第2話 経過報告(2)

 正樹は店の外に出ると、入り口に備えられた灰皿の前に立ち、再び煙草に火を付ける。陽子に言われたことは癪であるが、初めて煙草を吸った時に、もうトランペットを吹くのを諦めた感覚になったのを思い出した。


「あ、いたいた。ちょっと待てよ」

 正樹のことを心配した茂雄は、追いかけて店から出てきた。

「別に逃げてねぇよ」

「そりゃそうだ、まだ会費を受け取ってないからな」

 正樹が手持ち無沙汰の相手を気遣うことなく煙草を吸い続けていると、茂雄は隣の店の中を扉越しに覗き始めた。


「なぁ、ちょっとだけ二人で呑もうぜ」

 茂雄は隣の店の入り口を指差して、正樹のことを誘う。

「いいけど、他の連中は大丈夫か?」

「あと二時間は呑んでるだろうから、それまでに戻れば大丈夫だよ」

 正樹も大勢の中にいることが億劫だったので、その誘いに乗って店の中に入った。


 カウンターのみの小さな焼き鳥屋は、先程までいた店とは相反する静かな店内で、十脚ほど並べられた椅子に座っている客は一人だけだった。

 大根おろしにしらすを合わせたお通しを出されると、ホッピーと氷の入った中焼酎を頼んで、一瓶を二人で分け合った。


「正樹は成人式の日も来なかったからな、今日は帰さないぞ」

 茂雄はそう言った後、カウンター商売にしては愛想の無い店主の男に、串焼きの五本盛りとつまみを二品頼むと、正樹に他の注文を委ねてきたが、特に目ぼしい酒のあてもないので、かぶりを振って断った。


「でも、まぁ、陽子の空気が読めないとこは昔からだからな、大目に見てやれよ」

「別に気にしてないよ。でも、あの性格で仕事は大丈夫なのか?保育園なんて、ママさん達から目をつけられそうだけどな」


 静かな店内に、茂雄がケラケラと笑う声が響く。二人がジョッキに注がれた酒を飲み干しておかわりを頼むと、店主はいちいち追加注文を受けるのが面倒なのか、ジョッキに七割ほど注がれた中焼酎を差し出してきた。


「でも、どうなんだ?本当は春美先輩のこと、今でも嫌っているのか?」

「そんな訳ないだろ、あれは、まぁ……ガキだったからな、そう思ってしまったら、それしか考えられなかっただけだ」


 春美は正樹が中学二年生の頃、吹奏楽部の部長で金管パートのリーダーでもあった。

 部全体を纏めながら、後輩の面倒見もよかった春美は、正樹にとって先輩というよりも優しい姉さんのような存在であり、その性格から異性に対する恋心も抱いていた。

 けれど、そんな春美のことを憎むようになった原因は、アンサンブルコンテスト(規定された人数と楽器で演奏を行う大会)が発端だった。


 陵南中学校の吹奏楽部では、東京都で行われる予選大会の前に校内でのセレクションを受けて、選抜された二チームが本大会に出場できる。

 セレクションと言っても、基本的には三年生のグループから選ばれるのが毎年のことだが、この年の三年生は部員数も少なく、大半が木管楽器のメンバーであり、金管楽器を担当していたのは、ユーフォニアムの春美だけだった。

 その為に金管楽器のメンバーは、正樹、茂雄、純一郎、陽子と、トロンボーンを担当していた佐久間裕介の二年生で組まれた、金管五重奏が本大会への出場権を獲得した。


 この五人は小学生の頃から鼓笛隊でトランペットを吹いていた正樹を筆頭に、他の四人も中学生としては高い技術であった為、全国大会出場候補としても注目された。


 五人が演奏した曲は、シャイト作曲『戦いの組曲より、ベルガマスクのカンツォーン』

 海外でも有名なプロバンドが地元のホールで演奏していたのを聴いた時から、この曲を演奏しようと五人で決めていた。


 そして校内セレクションが終わり、五人は本大会出場が決定したことに浮かれていると、顧問である有村から本大会への出場条件を出された。それは、春美を加えたメンバーで出場することだった。


 有村は誰よりも部に貢献していた春美を出場させたかったが、金管パートが不足している三年生ではメンバー構成できない為、五人にこの条件を出した。


 男子の中に女子が一人であった陽子は、むしろ好都合のように思っていたが、他のメンバーは新たに金管六重奏曲を選んで、一から練習することが不安だった。


 特に正樹は『戦いの組曲』を演奏することに執着心が強かったので、いくら春美の為と言っても、恋愛感情を取っ払って反発したが、有村としては翌年もチャンスがある二年生の意見より、春美のことを優先するだけ。


 仮に金管五重奏で出場を望むのであれば、構成的にトランペット二名とホルン、チューバは外せないから、トロンボーンとユーフォニアムを入れ替える手段しかないので、裕介を外すことになる。

 けれど裕介を外すことなど考えられないし、いくら春美であっても先輩が加われば気も使う。それで折角の息が合った演奏に乱れが出てしまうのも、正樹は心配だった。


 有村の考えは変わらぬまま、金管六重奏に変更する条件を押し付けられると、茂雄と純一郎も、春美のことを考えたら仕方ないことだと納得していたが、正樹だけは腑に落ちなかった。

 すると、そんな正樹のことを見兼ねた裕介は、自分が外れるから金管五重奏で出場すればよいと言い出したが、それには全員が反対した。


 特に正樹と裕介は小学生からの親友であり、吹奏楽部に裕介を誘ったのも正樹だ。

 だからこそ、裕介にとっては正樹の意見を尊重したいという気持ちが強かったのだろう。それに、技術的には自分よりも春美の方が優っているで、全国大会に出場することを考えれば、そのほうが良策だと言い出した。


 裕介を外す考えはないという意見は全員一致したが、春美に諦めてもらうように説得すると言う正樹と、六人で出場すればいいと言う他のメンバーの意見は纏まらなかった。


 それから正樹は、二年生メンバーだけの出場を認めてほしいと単独行動で春美に直談判をしたところ、有村に話を聞かされていなかった春美からの返事は、出場を認めるどころか、メンバーに加入することへの拒否だった。


 そのことを喜ばしいことのように正樹は他のメンバーへ報告したが、返ってきたのは批判する声だった。

 特に陽子は、初めから春美の加入に賛成していたし、正樹の行ったことは非倫理的な行動だと言って責め立て、自分もメンバーから外れるとまで言い出したのを、茂雄と純一郎が宥めた。


 そうしてメンバーの関係が悪化したまま、アンサンブルコンテストに向けた練習もせずに三日が過ぎた頃、裕介が学校へ来なくなった。

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