第11話 本当の理由(3)

 二人は診察室から出ると、春美の病室には訪れずに病院を後にした。

 時間も遅くなっていたから迷惑になると思ったのもあるが、それは半分こじつけで、北原の話しを聞いてしまうと、春美と冷静な気持ちで会うことができないと思った。


 正樹はアルバイトも休もうかと思ったが、何もしていない時間は、春美の病気に関して良くないことばかりを考えさせるので、憂鬱な気持ちを抱えたまま出勤した。


 アルバイト先の店に来る客が、酒を飲んで酔っ払っている姿や、男女のグループではしゃいでいるのを見ると、正樹にはお気楽な奴等に見えて苛立った。

 あまりにも険しい顔で仕事をしていると、店長に注意された。


 仕事を終えた正樹は明け方に帰宅しても、やはり眠ることができなかった。

 アルツハイマーについて調べても、難しい用語は一つも入ってこないのに、『記憶が無くなる』とか『死亡する』という言葉だけは、頭の中にこびりついた。


 そんな言葉が脳裏を駆け巡ると、他の言葉を食い殺して肥大する。

 そして言葉の意味から、暗闇の中に取り残された色を連想すると、脳を染色して恐怖へ導かれる。


 そんな気持ちを消し去る為に、正樹は父親が買い置きしていたウイスキーを部屋に持ち込むと、ストレートで流し込んで喉を焼きつけた。

 酒は力は悲しみを膨らませるだけで、涙ばかりを流させたが、酔いが回れば眠りにつくことはできた。


 正樹が目を覚ましたのは、いつもより少し遅い時間だった。

 スマートフォンの時刻は午後の一時半を表示している。

 いつもならば裕介から『おはよう』などのメッセージが届いているが、今日は何も届いていない。

 昨日、八つ当たりのようなメッセージを送ったから怒ったかな……なんて思ったが、今は春美のことで精一杯だった。


 正樹はいつも起きてから煙草を一服した後、腹を空かせてリビングへ向かうのだが、今日は昼過ぎても起きて来ないのを心配した母親が様子を伺いに部屋へ来た。


「ちょっと、どうしたの?具合ても悪いの?」

 正樹が部屋の扉を開けると、中を覗いた母はウイスキーの空瓶を見て溜息を吐いた。


「朝からお酒飲んでたの?呆れた……それ、お父さんのでしょ?買って返さないと怒られるわよ。仕事から帰って来たら、チビチビやってるんだから


 母の一言、一言が鬱陶しいと思ったが、家族といえども人の物を勝手に拝借した自分が悪いと思った正樹は、近所のコンビニエンスストアで買って返すことにした。


 外はまだ明るい時間に酒を買うのは、少しだけ抵抗があった。

 酒だけをレジに差し出せば、若いくせに昼間っから仕方のない奴たと思われそうな気がしてしまう。

 正樹も居酒屋に来る客のことを、偶にそんな風に見てしまうから、尚更に考えてしまうこと。


 酒はあくまでついでの品物に見せて、今の時間に見合った商品も買って誤魔化そう思いながら店内を見回していると、スイーツコーナーのケーキを見て、春美の顔を思い浮かべた。


 何も買って来なくていいと言っていたけれど、コンビニのケーキくらいなら素直に喜んでくれるのかな……なんてことを考えていると、春美に会いたいと思う気持ちが、抑えきれなくなった。


 正樹は家に戻って新品のウイスキーを母親に渡すと、一緒に買ったチーズケーキを持って家を出た。

 春美に会いたいと思う気持ちが不安を上回ると、今まで通りの自分でいればいいと思えた。


 病気のことを知ったからと言って、極端に励ましたり、辛い顔を見せるのではなく、今までと同じ気持ちで会うのが一番のことだと思えば、北原の言っていた意味も理解できた。


 春美が入院している病院は、自転車を使えば自宅から十五分ほどで着いた。

 病室の扉を開けると、ベッドの上にいる春美は、いつもと変わらない笑顔を見せている。

 正樹は、そんな春美に上手く声を掛けられなかった。


 どんなに頭で誤魔化しても、心には嘘をつけず、本当の理由を知る前と今では、春美の笑顔でさえも、見ていると胸を痛める。

 それでも正樹は心に蓋をして微笑み返すと、コンビニ袋に入ったチーズケーキを差し出して、春美に渡した。


「これ、何もいらないって言ってたけれど、これくらいならいいかと思って……」


 春美は袋の中を覗いて目を大きくしていると思ったら、途端にクスクスと笑い始めた。

「ありがとう。でも、スプーンが入ってないよ?」


 春美の声を聞くと、張り詰めた気持ちが一気に緩んだ。

 正樹は、頭の中でコンビニのレジにいた女性店員の顔を浮かべると、小さく舌打ちをする。


「すみません……あ、それなら購買に行って、スプーン貰ってきますね」

「大丈夫、この間ケーキを持って来てくれた時に、スプーンが二本入ってたから」

 春美はキャビネットの引き出しを開けると、プラスチックのスプーンを出して正樹に見せた。


 キャビネットの上には、正樹がプレゼントした写真立てが枕元に向けて置いてある。

 正樹はそれを見ると、嫌なことを忘れたのも束の間、再び切なさが込み上げた。


 写真の春美は、笑顔に仮面をつけていた。それはきっと、正樹がつけさせていたものだろう……だから今は、いつでも春美に笑っていてほしいと思う。

 けれど、目の前にいる春美にとっての笑顔は仮面であり、本当は辛くて苦しんでいる素顔があるのかと思えば、正樹には正しさの答など分からなくなる。


 その気持ちを悟られたのか、正樹が目を合わせると、春美は朗らかな表情を消していた。


「聞いたんでしょ……病気のこと……」

 核心をついた春美の言葉に、正樹はぎこちなく笑って誤魔化した。


「え?何のことですか?別に、何も聞いてませんよ……」

「誤魔化さなくていいよ……幸恵が話したって言ってたから……」


 辛い状況に置かれながらも涙の一滴も見せず、悲壮感漂う春美の姿を見ているのが、正樹には辛い。

 だからと言って、春美の前で自分が涙を見せるわけにもいかないし、妙な心配すれば不安を誘うことに繋がる。

 昨日、北原に言われたことを思い出すと、春美の前では悲しむことも、哀れむことも許されない。

 けれど何も声を掛けないのは、余計に春美を傷つけてしまうと思った正樹は、頭を捻って言葉を探した。


「はい……でも、きっと大丈夫ですよ。絶対に治りますから」

 正樹は精一杯言葉を絞り出したが、何を言えば正解なのか分からなかった。

「そうだね……励ましてくれてありがとう……でも、そんな簡単には思えないよ……」


 春美の言葉を聞いた正樹は、『きっと、大丈夫』と言った自分の言葉が、裕介のメッセージと同じであるのに気がついて、愕然とした。


 裕介だって精一杯の言葉で励まそうとしていたはずなのに、それに苛立ちを感じていた自分を思い返せば、春美も同じ気持ちであるはずに違いない。


 正樹は今の春美を傷つけることに、アスファルトの道端で、懸命に咲いている蒲公英を踏みつけるような罪悪感を覚えた。

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