死神シオンと空っぽなお爺さん
朽木青葉
死神シオンと空っぽなお爺さん
ある町の外れに小さなお屋敷が建っていました。
赤い屋根と白い壁が特徴的な木造2階建てで、ヨーロッパのお城をそのまま小さくしたようなとても素敵なお屋敷です。1階には大きなテラスがあり、広大な庭には噴水も設置されています。
そんな立派なお屋敷に、80歳ほどのお爺さんが1人で暮らしいました。家族や、お手伝いさんのような方の姿も見当たりません。お爺さんはとても痩せていて、歩くのやっとな様子ですが、それでも1人で暮らしていました。
お屋敷には来客もなく、お爺さんはいつも1人でした。
ところがある日。お爺さんがいつも通り、1人で食事の支度をし、1人で食べ終え、一息ついてベッドに横になり、趣味の本を読んでいた時のことです。
突如、1人の女の子が、お爺さんの前に現れました。
女の子はまるで初めからそこにいたかのように音もなく現れ、お爺さんが気付くといつの間にか彼の寝るベッドの脇に立っていました。もちろん、ドアは空いておらず、窓には鍵が掛かっています。
他に誰もいないはずの部屋に音もなく現れた女の子。それだけでも異常事態ですが、加えて女の子の見た目も異質なものでした。
彼女の背中には、人間のものとは思えない、黒い羽根が生えていたのです。
「私は、死神のシオン」
と、黒い羽の生えた少女、シオンは淡々と言いました。
それに対して、お爺さんも読んでいた本に栞を挟んでからゆっくりと顔を上げて落ち着いて答えました。
「そうかい、よく来たね」
お爺さんの様子を見て、シオンの方が無表情のまま首を傾けます。
「驚かないの」
「あまりね」
と、お爺さんはなおも落ち着いた様子で、知人に話しかけるようにやさしく言います。
「なにせ、もうワシも年だ。いつ死んでもおかしくないのだから、死神が見えたところで不思議もないだろう」
シオンはお爺さんの答えに納得したのか、小さく頷きました。
「ようこそ、シオンちゃん。君がこのお屋敷で、初めてのお客さんだ。歓迎するよ」
「お邪魔します」
「どうぞ、ごゆっくり」
お爺さんはそう言って、近くの椅子に座るようシオンに勧めたあと、自分はベッドから、よっこいしょ、と立ち上がり、ベッドの横に置いてあるポットで2人分のお茶を用意し、棚からクッキーを取り出しました。
「召し上がれ」
「ありがとう」
シオンはそのお茶を受け取り、お礼を言った後でゆっくり飲みました。お爺さんもそれを見て、優しく微笑みながら、カップに口をつけます。
「それで、シオンちゃん。死神がワシにどんな用かな?」
そうして2人はゆっくりお茶を1杯飲んだ後、お爺さんがやっと本題を切り出しました。
「もしかして、ワシはもう死んでいるのかな? それなら死神が見える説明もつくのだが――」
と、お爺さんは2杯目のお茶を飲みながら尋ねました。
「いいえ、あなたはまだ生きている」
「まだ?」
「あなたが死ぬのは、今からちょうど1週間後。それを伝えるために、私はあなたの前に現れた」
と、シオンは出されたクッキーを口に頬張りながら答えました。
「それはそれは、ご親切にありがとう」
「驚かないの?」
またもシオンは首を傾げる。
「あまりね。さっきも言った通り、ワシはもう年だ。長くないのは、自分が1番よく分かっているよ」
そう優しく、しかし、どこか寂しそうに微笑みながら言います。
「あと1週間か……」
「そう。1週間後にきちんと死ぬかどうかを監視するのが、私の役目」
「すると、シオンちゃんは、私が死ぬまでここにいるのかい?」
「そう。1週間、よろしく」
シオンはそう言い、お爺さんも、
「こちらこそ」
と、また優しく微笑みました。
こうして2人の奇妙な最期の生活が始まりました。
1日目。
「未練はある?」
と、シオンはお爺さんに尋ねました。
「いや、ない」
と、お爺さんはシオンの問いに即答します。
すると、またもシオンが不思議そうな顔で首を傾げました。
「本当にないの?」
「ああ、ないよ。シオンちゃんは、ワシに未練がないと困るのかい?」
「困らない」
シオンは首を振って否定します。
「未練があるのなら、出来る限りなくせるよう、私も協力しようと思っていた。でも、ないならないで構わない」
「それも、死神の仕事なのかい?」
「違う。さっきの質問と私の役目は、一切関係ない」
「おや、ならどうして?」
「私、個人の興味」
「へぇ」
と、お爺さんはここで初めて少し驚いたように目を丸くします。
「君にも感情があるんだね。死神というから、てっきり個人の意思や考えはないと思っていたのだが。無表情だしね」
「よく言われる」
シオンはそう冷たく答えました。しかし、感情があると知った後だからでしょうか、お爺さんにはそれが少し楽しそうに微笑んでいるようにも見えました。
お爺さんもそれにつられて、頬を緩ませます。
「そうか、だけど残念だったね。ワシには、この世に未練なんてないんだよ」
「そんなことはない」
と、シオンはまたお爺さんの言葉を否定しました。
「あなたにも、未練はきっとある」
「おや、どうしてだい?」
「だって、未練がない人は、そんなに悲しそうに笑わないから」
「…………」
お爺さんは、何も答えません。
そう言ったシオンへ、ただ、静かに優しく微笑んだだけでした。
次の日の朝。
お爺さんはいつも通り、窓から差し込む朝日に照らされ、目を覚ましました。お爺さんは早起きです。
お爺さんの寝ている部屋の窓からは、色とりどりのアジサイが咲く、美しい庭が見えます。体が衰え、ろくに手入れもできませんが、それでも美しく咲いてくれる庭の花々が、お爺さんの小さな楽しみの1つです。特に今日は雨上がりのためか、アジサイの花が濡れて、とても綺麗でした。
お爺さんが窓を開けると、朝の爽やかな空気が部屋いっぱいに吹き込んできます。
もう何年もの間、まったく変わることのない、いつも通りの朝です。
お爺さんは、しばらくぼんやりと外のアジサイを眺めた後、視線を部屋の中に戻します。
すると、そこには――
「おはよう」
「…………おぉ」
ベッドの横の椅子に背筋を伸ばして座る、背中に黒い翼を生やした女の子がいました。
お爺さんは驚いて目を丸くした後、動揺して小さく呻きます。
そして、昨日最後に見た姿とまったく同じ姿勢でこちらを覗くシオンを見て、どうやら昨日のあれは夢ではないらしいことを理解しました。
「やあ、シオンちゃん。おはよう」
と、お爺さんはやっと微笑みながらシオンへ朝の挨拶をします。
「すまないね。いつもはワシ1人で、近くに誰もいないから、少々驚いてしまった」
お爺さんにとっては死期の近い自分の前に死神が現れるより、自分が起きた時に自分以外の誰かがこの屋敷にいることの方が余程あり得ないことでした。
そんなお爺さんの内情を知ってか知らずか、
「別に気にしていない」
と、シオンは素っ気なく答えます。
そんな様子を見て、お爺さんは昨日のことを思い出しながら尋ねました。
「本当に寝ないんだね。ワシが寝ている間、ずっとそこにいたのかい?」
昨日の夜、お爺さんがシオンに休むための客室を与えようとしたところ、シオンは、死神は寝ないから、と言ってそれを断ったのです。
「ずっといた」
実際、シオンが動いたような形跡はなく、部屋は勿論、シオンの座っている位置や姿勢まで、昨日のままでした。
「ずっと同じ姿勢で疲れないのかい?」
「疲れない」
「お腹は?」
「空かない」
「退屈は?」
「する」
「ふふっ」
シオンはそれぞれの問いに即答し、最後の素直なシオンの答えにお爺さんは笑いました。
「そうか。なら、今夜は退屈しないよう、遊び道具を用意してやろう」
「助かる」
「さて、何がいいだろう?」
と、お爺さんは楽しそうに1人呟きました。
「ところで、これからワシは朝食を取るのだが、シオンちゃんはどうする? 死神はご飯を食べるのかい?」
「食べる必要はない」
「なら――」
「だか、食べられないこともない。もし仮に、あなたがうっかり朝食を2人分用意してしまい、1人では食べきれないという事態が発生したとするなら、その時は、私が余った食材の処理を手伝ってもいい」
「……その、つまり?」
「食べたい」
「ふふっ、そうかい。分かった、すぐに用意するよ。そういえば、昨日もクッキーを食べていたね」
「美味しかった」
「ふっふっふ、それはよかった」
と、お爺さんは朝食を用意するために、ベッドからゆっくり腰を上げ、1人キッチンへ向かいます。
「…………」
シオンはその様子を黙って見つめていました。
「お待たせ」
30分後、お爺さんは2人分の朝食の乗ったお盆を持ち、寝室に帰ってきました。そして、ベッドの脇にある机の上に、お皿を1つ1つゆっくりとした動作で並べます。
朝食は、こんがり焼かれたトーストとグリーンサラダに牛乳と、とてもシンプルなものです。
「さあ、食べよう」
そう言って、お爺さんも席に着き、2人は食べ始めました。
「…………」
そして、3分後にはシオンの前に置かれたお皿はすべて空になりました。シオンはまだ食事をしているお爺さんを、黙って見つめます。
「……この家には、あなた以外の人はいないの?」
突然、シオンがお爺さんにそう尋ねたのは、それからさらに10分ほど経った時のことでした。特にすることもなく、暇だったのでしょう。
お爺さんが手に持っているトースターは、まだ半分も減っていません。
「ん――」
お爺さんは口の中の物をしっかり噛み、飲み込んでから答えます。
「ああ、そうだよ」
「1人も? 家族は?」
「いないよ。家族も」
お爺さんはそう言ってまた微笑みます。
「親とは、とっくに死別した。結婚はしていないから妻や子供もいない。兄弟もいないし、連絡を取り合っている親戚もいない」
「1人で大変じゃないの?」
「慣れれば平気だよ。機械がサポートしてくれるから、頭が鮮明で歩けるうちは生活に困ることはない。1人でだって生きてはいける。便利な世の中になったものだね」
「…………」
と言って、お爺さんは食事を再開しました。シオンも話題がなくなり、また黙ってお爺さんを見つめます。
それからしばらく、静かな時間が流れました。窓の外から鳥のさえずりと、噴水から流れる水の音だけが聞こえます。
いつの間にか寝室に入って来ていたロボット掃除機が部屋を1周し、その過程でお爺さんとシオンをそれぞれ1回ずつゴミと勘違いして足にぶつかった後、また部屋から出ていきました。
「……ふう」
そして、やっとお爺さんが朝食をすべて食べ終わりました。
「待たせたね。今、片付けるよ」
と、お爺さんが立ち上がります。
「手伝う?」
「いや、大丈夫だよ。1人で出来るから」
立ち上がりかけたシオンを、お爺さんは微笑みながら制しました。
お爺さんは1人、空のお皿を持って、キッチンへと向かい、
「…………」
シオンがその後ろ姿を黙って見つめていました。
3日目のお昼。
今日は朝から天気が悪く、窓の外は土砂降りでした。強い雨と風に当てられ、流石のアジサイも辛そうです。雨が止む様子はなく、外干し派の人たちは今日の洗濯物を諦めるしかないでしょう。
しかし、乾燥機を使い、家から1歩も出ないおじいさんには、雨だろうと晴れだろうと関係ありません。
2人はいつもの寝室で、机を挟み向き合って座っていました。
お爺さんは普段と変わらない優しい微笑みを浮かべ、目の前のシオンを静かに見つめています。
対するシオンは顔を伏せ、机の上に置かれている物に意識を集中していました。顔こそいつもの無表情ですが、その雰囲気はどこか余裕がなく、焦っているように見えなくもありません。
そんなシオンにお爺さんは静かに声を掛けました。
「降参かな?」
「……まだ」
そう言って、シオンは机の上の物を1つ、手を使って動かします。
「そうかい、なら――」
間を開けず、お爺さんも机の上にある物を同じように1つ動かし、
「チェックメイト」
と、宣言しました。
「――っ!」
「はい、ワシの勝ち」
チェスです。
ちなみにシオンが白で、お爺さんが黒。
暇を持て余していたシオンにお爺さんが進めたのがチェスでした。
ルールを知らない、と言ったシオンに昨日の内に簡単なルールブックとチェス盤を渡し、自分が寝ている間に覚えるといい、とお爺さんが進めたのです。
そして今、朝食を食べた後、ルールを覚えたシオンはお爺さんと対局し、見事に負けたのでした。
「…………」
負けた腹いせなのか、シオンは静かにお爺さんを睨みます。
しかし、お爺さんはどこ吹く風。
「ふっふっふ、そんなに睨まないでくれ。いや、ルールブックを読んだだけで、それだけ指せるなんて、シオンちゃんは良い腕をしているよ」
と、楽しそうに笑いながらシオンを励ましました。
「…………」
褒められたのが嬉しかったのか、途端に睨むのを止めるシオン。その顔はどこか得意げです。
それを見てお爺さんは、単純な子だなぁ、と思いましたが、勿論口には出しません。お爺さん、だいぶシオンの扱いに慣れてきました。この死神、結構感情豊かで単純です。
「どうだい、もう1局?」
「やる」
シオンは即答し、
「そうこなくっちゃ」
お爺さんも嬉しそうに応じます。
そして――
「チェックメイト」
「…………」
5分と経たずにシオンがまた負けました。
「ふっふっふ」
と、膨れているシオンを尻目に楽しそうに笑うお爺さん。
「ふっふっふ。いや、こんなに楽しいのは久しぶりだ」
「……だろうね」
「ああ、こうして人とチェスを打ったのは何年振りだろう」
嫌味も効果はなく、お爺さんはそう言ってまた笑い出します。
「チェスは1人ではできないからな」
「……うん?」
と、それを聞いてシオンが少し首を傾げました。
「おや、どうしたんだい、シオンちゃん?」
「そういえば、どうしてお爺さんは1人なの?」
「いや、それは昨日説明したろう。ワシには、もう頼れる親戚が――」
「親戚がいないのは聞いた」
「なら」
「けど、お手伝いさんが1人もいないのはおかしい」
「…………」
「あなたくらいの年の人には今まで何度も会ってきたけど、みんな必ず周りのお世話をしてくれる人がついていた。何故、お爺さんにはお手伝いさんがいないの?」
「……いないからだよ」
と、お爺さんは答えになっていない答えを返します。
「なるほど」
しかし、人間の世俗に疎いのか。それとも特に何の意図もなく、ただ思いついたことを暇つぶしのために口に出しただけなのか、シオンはお爺さんの答えに納得し、それ以上深く尋ねることはしませんでした。……多分後者です。
勿論、お爺さんの顔色が少し悪いことにも気づきません。
「ま、まあ、そんなことより、もう1局どうだい?」
お爺さんは精一杯の笑顔を作り、話しを逸らしました。
「やる」
シオンは即答し、次こそ勝つためにチェスに集中します。
そして――
「チェックメイト」
「…………」
また負けました。
結局その日シオンは全36戦中、1度もお爺さんに勝つことはできませんでした。
4日目。今日も昨日に引き続き、外は大雨です。
死神に宣告された最後の一週間も半分以上が過ぎ、お爺さんの寿命も残りわずかとなりました。
しかし、相も変わらず、
「チェックメイト」
「――っ!」
お爺さんは普段と変わらない微笑みを浮かべ、シオンとチェスをしていました。チェスの成績は、これでちょうどシオンの50連敗です。
50回とも変わらず、シオンが白で、お爺さんが黒。これは2人の間でお約束になっていました。
「…………」
と、シオンは負ける度に膨れ、静かにお爺さんを睨みます。そして、そんなシオンをお爺さんがおだて、機嫌を取り戻した彼女ともう1戦。
昨日とまったく変わらない風景。そして、51戦目。2人はいつも通り雑談を交わしながら、駒を進めていきます。
「強い」
「いや、ワシなんてまだまだだよ」
「チェスはどこで覚えたの?」
「中学校の教員をしていた頃、チェス部の顧問になったことがあってな、その時に覚えたよ」
「先生だったの?」
シオンは少し驚いた様子で尋ねました。
「ああ、数学を教えていたよ」
「意外」
「ふっふっふ、だろうね。自分でもおかしいと思うよ」
「どうして、先生になったの?」
「たまたま教員免許が取れたからさ」
「それだけ?」
「ああ、特に理由はないよ。他にやりたいこともなかったから、なれる先生になった、それだけだよ」
お爺さんは微笑みながら答えます。
「酷い教師だったよ。情熱もなく、毎日数学をただ教えるだけで、生徒と全く向き合おうともしなかった。生徒たちはきっとワシのことを憎んでいるだろうね」
と言って、お爺さんは駒を1つ掴み、
「チェックメイト」
「……また負けた」
「ふっふっふ。じゃあ、チェスはこれくらいにして、夕飯の支度をしよう。何がいいかな?」
「ご飯!」
「いや、勿論お米は出すけど……」
「冷たいの!」
「わ、分かった。じゃあ、シオンちゃんのご飯は冷ましておくよ」
思わぬシオンの反応に驚きつつも、お爺さんはゆっくりとベッドから立ち上がります。
「手伝う?」
「大丈夫、1人で出来るよ。ずっとそうしてきたしね」
そう言って、いつも通りに1人でお爺さんは台所に向かいます。
いつも通り黙ってその背中を見送ったシオンは、その背中を見て小さく呟きました。
「……悲しそう」
5日目。
「どうして、そんなに悲しそうに笑うの?」
普段通り2人でチェスをしている時のことです。唐突にシオンがそう尋ねました。
「どうしたんだい、急に?」
お爺さんも目を丸くします。
「ずっと気になっていた。お爺さんが自分からその理由を話してくれるのを待っていた。でも、もう5日目。今日も含めて、あと3日しかない。だから、自分から尋ねた」
シオンはお爺さんを真っ直ぐ見つめながら、再び尋ねます。
「どうして、お爺さんはいつも悲しそうなの?」
「特に理由はないよ」
「ウソ」
「ウソじゃないさ。強いて言うなら、理由がないのが理由かな」
「分かるようにお願い」
「ふっふっふ、いいよ。そういえば、昔も良く、生徒にこうやって質問された」
お爺さんは笑います。しかし、その笑みもやはりどこか空ろで、空しく響きました。
「ワシはね、空っぽなんだ」
「空っぽ?」
「ああ。ワシには何もないんだよ。家族も好きな人も嫌いな人も好きなことも嫌いなこともやりたいこともやりたくないこともやり残したことも、何1つないんだ」
「じゃあ、仕事は? 教師は?」
「昨日も言ったが、教師にはなれたからなっただけだよ。好きでも嫌いでもない」
「この屋敷は? こういう物は入手が難しいと聞いた」
「教師時代の貯金で買ったんだよ。特に買いたい物がないから使わずに貯めていたら、結構な額が貯まってね。退職祝いに買ったんだよ」
「未練も」
「ないよ」
当たり前のことのように言うお爺さん。
好きな人がいなければ1人でいても平気だし、やりたいことがなければ何もしなくて良い、生きたいとも思わないから死にたくないとも思わない。だから、勿論未練もない。
死神も1人です。お爺さんの言葉をシオンも理解できたのか、小さく頷きます。
しかし――
「ワシが悲しそうに見えたのなら、きっとそれが原因だね。でも勘違いしてはいけないよ、ワシは少しも悲しくないんだから」
シオンはこの言葉にも頷きます。
何もなければ、悲しいとも思わない。死神も同じだから。
それでも――
「いいえ、あなたは悲しそう」
シオンはお爺さんの主張を否定しました。1日目、お爺さんが未練はない、と言った時のように、今回もまた。
「納得できないならそれでもいいよ、納得して貰おうとは思ってないからね」
と言ってお爺さんは、チェスの駒を1つ手に取ります。
「チェックメイト」
「また負けた」
「ふっふっふ、残念」
「あなたが死ぬまでに、絶対勝つ」
「頑張って、応援しているよ」
お爺さんは微笑み、チェス盤を片づけるために1度立ち上がり、チェス盤を手に取って少し離れた棚の中に置きました。
「空っぽなんてウソ」
その背中を見ながら、シオンは呟きました。その声はお爺さんには届きません。
「――だって、チェスをしている時のあなたは、とても楽しそう」
6日目の正午。その日もいつもと変わらず、2人はチェスを楽しんでいました。
しかし、そんな変わらない日々にある変化が訪れます。
「御免ください」
玄関をノックする音とともに、そういう男の人の声がお屋敷に響いたのです。
「…………」
「…………」
「「…………っ!」」
チェスの途中だった2人はそれを聞き、そろって目を丸くしました。
お爺さんのお屋敷に初めて人間のお客さんが訪れる。しかも、お爺さんの余命も残すところ後1日となったこのタイミングで。死神の訪問をも超える驚天動地の出来事でした。
シオンは慌ててチェス盤を片づけ、お爺さんは客人を迎えに、ゆっくりと、しかし動揺した足取りで玄関を目指して歩き出します。
お爺さんが何年かぶりに靴を履き、外に出ると、
「あっ、先生。お久しぶりです」
そこには1人の男性が立っていました。男性はお爺さんが玄関を開けるなり、大声でそう挨拶をします。どうやら来客はお爺さんの知り合いだったようです。
男性は20から30代くらいで、まだ新しそうな紺色のスーツを着ています。
「……おお、白菊君か」
どうせ訪ねてきたのはセールスマンか宗教団体だろうと、勝手に決めつけて考えていたお爺さんは、客人が知人だと分かり、さらに目を丸くします。
「俺のこと、覚えててくれたんですね。嬉しいです」
「勿論だとも、忘れるはずがない」
白菊は、お爺さんがまだ教師をしていた頃に知り合った生徒です。お爺さんは白菊のクラスの担任で、また自身が顧問をするチェス部の部長でもありました。
「さあ、立ち話も何だ、上がってくれ」
「はい、お邪魔します」
そう言って、白菊は屋敷に上がり、お爺さんの先導して廊下を歩きます。
「すまないね、客室はあるんだが……ワシももう歳だ。普段使いの部屋で構わないかい?」
「勿論です! こちらこそ、気を使わせてしまいすいません……」
お爺さんと白菊はお互いに申し訳なさそうにそう言い合います。
そして、お爺さんの案内で、2人はいつもの寝室の前にたどり着きました。
「さあ、汚い部屋だがどうぞ――」
と、お爺さんが扉を開けると、そこには――
「…………」
シオンがいました。子どもにしか見えない小さな女の子です。背中には翼を生えています。一目で人間でないとわかります。どの角度からもアウトです。
「――っ!」
お爺さんは自らの失敗に気づき、絶句しました。動悸で倒れそうです。何なら、1日早く昇りそうです。
この6日間、シオンといるのが当たり前になっていたお爺さんは、彼女が死神であることをすっかり忘れていました。
慌てて扉を閉めようとするお爺さん。
しかし、シオンはそれを、
「待って」
と遮って、落ち着いたいつもの口調で言います。
「あなた以外の人間に私の姿は見えない」
「……そうなのかい?」
お爺さんは、閉めかけのドアから顔だけ出してシオンと話します。
「今までずっとあなたと2人っきりだったから、説明が遅れた。ごめんなさい」
「いや、謝る必要はないよ。こちらこそ配慮が足りなかった、悪かったね」
「気にしていない」
「なら、お客さんを部屋に入れても大丈夫かな?」
「問題ない」
「その間、シオンちゃんはどうしている?」
「こうしてる」
と言って、シオンは椅子から立ち上がり、今度はいつもお爺さんの寝ているベッドの上に腰を下ろしました。
それを見て、安心したお爺さんは再び扉を開けて、白菊を部屋の中に誘います。
「……すまない、待たせたね」
「いえ、気にしていません。それより、部屋に首だけ入れて、何をしていたんですか? 顔色も悪いですが……」
「い、いや、部屋の中に虫がいてね! どこかへ行ってしまうのを待っていたんだよ……」
「は、はあ……」
お爺さんの返答を不審がりつつも、白菊はそれ以上そのことについて尋ねたりはしませんでした。特に問題ないと判断したのでしょう。
それからお爺さんは白菊に、さっきまでシオンが座っていた椅子を勧め、自分はお茶とお菓子の用意をしました。
「ところで、今日はワシに何か様かな?」
と、お爺さんは自分も腰を下ろし、お茶をゆっくり1杯飲んだ後で、白菊に尋ねます。
「はい。今日は先生にお礼がしたくて上がらせて頂きました」
「お礼!?」
それを聞き、お爺さんは驚きすぎて叫んでしまいました。先ほどからお爺さんは驚きすぎて、動悸が人生新記録をマークしっぱなしです。1周回って生きた心地がしません。最早ここが天国です。
自分のことを最低な教師だと思っていたお爺さんは、恨まれることはあっても、感謝されることは絶対にないだろうと思っていたのです。もし恨まれるなら、きっと最も迷惑をかけた白菊だろうとさえ考えており、遂にその彼が復讐をしに来たのだと、勝手に決めつけていました。
「先生には、中学時代にお世話になりっぱなしでしたから」
「お世話!?」
「今の俺があるのは、全て先生のお陰です」
「ワシのおかげ!?」
「本当にありがとうございました!」
驚きっぱなしのお爺さんに、白菊はそう深々と頭を下げます。
あまりの出来事の連続で、現実逃避をし始めたお爺さんの脳は、そんな白菊をまるで人間によく似たまったく別の物体のように捉え始めていました。端的に理解が追いつきません。
ベッドに黙って座る、人間によく似たまったく別の物体(?)も、その様子を黙って見守っています。
「し、白菊、礼を言う相手を間違えてないか? 本当にワシでいいのか?」
お爺さんは、目の前で起きたことがまだ信じられず、白菊へそう尋ねます。
しかし、白菊はまっすぐにお爺さんを見据え、きっぱりと首を振りました。
「間違えるはずがありません。先生は俺の憧れでした。先生はとても生徒思いで優しくて、数学の授業も分かりやすく、いつか先生みたいな教師になれたらいいな、とずっと目標にしてました」
「……そういえば白菊、教師志望だったな」
「はい。先生は、ずっと空っぽでただ漠然と毎日を過ごしていた俺に夢を与えてくれました」
「ワシが他人に夢を……?」
自身のことを空っぽだと自称していたお爺さんは、まったく逆のことを言われてますます狼狽えます。
「お陰で無事、教員免許も取ることができ、先日正規の教師としてもようやく採用されました。本当にありがとうございます。今日は、それを伝えたかったんです」
「……そうか。教師になれたのか」
「はい。これからも先生に少しでも近づけるよう、頑張ります」
目を輝かせる白菊。
かつての自分を空っぽだと自称した青年は、輝く顔でお爺さんを見つめます。
その様子に何を感じたのか、お爺さんは――
「……なあ、白菊」
「なんですか?」
「お前さんから見て、ワシはどんな先生だった」
と、尋ねました。
白菊はきっぱりと、
「最高の先生でした」
と、即答します。
「……そうか、最高か」
白菊の答えを聞いて、お爺さんはお爺さんは1人呟きます。
そして、
「ワシは、1人ではなかったのだな……」
そう呟いたっきり、お爺さんは遠くを見つめて黙ってしまいました。
そんなお爺さんを、白菊もシオンも黙って見守ります。
しばらくして、何かを決心したかのようにお爺さんは顔を白菊に向けました。
「……なあ、1つ頼まれてくれないか?」
「はい、何ですか? 何でも言ってください」
「ワシも、もう長くない」
「そんな! 弱気にならないで――」
「まあ、聞け」
「…………」
「ワシも長くない。だから、ワシが死んだら、お前さん、この屋敷を貰ってくれないか?」
「この屋敷ですか?」
「ああ。こいつはワシのお気に入りでな。教師時代の貯金を全て注ぎ込んで買ったものだ。ワシの人生の集大成といってもいい」
「そんなものを俺なんかが貰ってもいいんですか?」
「ああ、お前さんに貰って欲しい」
「……分かりました」
「ありがとう、白菊」
と、お爺さんは笑いました。その顔はとても嬉しそうで、まったく悲しそうには見えない、純粋な、とびっきりの笑顔でした。
そんなお爺さんを見て、白菊は少し悲しそうに口をすぼめた後、ニッコリと笑って口を開きます。
「けれど、それは先生が死んだときの話しです。大丈夫、先生ならあと10年だって、20年だって生きられますよ」
「……そうだな」
「今は厳しいでしょうが、お身体が元気になったら、どこかへ一緒に出掛けましょう。どこがいいですか?」
「お前さんのいた学校をもう1度見てみたいな。他のチェス部のみんなのことも気になる」
「いいですね。同窓会も開きましょう」
「ああ」
「そうだ、久しぶりに1局どうです?」
「いいな、やろう」
「チェス盤はどこですか?」
「棚の上だ」
そして、白菊が用意し、2人はチェスをしました。
2人はとても楽しそうで、シオンもそれを横から黙って見つめています。
「もっと早く、お前さんに会えていたらな……」
お爺さんは呟き、白菊との対局を噛みしめるように、ゆっくりと駒を動かします。
チェスをしている間も、白菊はお爺さんとのお出かけの計画を話し続けました。お爺さんはそれを、時に笑いながら楽しそうに聞きます。
2人は、そのまま続けて5局ほど指しました。ちなみに成績は、2勝2敗1引き分け。
「――では、俺はこれで失礼します」
と、白菊はチェス盤を片づけ、立ち上がりました。
「見送ろう」
「いえ、お気遣いなく」
「……そうか」
「では、後日近いうちにまた来ます」
と、白菊はドアノブに手を掛けます。
「お邪魔しました」
「……じゃあな」
お爺さんはそう短く、しかし名残惜しそうに言いました。
「はい、また会いましょう」
と、白菊は明るく言って、ドアを開け、部屋から出て行きます。
屋敷は、またお爺さんとシオンの2人だけになりました。
「……なあ、シオンちゃん」
お爺さんは、ずっとベッドに座り黙っていたシオンに、そう話しかけます。
「ワシの寿命は、あとどれくらいだい」
「ちょうど18時間」
と、シオンは即答します。
「……一応確認するが、その時間が間違いだったり、ずれたりすることは?」
「ない」
またも即答します。
「その時間は絶対。1秒だって、変わることはない」
「じゃあ、ワシ自身が死を防ごうと動いた場合どうなる? ワシは自分がいつ死ぬのかを知っている」
「そういうことが起きない様に監視するのが――私の役目」
「……そうか」
お爺さんは諦めたのか、椅子の背にもたれかかり、遠くを眺めます。
「今更になって、やっとお前さんが死神なんだと自覚したよ」
「……恨むなら、恨めばいい」
「……そうだな」
「…………」
「……まだ間に合うかな? こんなワシでも、やり直せるかな?」
「…………」
お爺さんのこの問いに、シオンはただ静かに頷きました。
そして、ちょうど18時間後。お爺さんは息を引き取りました。
その顔はとても穏やかで、まるで眠っているみたいでした。もしも、寝ているだけなら、きっととても良い夢を見ているに違いありません。
「…………」
シオンはそれを静かに見届け、間もなく、現れたときの様に、次第に透明になり見えなくなっていきます。
完全に消える前、シオンはふっとお爺さんとよくチェスをした、あの机の上に目をやりました。
そこには、白い一枚の紙と、駒の乗ったままになっているチェス盤が置いてあります。盤上では、白が黒にチェックメイトをかけていました。
「…………」
シオンは少しだけ頬を緩ませ、そして完全に消えてしまいました。
窓から吹き込む風で、チェス盤の横に置かれていた紙が飛ばされ、部屋の中を舞います。
飛ばされた紙にはお爺さんの字で、こう書かれていました。
『ありがとう。君たちに出会えて、ワシはとても幸せだった』
――ある町の外れに小さなお屋敷が建っていました。
そのとても素敵なお屋敷にはお爺さんが1人で暮らしていました。
幸せに。幸せに暮らしていました。
死神シオンと空っぽなお爺さん 朽木青葉 @kutikigarden
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます