第15話 思い出の音(3)

 これ以上、自分と陽子が一緒にいるのは場の空気を悪くすると思った正樹は、一人先に店を出た。

 酔い覚ましに自動販売機で缶コーヒーを買って一口飲むと、涙を浮かべていた陽子の顔を思い出す。


 その場では陽子の言っていることが非情に思えていたが、冷静になれば、苛立ちを覚えた一番の理由は、現実を受け止めたくない自分への誤魔化しであることに気がついていた。


 夜明けの空に朝日を思い浮かべて、夕焼けを見ると、また夜を思い出すような毎日は、いつか春美から無くなってしまい、昨日の夜を思い出すことも、明日の朝を思い浮かべることも出来なくなってしまう……

 そんな日が来ることへの恐怖を、正樹は怒りで紛らわすことしかできなかった。


 けれど、自分が意地になることによって今後の関係性を拗らせてしまい、折角集まったメンバーが解散になってしうのは、春美の為にも良くないと思った正樹は、陽子に詫び入れることにした。


 また戻って直接謝るほど素直にはなれないから、『さっきは悪かった』とメッセージを送って謝罪すると、数分後に陽子からも『私も言い過ぎた、ゴメン……』と書かれたメッセージが届いたのを読んで、正樹は胸を撫で下ろした。


 その頃、残っていた三人は、店を別の場所に変えて飲み直していた。

 三人はバーカウンターに陽子を挟んで横並び、ナッツをつまみながら、アルコールの強い酒を唇で触れるように飲んでいる。


 茂雄と純一郎は、自分たちが正樹を茶化したのが一番の原因であると言って反省の態度を示すと、陽子も言い過ぎたことに自責の念を感じていた。


「でも、少し向きになりすぎてなかったか?今度は茶化して聞くわけじゃないけど、本当は、正樹に友達以上の気持ちがあるんじゃないのか?」

 茂雄が訊くと、陽子は酒を一口飲んで、口を緩ませた。


「中学生の時は好きだったわよ。じゃなかったら、女一人であんた達と連んだりしないわよ。あ、ちなみにだけど、シゲとジュンのことは何とも思ってなかったけどね……でも、あの頃の正樹は、子供っぽい所もあったけど、他の男子よりも大人っぽくも見えたの。でも、裕介のことがあってから、正樹って変わったでしょ?あの頃くらいから、好きな気持ちは覚めちゃったけど、今日の正樹見てたら、何だか昔の正樹を思い出しちゃったの……それでまた、好きになったわけじゃないけど、春美先輩のことで一生懸命になってるでしょ?それは優しくて男らしいと思うけど、気持ちに一線を引けなかったら、裕介の時と同じ事を繰り返すだけだよ……」


 陽子の話を聞いて、茂雄と純一郎も自分たちの気持ちを整理していた。


 確かに今は、春美の為に何かをしたいと思うが、それで未来を変えられるとも思っていない。

 けれど、自分たちにできることで、今と同じ時間が少しでも長くなればいいとは思っている。

 その気持ちを、未来まで変えたいと思っている正樹との違いにするならば、陽子の言う通り、人情と愛情の違いだろう……


「桜の花は散ったとしても、また春が来れば咲くと思っているけど、それが咲かなかったらどう思う?来年はきっと、再来年はきっと、そう思って、ずっとその木を眺めているの?春美先輩だって同じことだよ……花が咲かないのを知っているのに、それでも希望だけ持たせる方が無責任だと思うよ……でも、安心して。もう、本人の前では言わないから……」


 陽子の話は冷めているようにも聞こえたが、正樹の恋を軽はずみな気持ちで応援してはいけない事も、茂雄と純一郎に気づかせていた。


 正樹は家に帰ると、北原から渡されたノートを出して、机の上に開いた。

 ペンを手に取ると、今日、春美を見ていて感じたことを書き始める。


・経過報告

 今日は五人で集まった、最初の日だった。


 春美先輩は、退院前から楽しみにしていたので、今日は一日中、笑顔が絶えなかった。

 僕たちが学生の頃に流行った曲を演奏している時、曲の度に思い出話が尽きないのを見ていると、春美先輩の病気を忘れてしまうくらいだ。


 感情的な気持ちばかりを書いても、このノートは何も役に立たないと思うから、気になった事があれば、それは冷静な判断基準を持って報告しますが、今日は特に問題を見受けられなかった。


 正樹は書き終えると、北原には病院に来た時に読ませてくれれば良いと言われていたが、春美が入院していなければ病院に行く機会も無いので、書いた文をスマートフォンに写真で収めて、メールで送ることにした。


 陽子の言う通り、自分が何をしても、春美は何も変わらいと思う時は、正樹にもある。

 けれど、目の前にいる野良猫に、その日の気分だけで餌をあげるような同情ではなく、春美の病状が進行しても、ずっと寄り添っていたいと思う気持ちは固い。

 だからこそ、陽子の言っていることが優しさだと理解できても、その言葉に自分が甘えることまで、許せはしなかった。


 翌朝になると、正樹のスマートフォンには、いつものように裕介からのメッセージが届いていた。


《ゆうすけ:おはよう、今日はいい天気だね》


 カーテンを開けると、眩しすぎるほどの日差しが部屋に入り込んだ。

 トランペットを再び吹き始めてからは煙草を吸わなくなり、起きてからベランダに出ることも無くなったので、カーテンを閉めたままの日が続いてたのに気づく。

 けれど、そんな朝を迎えても心の中には雲が残っていて、晴れ晴れとした気持ちではなかった。


《マサキ:おはよう》


 いつもなら、裕介に話したいことが沢山あるけれど、今日は言葉が思い浮かばない。

 ましてや、自分が春美のことを好きで、その事で陽子と揉めたなんて話は、いくら裕介でも話せない。


《ゆうすけ:元気ないの?》


 正樹の返信が、あまりにも素っ気なかったからかもしれないが、裕介からのメッセージは、まるで心の中を見透かしているようだった。


《マサキ:いゃ、ちょっと昨日、陽子とケンカしちゃってね》


《ゆうすけ:どうして?》


《マサキ:いや、大したことじゃないんだけど、陽子には悪いことしたなぁって……でも、もう謝ったよ》


《ゆうすけ:なら、きっと陽子も怒ってないよ!だって、二人とも優しいから、どっちが悪いとかじゃないはずだもん!》


 裕介の言葉は、問題を解決してくれるけではないけど、いつも心を和まされ、寄り掛けた気持ちを支えてくれた。

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