第16話 思い出の音(4)

 午後になると、正樹は最近の日課であるトランペットの自主練習で河川敷へ来ていた。


 ここで二、三時間ほど練習をしてから、夕方頃に一度帰宅すると、少し仮眠を取ってから深夜のアルバイトへ行く生活をしている。


 周囲の人間と比べれば、自分も就職しなければならないと思うが、春美のことを考えると、これが都合の良い生活だった。


 この生活を続けている不安よりも、春美の為なら自分を犠牲にしても構わないと思う気持ちの方が勝っている。

 けれど、それが世間的には認められないことは、自分でも分かっていた。


 そんなことを考えながらトランペットを吹いてると、メッセージが届いたことをスマートフォンの通知音が知らせた。


 メッセージは茂雄からであり、幸恵から連絡があって、春美が救急車で病院に運ばれたと書いてあるのを読むと、正樹は慌ててトランペットを片付けて、自転車で病院へ向かった。


 正樹の知識では把握できない病状なのは分かっていても、昨日は何も問題を見受けられなかった春美が倒れたのを聞けば、予期せぬ出来事の不安に駆り立てられる。


 病院に着くと、春美が処置を終えて回復室にいることを受付で聞いた正樹は、院内であることも構わずに階段を駆け上って部屋に向かうと、回復室の前に幸恵が一人で立っているのを見つけた。


「先輩……」

 正樹のことを見る幸恵の瞼は、涙で赤く腫れている。


「一体どうしたの?春美先輩はどうなの?」


 正樹が訊くと幸恵は、大学が春休み中なので家にいたら、姉の部屋から大きな物音が聞こえたので様子を見に行くと、そこに倒れいた春美と、処方さている薬を大量に摂取した痕跡を見て、慌てて救急車を呼んだことを話した。


「でも、何で薬なんか……まさか自殺しようとしたんじゃ……でも、昨日はそんな様子は無かったのに……」


「分からないですよ……でも、先輩たちの前ではどうか知りませんが、お姉ちゃん家では全然元気なかったし、この前も仕事に復帰したいって言ったのを、お父さんが反対して大喧嘩になったんです……今まで、喧嘩なんてしたこと無かったのに……」


 冷静に考えれば、自分が治る見込みのない病気であるを知っているのに、いつも笑っていられる人間の方が少ない。

 そんなことを気にもせず、ただ目の前で笑っている春美を見て、それで満足していたことを考えると、正樹は自分が情けなくて、辛かった。


「春美先輩は、もう大丈夫なの?」

「はい……今は処置を終えて眠っているだけだから大丈夫だって……だから、お父さんとお母さんも、仕事が終わったら来ると思います……」


 話をしているうちに再び泣き出した幸恵を正樹が宥めていると、陽子も茂雄から連絡を受けて病院へ来た。


「陽子、お前、仕事は大丈夫なのかよ?」

「大丈夫、報告書類とかは明日でもできるから、早めに上がらせてもらったの。それよりも春美先輩は?」


 正樹が春美の容態を話すと、陽子は安心した様子で溜息を吐く。

「けど、何で、そんなことしたんだろう……」

 陽子の疑問には、正樹も同じように悩まされていると、北原が春美の様子を伺いに訪れた。


 正樹が会釈すると、初対面であった陽子も、北原に挨拶を交わす。


「先生、春美先輩は自殺しようとしたんですか?」

 正樹が訊くと、北原は「それは違うよ」と言って、かぶりを振っている。


「オーバードースは……あ、薬を過剰に摂取することなんだけど、死にたいから飲むだけでなく、今の不安や恐怖から逃れたくて、精神安定剤なんかを大量に摂取していまう事があるんだよ」


 春美は周囲の環境などを考えても、このような行動を取るように思えなかったので退院を勧めたが、今の状態では再び入院が必要だと北原が話す。


「もしかすると、昨日、皆んなに会って色々なことを思い出しているうちに、病気を治したいと思う気持ちが強くなりすぎたのかな……あ、いや、君たちの行動が間違っていた訳ではないよ。一般的に考えれば良いことだからね。ただ、過去の記憶と、今の現実を重ねているうちに、強い不安を抱いてしまったのかもしれないね」


 昨日一日のことが原因だと思うと、正樹の気持ちが絶望の淵に沈んだ。

 皆と演奏することを、春美が喜んでいるように見ていたが、実は苦しめていたと思えば、奏でていた音が思い出ではなく、不協和音であったように思えてくる。


 暫くは春美も目を覚さないし、その後も家族以外は面会できないことを北原に伝えられると、正樹と陽子は、幸恵に慰安する言葉を掛けて病院を後にした。


 病院を離れた正樹が、これから春美の為に出来ることは何なのかと悩んでいると、その姿を見かねた陽子が、詰るように話した。


「だから、言ったでしょ……春美先輩のことは本気になったら駄目だって」

 その言葉が癇に障った正樹は、不満に思う気持ちを露わにして、陽子に食って掛かった。


「何だよ、またその話かよ……別に今言うことじゃないだろ!」


「もう、言うのやめようと思ってたよ。でも、こうなったから言うの!ほら、実際に辛い思いをしてるでしょ!じゃあ、あと何回同じことを繰り返すの?春美先輩のために何かをしても病気は治らないし、何をしたって、正樹のことも、私たちのことも忘れちゃうんだよ!」


 陽子の言葉を聞いて、言い返すことも、怒りを鎮めることもできない正樹は、気持ちの吐き出し方を見失ったことから、無意識に陽子の顔を叩いてしまった。


「あ……ごめん……」

 頬を打ち付けた音が聞こえると、正樹は我に返って謝ったが、陽子は赤くなった左頬を押さえながら、射るような眼差しを逸らさなかった。


「気が済んだ?でも、私の言いたい事は変わらないからね……正樹が何をしたって、春美先輩を助けることなんて出来ないから!」


 陽子は受けた痛みの怒りを当て付けて話すのではなく、自分の本心を言い放つと、正樹の前から走り去った。


 遠ざかる陽子の姿を見ていると、正樹は自分にとって大切なものを、何もかも失ったように思えた。

 

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