んでいる。
今の日本で生きている奴には誰にでも弱みがある。
俺だってそれは例外じゃない――。
顔を横に向けると何か言いたそうなリサが俺をじっと見つめていた。
それでも彼女の喉からは言葉が一切出ない。
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