おっぱい、さようなら

「前にも言ったけど、そういうことってあるのよ……。」

 ママが、私を慰めるように優しい口調で言った。


「んぎゃーー、んぎゃーー!」

 一平くんは、一向に泣き止まない。


(ごめんね、一平くん、私、だめなママだね。おっぱい、もうあげられないんだ。)


 私は、自分の胸から「おっぱい」というものが出る衝撃に未だ順応しきれていない状態ではあったが、それでも「おっぱい」のすごさについては重々感じていた。

 だって、あかちゃんにとっておっぱいって精神安定剤みたいなもので、またママとあかちゃんとの最大のコミュニケーションでもあったから――。


 そんなに大事なものを、私はいきなり失ってしまったのだ。この新米ママ、本当はただの中学生が……。

 どうしたらいいんだろう。


 一平くんは、抱っこしてあやしても、気分転換に散歩に連れていっても、授乳のときみたいには泣き止んでくれなかった。

 おっぱいは、最強武器。それを失った新米ママの苦悩は、夜こそが本番だったということを、私はこのときまだ知らなかった……。





〜〜〜〜〜〜〜〜


「んぎゃーーー、んぎゃーーー!!」



「うう……、もう……またか……。」

 時間は、もう分からない。暗いからまだ夜中ということは分かる。時計を見ると、まだこんな時間か……と、がっくりしちゃうからもうやめた。

 一平くんはまだ夜中に何回も起きる。おっぱいがほしいとき、オムツが汚れたとき、その他いろいろ欲求のままに泣くのだが、言葉がないから分からない。

 眠りから一気に現実に戻された体は、しばらく思うように動かない。

 それになんとかもがいて、私は上半身を起こす。


「はいはい、ちょっと待ってね……。」


(あ、そうだ、おっぱい出ないんだった。)

 シャツを捲りかけたとき、思い出した。そうだ、今晩からは、ミルクを作らなくちゃいけないんだった。

「一平くん、待っててね……。」

 私は、泣き続ける一平くんをそのままにして、ふらふらしながら階段を下り、キッチンに向かう。

 まず抱っこして、あやせよって、思う?

 だって、抱っこしながらお湯を沸かして、ミルク缶を開けて粉を哺乳瓶に入れて、お湯が沸いたら溶かして蓋を閉めて、温度を確認して……っていうところまで、片腕に赤ちゃんを抱っこしながら、私ができると思いますか?

 抱っこ紐を使えば、って思う? それを言われてしまったら、私はきっと泣き出してしまうだろう。

(お願い、誰も今だけは私をいじめないで。ママがもし起きているなら、私を抱きしめて……。)


 突然、ママになったあの日から、日は浅くても、私はずっとずっと耐えてきた。頑張ろう、頑張ろうって、自分でもよくわからないものと闘っていた。

 でも、体も心も、このままじゃどんどん疲れ果てて……もうわけがわかんないよ。




 人肌になった哺乳瓶をゲットして、自分の部屋へ舞い戻る。

 一平くんは、疲れ知らずのようにずっと泣いていた。

(赤ちゃんって、パワフルだな。)

 抱っこして、哺乳瓶を銜えさせてあげると、一平くんは最初、乳首と違う感触を嫌がったが、それでも空腹には勝てなかったみたいで、すごい勢いでミルクを飲んだ。


「ふわあ〜〜、ねむ……。」


 少し、落ち着いたようだけど、そのまま寝落ちはしてくれない。目は閉じてるのに、布団に寝かすと泣くのよね。


(目を覚ますな、目を覚ますなーー。)

 私は、心で呪文を唱えながら、静かになった一平くんを、そうっと布団に着地させようと試みた。……でも、失敗。


 何回かやっているうちに、私も眠さが限界を達し、着地失敗で泣き出す一平くんを放って、開き直りの大の字で仰向けになった。


「もう! うるさーーい。寝かせてよ!」


 私は、何を思ったのか、掛け布団を頭から被った。子どもみたいに……子どもなんだけどね。

 現実逃避だったのかもしれない。私はそうするしかできなかった。

 一平くんの声が遠くなる。私の心も遠く遠くなっていく――。 

 




  

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