第28話 呼び戻される時間(4)

 扉の奥に明かりは付いているが、小料理屋の暖簾はまだ裏返してあり、まだ開店前に見受けられる。

 ガラス越しに中を覗くと、カウンターに立っている女性が裕介の母であるのを、正樹は直ぐに分かった。


 正樹は一度大きく深呼吸してから扉を開けると、その音に気付いて振り向いた裕介の母と目が合った。


 正樹が会釈して挨拶すると裕介の母は、涙目になる表情を見せながらも、口元を微笑ませた。


「お久しぶりです……僕のこと、覚えていますかね……」


「何を言っているの、忘れる訳ないでしょ……正樹君、大きくなったのね」


 久しぶりに顔を見た裕介の母は、月日が経っても老いた容姿はなく、正樹の記憶に残るままだった。

 ここに辿り着くまでは、仇討ちの言葉でも言い放つ気持ちでいたが、本人を目の前にすると、裕介を見捨てた母親と思えなくなる。


 正樹は店内に招かれると、カウンターの椅子へ座るように言われて腰掛けた。

 裕介の母が瓶に入ったオレンジジュースの栓を抜いて、コップも添えずにそのまま正樹へ差し出すと、そのもてなし方が、小学生の頃に裕介の家で遊んだ時のことを思い出させた。


「よく場所が分かったわね……誰から聞いたの?」

 裕介の母は、表面では正樹を歓迎しているように振る舞っているが、本心は突然訪ねて来たことへの疑念と不信感を抱いているのが、話し方に出ている。

 その様子に気付くと、情に流されていた正樹の気持ちにも、本来の目的を思い出させた。


「昔、裕介から貰った絵葉書に、旅館の住所が書いてあったんです。そこでお兄さんから、ここにいる事を聞いて……小母さんこそ、何でこんな所にいるんですか……」


 裕介の母が質問に口を噤むと、正樹は話を本題にして、ここに訪れた理由を話した。

 裕介が自分に書いた手紙を探していること。その為に伯母の家を訪ねたことや、そこで聞いた話、裕介の残していたノートを読んだ話しをすると、裕介の母は割烹着の襟下で涙を拭いながら話を聞いていた。


「私はね、本当にあの人と別れて、裕介と二人で暮らそうと思っていたの……だから、お義姉さんの家から連れて帰る時に、裕介にはその事を話したのよ」


 正樹は、裕介が自殺に踏み切った原因は何なのかを問い質すと、裕介の母はそれについて語った。


「私はね、あのノートを見せられるまで本当に、あの人が裕介に暴力を振るっていたことを知らなかったの……裕介が快く思っていないのは気付いていたけど、子供だからそんなものだと思ってた……でもね、裕介が家から出て行った時に、そこまで嫌がるのなら、あの人と別れようと決めたのよ。だから、あの日に裕介とファミレスで食事をしながら、二人で熱海に帰って暮らそうって話したの。それにはあの子も、納得して喜んでいたから、これで心配もいらないと思って、食事の後に私は、裕介と別れて仕事に向かったの。それで家に帰ったと思っていたら、あんな事になっちゃって……」


 話を聞けば正樹にも、裕介の母が単純に子供のことを蔑ろにしていた訳でないのを感じられる。

 ならば自殺の原因となったのは、母と別れた後、家に帰ってからの事だと思われるが、最期に引き金となった理由が、精神的な苦痛だったのか、それとも義父から再び暴力を受けたからなのかは、訊ける本人も証人もいない今では、知ることが不可能だと思わされる。


「でも、何で別れるって言ったのに、裕介が自殺した後も、その人と一緒に居たんだですか?裕介の位牌だって、伯母さんの家にあったし……それは、いくらなんでも、無責任じゃないですか?」


 裕介の母は言い訳がましくなりながらも、その時の心境を語り、正樹に弁明した。


「本当に、あの子が自殺した理由が、自分だけの責任だと思ってたの……あの人が何をしていたかを知るまでは、裕介に死なれて一人になるのが怖かっただけ……それからあの人が逮捕されて、私がそんな人と一緒にならなければ……私から生まれてさえ来なければって思ったら、私があの子の位牌を持っていることなんて出来なかったの……」


 同情を誘うような話しに聞こえても、正樹にとって大切なのは裕介であるから、その母親がどんなに辛い心情であったとしても、親としての責任を放棄しているとしか捉えられない。

 けれど無慈悲に思える中にも、自分を誤魔化さずに話す様からは、まだ親の心が残っているのは感じ取れた。


 裕介の母が話を止めて涙を拭い去ると、正樹は質問を手紙の事に変えて訊ねた。


「裕介は僕へ書いた手紙を、春美先輩に渡してほしいと頼んだのに、最期まで預けなかったんです。それが残っていた事は、本当に無かったんですか?」


 正樹が訊ねると、裕介の母は質問にかぶりを振って応えた。


「それは本当に知らないわ……でも、小学生の時から、あの子が落ち込んだり、元気が無かったりすると、いつも春ちゃんが裕介に手紙を書いてくれていたのは、知っていたわよ。それで自分も春ちゃんに手紙を書きたいって言うから便箋を買ってあげたのに、何枚書いても結局は、照れ臭くなって渡せなかったみたい」


 裕介の母は懐かしむように話しながら、思い出したことに口元を緩ませている。


「それを書いて渡せないと、どうしていたんですか?」


 正樹が訊ねると、裕介の母は質問に首を傾げていた。


「どうしてたのかしら……あ、でもね、一度だけ春ちゃんが、裕介から本を返してもらったら、手紙が挟んであったって言っていたのを覚えているわ……春ちゃんは、挟んだのを忘れてたのかもって言っていたけど、きっと素直に渡せないから、そんな遠回しなことをしたのよね……」


 裕介の母は、何気なく息子の思い出を話しているが、正樹はその話しを聞いて、手紙を挟んだのが意図的であれば、今探している手紙にも有り得ると思えた。


「そういう事って、その一回だけですか?」


「さぁ、どうなんだろう……でも、自分の気持ちを素直に言える子ではなかったからね……もっと素直に言ってくれれば、あんな事にもならなかったはずだから……」

 裕介の母は再び涙を流すと、両手で顔を覆い隠した。


 正樹は話しを聞いて、裕介が同じ方法で手紙を渡そうとした可能性を惟ると、自分か春美のどちらかが、知らぬ間に受け取っているのではないかと思った。

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