第10話 本当の理由(2)
病院からの帰り道、正樹は脳神経内科の扱う病気について、スマートフォンで調べた。
ネットの内容では主な疾患に、てんかん、脳梗塞、パーキンソン病などと色々書いてあるが、どれも春美が言うように大したことでないと思える病名ではなかった。
正樹はアルバイト中もそのことが頭から離れず、仕事が落ち着く深夜の三時になると、いつも襲ってくる眠気もなく、暇な時間は余計に春美のことを考えさせる。
仕事を終えて夜明け前に帰った家でも、上手く眠りにつくことはできなかった。
眠れないのでネットに書かれた神経学について読んでみるものの、正樹の知識では春美がどの病状にあてはまりそうなのか分からない。
普段は見慣れない用語ばかりを見ていると、知らぬ間に瞼を閉じてはいたものの、昼前になって目を覚ましても、悩みが消えていることはなかった。
一人で考えても解決できないと思った正樹は、茂雄にメッセージを送って相談を持ちかけた。
裕介には感情的に気持ちを話すことはできても、何せ彼への印象が中学生で止まっているから、相談しても明確な答えが返ってくるイメージはしにくい。
けれど、いつも冷静に物事を見られる茂雄ならば、春美が入院している本当の理由を考えつくのではないかと思った。
夕方六時、正樹は地元のカフェで待ち合わせた茂雄に会うと、春美のことについて話をした。
茂雄も入院が長引いていることを心配していたし、疑問に思ってはいたが、正樹から「脳の病気じゃないのか」と聞かれても、「医者じゃないから、分からないよ」としか言えない。
「昨日、北原って名前の医者に会ったんだ。その人に聞けば、病気のことを教えてくれるかな?」
「家族でもない人間に、教えてなんかくれないだろ……あぁ、家族か……」
茂雄は、春美の妹である幸恵ならば、何か教えてくれるのではないかと思った。
幸恵は、正樹と茂雄の二歳年下で、中学生の時は吹奏楽部の後輩だった。
大学でも吹奏楽を続けている幸恵に、茂雄は楽器の修理で相談を受けたことがあるので、『Messey』でも繋がっていると言う。
茂雄がメッセージを送って連絡を取ると、幸恵は近くにいるから、ここに来ると返信があった。
返信が来てから十五分くらい待っていると、幸恵がやって来て「お久しぶりでーす」と言いながら、底抜けに明るい笑顔を振りまいていた。
「先輩、私、アイスモカが飲みたいです」という幸恵の要求に応える正樹は、席を立ってレジカウンターに並んだ。
控えめな姉と性格をひっくり返したように、妹は図々しい。それでも春美のことが聞けるなら、飲み物の一杯くらい安いものだと思う。
正樹がホイップクリームの浮かんだアイスモカを差し出すと、幸恵は有り難さを感じさせない声遣いで「どうもでーす」と言って受け取った。
「あのさ、来てもらった理由はお姉さんのことなんだけど、春美先輩って本当は何で、入院しているの?」
茂雄が訊ねると、先程まで能天気そうだった幸恵の表情が、途端に憂いを帯びた顔に変わった。
「やっぱり、そのことですか……勝手にペラペラ喋ったら怒られそうだけど、先輩たちならいいかな……」
幸恵の話しによると、春美が二十歳の頃、ボランティアの為に渡航していたベトナムで意識を失って倒れたことがあり、その時は現地の病院に運ばれて処置を受けたが、父親から日本の病院で検査を受けるように言われて、帰国することになった。
帰国して検査を受けると、倒れた原因に関しては、過労やストレスによる脳貧血だと診断されたが、脳検査の結果から若年性アルツハイマーの前段階である、軽度認知障害(MCI)であることも判明した。
「二十歳でアルツハイマーなんて、そんな馬鹿な……」
正樹はネットで見つけたその病名を知っていても、病状までは詳しく分からないが、茂雄は信じがたいという表情を浮かべている。
「私もはっきりは分からないんですけど、お医者さんからは、まだ軽い状態だから大丈夫だって言われていたんです。でも、今回倒れてから検査を受けたら、前よりも進行していたみたいで……」
幸恵は急に言葉を詰まらせると、顔を伏せて泣き始めた。
茂雄が自分のバッグからハンカチを取り出して幸恵に差し出すと、それを受け取って涙を拭いている。
「春美先輩は、自分で病気のことを知っているの?」
正樹が訊ねると、幸恵は涙を拭いた顔を上げて答えた。
「病気のことは知ってます。でも、病気が進行していることを聞いたのは家族だけで、まだ本人は知りません。自覚症状がない限りは、不安にさせるだけだって言われたから……でも、お姉ちゃんの記憶が無くなって、もしかすると死んじゃうのかもって思うと、凄く心配で……」
幸恵が再び顔を伏せて泣き出すと、これ以上、春美のことを話させるのは、彼女にとって辛いことだろうと二人は思った。
《マサキ:春美先輩、本当はもっと重い病気だったみたいだ……》
《ゆうすけ:そうなんだ……でも、きっと大丈夫だよ!》
メッセージを送ったものの、その返事が能天気に思えて苛立った正樹は、やり場のない気持ちを裕介に当てつけた。
《マサキ:そんなのんきな話じゃないんだよ!》
その乱暴なメッセージに、裕介からの返信は無かった。
翌日の夕方、再び会うことにした正樹と茂雄は、北原という医師を訪ねて病院へ来た。
春美の病気を知らなければ何も話してくれないだろうが、知っているのなら何か聞けるかもしれないと思ったからだ。
受付で面会を申し出ると、二人は脳神経科の診察室へ呼ばれた。
扉を開けると、中にいた北原がにこやかに笑いながら、二人が座るための丸椅子を用意してくれた。
正樹が、春美の病状について幸恵から聞いたことを話すと、北原は「うーん……」と言いながら、首を傾げている。
「本当はね、医師が家族でもない人に、患者さんの病気について話すことはできないんだよ。でもね、君たちが何も知らずに澤村さんに会って、本人が不安になるようなことを色々と話されては困るから。だから、本人の前では病気の話しをしないと約束できるかい?」
正樹と茂雄は同じように頷いて、北原の言うことに応えた。
「はい、大丈夫です。だからこそ本当の事を教えて下さい」
北原が春美の病状について話し始めると、若年性アルツハイマーについては、正樹もネットで調べていたから、話の内容を理解することができた。
春美の年齢で発症することは非常に稀であり、その原因についても核心つくことはできず、MCIは認知症とは呼べない軽度な症状であったが、今は若年性アルツハイマーに進行しはじめていると言う。
「治りますよね?」という正樹の質問に対して、北原は言葉を詰まらせていた。
「進行を遅らせることは可能でも、完治することは出来ないんだよ……これから澤村さんは、今まで以上に病気と向き合って生活しなければならない。それには、自分の病状を知るタイミングと、受け止める心構えが必要だし、不安にさせない為のカウンセリングも必要になってくる。だから、本人がマイナスに感じてしまうような話しを、他人から聞かされては困るんだ。理解できるよね?」
正樹は話を聞くと、頭の中が真っ白になるだけで、問い掛けることも、問いただすこともできず、ただ沈黙の中で耳に鳴り響く、甲高い音を聴いていた。
二人は北原の言うことを理解して頷くことはできても、全てを受け止めることはできなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます