第13話 思い出の音(1)

 翌朝から正樹は、トランペットを持って江戸川の河川敷に行き、自主練習を始めた。

 マウスピースを唇に当てて震わせると、三年ぶりの感触に違和感はあったが、すぐに懐かしい感覚に変わる。


 音を鳴らすと、普通の音階くらいはできるが、オクターブ上げた音になると、唇が昔のように言う事を聞いてはくれない。

 暫くは曲を演奏するわけではなく、初心に戻って基礎練習を行った。


 ロングトーン、タンギング、リップスラーと、以前はウォームアップ程度でこなしていた練習が、今は初めて楽器を手にした頃を思い出すほどに上手くできない。

 けれど、これが春美の為にできることだと思えば、前向きな姿勢で取り組めた。


 辛い思いをしている春美に、何の言葉も掛けられなかった正樹は、初めて音楽の大切さ気がついた。

 過去の自分は、自分の音色を誰かと比べたり、競い合ったりすることしか考えていなかったが、今は、春美の為に奏でたいと思えば、自分の出す音の意味が、以前とは変わっている。


 ベートーヴェン、バッハ、モーツァルト……これまでに名曲を生み出した作曲家たちの中には、言葉で表せない気持ちを、音楽に変えて表現した者もいるだろう……

 だから伝えられない言葉を音にできるのは、神様が自分に与えてくれた力だと正樹には思えた。


 暫くの練習しているうちに、大分感覚を取り戻してきたと思っていると、茂雄からメッセージが届いた。

 アンサンブルの件に、純一郎と陽子も賛同した報告を受けると、正樹は喜びに拳を握りしめた。


 ネットで得た知識だけでは不安だった正樹は、専門家の知恵も借りたいと思い、北原を訪ねて病気へ来た。

 診察がひと段落した北原が、正樹を病室に招き入れると、まず始めに春美の一時退院が三日後であることを話した。


「本当ですか!でも、良くなった訳じゃないんですよね……」

「でも、ずっと入院していなければならないほど、悪くなっている訳ではないから。それに、意味もなくここにいるのは、本人のメンタルを弱らせてしまうだけだからね」


 正樹は話の流れに合わせて、アルツハイマーに対して音楽療法は有効なのか訊ねると、北原は正樹にも分かるような言葉で、いくつかの例を話した。


「実際に認知症の方でも、カラオケなどは良い療法になるし、懐かしい曲などを歌うことによって、昔のことを思い出して脳を活性させることにも繋がるからね」


 正樹は話しを聞いて、自分たちが学生時代に吹奏楽部に所属していたことと、これから定期的に集まって合奏をすることが、春美の病気にとって良いことなのか訊ねると、北原も共感を持って話しを聞いていた。


「君が言う通り、一度や二度で効果があることではないけど、素晴らしいことだと思うよ。良いことだけではなく、共同作業をする中で、今までは当たり前に出来ていた事が覚束なくなっているのを、早い段階で発見できれば、とても重要なことだからね。あと大切なのは、君たちが一時の感情や同情で取り組むのではなく、彼女の病気と向き合って付き合っていくことができるかだよ。それは、家族でも大変なことだから、中途半端な気持ちならば、初めから止めておいた方がいい。そうでないと、途中で放り投げられた本人にとっては、それが絶望的なことになってしまうからね」


 穏やか表情を見せていた北原も、話の末になると真剣な眼差しに変わっていた。

 その視線は正樹を試しているようでもあり、威圧的にも感じる。

 けれど正樹は、その圧力に屈することなく、北原と目を合わせて応えた。


「大丈夫です。それに、専門的な事に関しては先生じゃないと、僕たちでは何もできません。けれど、この事に関しては僕たちじゃないと出来ない事だと思います。だからこそ、投げ出したりなんかしません」


 北原は話を聞いて頷くと、机の引き出しから新品の大学ノートを取り出して、正樹に渡した。


「それじゃあ、これは僕からのお願いだけど、今後の治療やカウンセリングの為にも、皆んなで集まった時に、彼女の様子などをこれに記録しておいてくれないかい?難しく考えなくていいんだよ。日記みたいに自分が感じたことを、そのまま書いてくれればいいから」


 正樹は大学ノートを受け取ると、自分が春美にできることが一つ増えた気がして、使命感に駆られた。


「君たちの場合は、『カラオケ』ではなくて、『生オケ』だもんね。その効果がどれだけなのかは、僕も興味があるよ」


 北原の言葉は業務的にも聞こえるが、冷めた声には聞こえず、その冷静な対応が正樹にも心強かった。


 北原との話しを終えると、正樹は春美の病室を訪れた。

 一昨日会った時には、重い空気のまま立ち去った部屋の扉を開けるのには、少し不安もあったが、部屋にいた春美はそんなことを気にしている様子もなく、明るい笑顔で正樹を迎えていた。


 その表情を見ると、とにかく春美の前で沈んだ顔を見せたり、病気のことを話して不安にさせるのは止めようと、正樹は自分に心がけさせた。


「春美先輩、そこで北原先生に会って聞きましたよ。三日後に退院できるそうですね。良かったです」

 春美から、「本当に、心配かけてごめんね」と言われることを、正樹はかぶりを振って否定する。


「退院できるって聞いて、グッドタイミングだと思ったんですよ。今日は春美先輩に、お願いがあって来たんで」

 にやにやと笑いながら話す正樹の顔を不思議そうに見ながら、春美は「お願いって何?」と聞き返した。


「裕介からメッセージが届いたって話ししましたよね?あいつ、僕のトランペッをまた聴きたいって言い出したから、また始めることにしたんです」


 春美はその話を聞くと、「本当!」と言いながら、大きな口を開けて笑顔を見せている。


「でも、きっと裕介は皆んなの音も聴きたいはずだから、あの時の五人で演奏した音を聴かせてあげたいんです。一回だけだと可愛そうだから、週に一回でも集まらないかって話したら、シゲたちはOKだいって言ってたから、春美先輩にも協力して欲しいんですよ」


 正樹は、春美が誰にも気遣うことなく話を受け入るには、これが一番の理由だと思った。

 だからと言って、裕介を出しに使った訳でもなく、春美に話したことも理由の一つであることに嘘はない。


 その提案に春美は悩む素振りも見せず、目の色を変えて何度も頷いていた。


「うん、やろう、やろう!もう、今からワクワクしちゃうね!」


「あ、でも、他の奴らには裕介の為にって言ってないんで……その事は、まだ内緒で」


 正樹の子供みたいな頼み事を聞くと、春美はクスクスと笑っていた。


《マサキ:またトランペット吹くことにしたよ。みんなで演奏する時には、裕介も聴いてくれよ》


《ゆうすけ:嬉しいよ!楽しみにまってます!》

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る