第12話 本当の理由(4)

 正樹の心は、無力感に支配されていた。

 春美の病気を知って何もできなかった事だけでなく、これまでに自分の言葉は、どれだけ人の心を傷つけてきたのかと思う。

 自分の一言が人に悪影響を及ぼすように考えてしまうと、正樹は春美とも話すのが怖くなってしまった。


 否定的なことばかりを考えてしまい、心が折れていた正樹は、深夜のアルバイトを休んだ。

 体調が悪いと言って連絡すると、昨晩から正樹の様子を心配していた店長から、二、三日は大事をとるように言われた。

 思われているような病状ではないが、今はそれに甘えようと思った。


《マサキ:ゴメン……裕介に酷いことを言っていたね……本当にゴメン》


 春美だけでなく、裕介も傷つけていたことに気がついた正樹は、謝罪のメッセージを送る。

 夜に送ったメッセージが既読されないのはいつもであるが、今はそれが二度と返信は来ないことに思えた。


 翌朝になると、裕介からメッセージが届いていたことで、正樹は心を弾ませた。


《ゆうすけ:おはよう、返信できなくてゴメン。正樹はひどいことなんて言ってないよ》


 カーテンの隙間から入り込んだ陽射しが、正樹には裕介が放つ光に見える。


《マサキ:おはよう。もうメッセージが来ないかと思って、心配だった》


《ゆうすけ:ゴメンね、ちょっと神様に罰を受けていました……》


 小学生の頃は、よく悪戯ばかりしていた裕介だから、神様にも何かしたのかなぁ……なんてことを、正樹は思う。


《マサキ:また、いたずらでもしたのか?(笑)》


《ゆうすけ:ちょっと、神様に嘘をついていたんだ……》


 嘘をつくようなイメージはない裕介だから、その理由は意外だと思った。


《ゆうすけ:それよりも、また正樹のトランペットがききたいなぁ……》


 そのメッセージを読むと、正樹の頭を悩ませた。

 いくらそれが無理なことでも、裕介に『それはできない』なんてことを、言いたくはなかった。


『三年前だったら吹けたけどなぁ……』

 正樹はそう思いながら返信に悩んでいると、裕介のメッセージから、ネットに書いてあったことが脳裏に浮かんだ。

「音楽……」

 それは、アルツハイマー音楽療法のことだった。


 正樹は内容を再確認したくて、ネットでアルツハイマーの音楽療法について調べた。

 その内容は、軽度の認知症を伴ったアルツハイマー型認知症の患者を対象にして音楽療法を施行したところ、音楽刺激による脳波記録では、音楽に対するα反応性が良く、好きな音楽を聴くことによりαリズムの速波化が認められたと書いてある。


 これを読んだ正樹は、春美の若年性アルツハイマーに関しても、音楽療法は有効なのではないかと思う。


《マサキ:いいことを思いついた!ありがとう!》


 正樹は裕介のメッセージから、思いついたことがあった。

 相談したいことがあると言って茂雄に連絡すると、昼休みの時間に会おうという事になり、茂雄の職場がある御茶ノ水へ来た。


 正樹もトランペットを吹いていた高校生までは、楽器の備品などを買うのによく来ていた街だが、今では訪れる機会も無く、遠い場所に思えていた。

 歩いていると、右にも左にも楽器店が見える街並みが懐かしい。

 待ち合わせ場所に茂雄が来ると、いつも行く定食屋があると言われて、正樹は後に付いて歩いた。


 定食屋に入って注文を済ますと、正樹は早速、茂雄に話を持ちかけた。それは春美の為にまた、五人でアンサンブルをしないかと言う相談だった。


 ネットに書いていた内容を正樹が話すと、茂雄も興味深そうに聞いていた。

 認知症の治療法で考えれば、五人で演奏することにより昔のことを思い出すのは、回想法にも繋がるのでないかと言って話をすと、茂雄も概ね賛成の意見であったが、いくつかの問題点も挙げた。


 一つは、純一郎と陽子の都合も聞かなくてはならないし、春美もそれに賛同するかということ。

 もう一つは、継続しななければ意味がないことと、それに伴い一番不安なのが正樹だと言う。


「俺と純一郎は今でも楽器を吹いているし、陽子だって休みの日に吹くくらいのことはあるみたいだけど、正樹は大丈夫なのか?まあ、お前のことだから、直ぐに感覚を取り戻すだろうけど、一度始めたからには、今度は自分が嫌だからと言って辞められないんだぞ。それでもできるのか?」


 正樹は、注文した品が目の前に出されても箸をつけようとせず、茂雄の質問に答えた。


「そもそも、トランペッが嫌になった訳じゃないんだ。今になって考えれば、常に上達を要求される環境の中で、自分の限界に気づくのが怖かったんだよ。誰かが自分より上手くなれば、自分が落とされると思っていたら、全員が音楽をする仲間ではなく、敵に見えたんだ。そこで自分の限界を知ってしまったら、後は落ちるだけだと思っていると、高校を卒業したら、二度とそんな思いはしたくないと思った。でも今は、一度落ちるところまで落ちたから、そこから登るだけだし、それに何もできない自分が春美先輩にできることが、結局は音楽しか無いって思ったんだ」


 正樹の思いは、茂雄にも強く伝わった。それは今現在の事を言っているだけではなく、中学生の頃に辛い思いをさせていた春美にも、償いたいと言っているように聞こえた。


「分かった。純一郎と陽子には、俺から聞いてみるよ。あとは春美先輩を何と言って誘い出すかだな……あの人の性格だから、病気の為になんて聞いたら、自分が負担をかけていると思いそうだから」


 茂雄の話に正樹は、「大丈夫、それなら考えがあるから」と言って、得意げに笑った。


 茂雄と別れた正樹は、帰り道に楽器の手入れ道具を購入して、家に帰った。

 部屋のクローゼットに仕舞っていたトランペッを出すと、ケースから出してピストンを押してみるが、三年近く手入れをしていないから、固まっていて押せなかった。


 ケーシングとピストンバルブを離して、一本づつにオイルを差していると、これまで楽器を手放していた時間も、修復しているように思えた。

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