第17話 残された言葉(1)

 正樹は悩むということすら、一体何なのか分からなくてなっていた。


 悩みと言うものの答えは、きっと無意識の中にも必ずあり、誰かに話すこということは、それを引き出してもらうことだと思っていたが、今の悩みには答えがあるように思えず、悩んだり、人に話したりすれば解決されるとも思えなかった。


 アルバイト先でも店長から、「また具合悪いのか?」と言われる始末であったが、今の正樹にとっては、自分の抱えている気持ちを一般的な見解で解釈されるのが不愉快でしかなかった。


「いつも具合がいい奴なんて、ただ能天気なだけですよ」


 最近の正樹には手を焼いていた店長だから、気を遣って声を掛けたつもりが、刺のある返事をされたのは、流石に我慢ができなかった。


「お前、大学も辞めて、いつまで学生気分でやってんだ?何を悩んでいるのか知らないけど、お前が悩んでいるような事くらい、皆んなにだってあるけど、それを我慢して働いているんだよ!」


 高圧的な言い方をされたが気に入らなかったのもあるが、それよりも『お前が悩んでいるような事くらい』と言われたのが癇に障った正樹は、感情に走って理性を失うと、「もう辞めます」とだけ店長に言って、仕事を放棄した。


 店出ると、始発の電車が走り出すまで二時間ほどあったので、深夜の街を歩くことにした。

 灯りのぼやけている街頭を見ていると、それが自分自身を意味しているように思える。


 どんなに正しいと思っていることでも、いつも自分の考え方は他人に理解されず、傍から見ると、この街頭のようにぼやけて見えているのではないかと正樹は思う。


 ぼやけた灯りでは足元を点すことはできても、街中を明るくすることはできないのに微力さを感じると、自分が春美にしていることも同じに思えた。


《ゆうすけ:おはよう》


 始発まで街をふらついてから帰宅した正樹だが、家に着いても熟睡することができず、朝のうちに目が覚めると、スマートフォンを見て、裕介からのメッセージが届いているのに気がついた。

 けれど、今は返信したところで憂鬱な気持ちを裕介に愚痴るだけに思えて戸惑っていると、幸恵からの着信が画面に表示された。


「あ、先輩……お姉ちゃん、昨日の晩に目を覚ましました」

「そうなんだ……良かった」


 幸恵からの電話は、春美が回復室から一般病棟へ移ったという連絡だった。


「あの、先輩に見せたい物があるんですけど、会うことできますか?」

 正樹が見せたい物とは何なのか訊ねても、幸恵は会って見せたいと話すので、正午に駅前のカフェで待ち合わせることにした。


 待ち合わせ時刻の五分前に正樹が着くと、幸恵は既に来ていた。

 昼休み時のカフェは混雑していたが、幸恵は既に席を確保していて、テーブルの上には、正樹の分もアイスコーヒーが用意されている。


「あ、これ、この前奢ってもらったから、今日は私の奢りです。それに、呼び出したの私だし……」


「あ、ありがとう……」

 正樹は礼を言うと、アイスコーヒーにガムシロップとミルクを加えて、ストローで混ぜる。そこまでの作業を済ますと一口だけ飲んでから、本題について幸恵に訊ねた。


「で、見せたい物って何?」

 正樹が訊くと、幸恵は鞄の中から少し黄ばんだ便箋封筒を出して、差し出した。


「昨日、お姉ちゃんが何であんなことをしたのか気になったから、手がかりを探そうと思って、部屋にある机の引き出しを開けたんです。そうしたら、この手紙が入っていて、名前は書いていないけど、多分、裕介さんからの手紙じゃないかと……」


 正樹は封筒を受け取ると、裕介が春美へ手紙を書いていることに違和感を持ちながら、折り畳まれた便箋を開く。


 手紙を見ると、確かにそれは見覚えのある裕介の筆跡によって、文が書かれていた。


《春美先輩へ

 アンサンブルコンテストに出て下さい。もし、出てくれないのならば、僕は死にます。》


 確かにそれは、裕介からの手紙としか思えなかったが、彼の性格からは想像もつかないような、脅迫めいた文が書いてあるのに正樹は驚く。


「お姉ちゃん、この手紙をずっと持っていたって事は、裕介さんが自分のせいで死んじゃったって、今でも思っているんじゃないですかね……」


 確かに、春美がアンサンブルコンテストのメンバーに加えてほしいと言い出したのは、裕介が自殺した後のことだった。


 それまではコンテストの出場を拒否していたから、手紙の内容だけを読めば、春美が裕介を死に追いやったように見えてしまう。

 けれど、自殺の理由は家庭内の問題であったことがはっきりとしているし、裕介が他人に対して、こんな後味の悪い事をするのも信じ難いと、正樹は思う。


「でも、春美先輩だって、裕介が自殺した理由は知っているはずなんだよ。だから自分のせいだと思う必要なんてないし、こんな言い方も何だけど、これが裕介からの手紙ならば、悪いのはあいつだよ」


 幸恵は正樹の話しを聞いても、納得している様子ではない。


「でも、本当の理由なんて、別に遺書とかがあった訳じゃないですよね?そうしたら、お姉ちゃんにとっては、この手紙が裕介さんからの遺書だと思うんじゃないですか?私でもこんな手紙渡されたら、そう思いますよ」


 確かに幸恵の言う通りだと、正樹も思う。春美はもしかすると、この手紙を見る度に、自分が裕介のことを殺したように思っていたのかもしれない。


 正樹は、春美がアンサンブルコンテストは大切な思い出だと言っていたことを間に受けて、再びメンバーを集めたりしていたが、その度に背負った罪のことを思い出して苦しんでいたとすれば、昨日のような行動に至る経緯も、考えられない事ではない。


 正樹が便箋を封筒に入れ直して差し返すと、幸恵はかぶりを振って、受け取りを拒否した。


「もう、この手紙をお姉ちゃんの側に置いておきたくありません。だから、先輩が持って帰って下さい。酷い言い方かもしれませんけど、私にとっては裕介さんよりも、お姉ちゃんの方が大切なんです。だから、こんな手紙のせいで、ずっとお姉ちゃんが苦しんでいたことを考えると、私は裕介さんが憎いです」


 幸恵ほどに強い憎しみを感じなくても、こんな手紙を春美に送る前に、裕介が自分に相談してくれなかったことは、正樹も悔しいし、内容があまりにも一方的である事には腹も立つ。


 けれど、もしも裕介が出場を辞退したところで、あの頃の正樹では事情など理解しないのを分かっていたから、脅かしてまで春美を頼ったのかと考えれば、非は自分にもあったように正樹は思えた。

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