第34話 異星人と会話している気分だ
「はあ。海外に行くだって」
急にこの男は何を言い出すんだ。絶叫の瞬間は早朝、いの一番にあった。寝起きを急襲された昴は、意味が解らんと布団に戻りたくなる。
「すでに大学には連絡を付けてある。お前も留学しろ」
「何だって?」
この兄貴、ついに天然が進行して、ただのボケになったのだろうか。昴は展開が読めずにそんなことを思ってしまう。
「俺は海外に行かないぞ。というか、どうして急に」
「それが裏に隠された解だからだ」
ますます不明。これぞ異星人と会話しているかのようだ。しかしSF小説ならば楽しい展開も、実の兄との会話となると一切愉快ではない。
「あのさ、順序立てて説明してくれないか。一応は准教授だろ」
そもそも寝起きの弟の部屋にいきなりやって来て、九月から海外の研究機関に行くと叫ぶ兄貴なんて聞いたこともない。日頃は冷静沈着なくせに、たまに突飛な行動と発言を同時にやってくれるから困ったものだ。
「それはあの火災の謎を解いてからだ」
「はあ。それはちゃんと解くのか」
しかし何が翼をここまで突き動かしたのか。昨日の一件は解き方を変えよう。そういう提案しかしていない。こんな行動を起こす理由にはならないはずだ。
「というわけで、俺は大学に行ってくる。お前もすぐに俺の研究室に来い」
「何で?」
そこには答えてくれず、翼はそのまま飛び出して行ってしまった。意味不明具合が上がり過ぎていてついて行けない。
「ああ、もう。一体何が原因だ?」
頭を掻き毟っても、翼はもう出掛けた後だ。仕方ないと、昴も起き上がって大学に行く準備をするより他はない。
それにしても海外か。慶太郎も海外に行くという話になっていたが、まさかそれへの当てつけなのだろうか。しかし自分にも行くように勧めてきたのが解らない。
「お前には海外の方がいい。俺を超える研究者になれる。だから大学院から海外に出るんだ」
先ほど、というより寝起きに言われた言葉が頭の中を彷徨う。そう、自分が海外に行くことよりもまず、翼は昴に海外へと行けと言い出したのだ。これはどうしてだろうか。それも、裏に隠された解とやらに関係しているのか。
「海外か」
やはり日本では難しいと、翼も感じていたのだろうか。思えば同じ大学になるという、予期せぬ出来事が起こったのも、研究の場の選択肢が少ないせいだ。そう思うと、日本だけに限って考えるのは無理があるのか。
「基礎研究だしな。それに宇宙論となると、企業って選択肢がまずないんだよ。俺がやりたい素粒子も、ミューオンなんかは他に活用方法があるけど、まず企業で出来るような研究じゃないし」
着替えながらつらつらとそんなことを考えてしまう。進路――今までぼんやりと考えていたものが、しっかり考えなければならないものになっているのだ。小説家になりたいなんていうのは、昴にすれば現実逃避でしかなかったのだなと、冷静になると思えてくる。
「でも」
未練はあるのだ。翼とは違うことで有名になって見返してやりたい。そんな思いは今この瞬間もある。しかし、翼に研究者になれといわれると、途端に他の選択肢が消えてしまったように思うのだ。それほど、昴にとって年の離れた兄は存在が大きい。
「ともかく、何を考えているか聞き出さないとな。まったく、何で日頃は絶対に呼ばない研究室なんだか」
思えば呼び出し場所も変だ。日頃から大学で会うとすれば学生食堂が定番。翼の研究室にはこの間、麻央によって呼びに行かされた時に初めて訪れた。しかしそれも、中には入れてもらえていない。
「ちょっとどころではない、嫌な予感もあるが」
ふと、そんな場所を選んだ翼のことを疑う。まさか慶太郎まで呼び出していないだろうな。だとしたら、すでにあのトリックが見抜けたということか。そして、慶太郎が裏で操っていたと指摘できるだけの何かを用意できたのか。
「不安になってきた。さっさと行こう」
うだうだと考えていると、より心配になる。ここは翼が暴走する前に駆け付ける必要がありそうだ。そう自分を納得させ、昴は急いで大学へと向かった。こんな朝早くに出るのは、まだ学部生の昴にはないことだった。
「意外と人が多いよな」
大学の正門を潜り抜けて気づくのは、朝早い七時でっても人がいるということだ。部活動関係の人はもちろん、理系の研究者や院生はすでに活動を始めていた。白衣を翻して去って行くのは、おそらく化学系の人だろう。昨日の議論があるだけに奇妙な気分になる。ああいう人たちは、自分の知らない物質についても詳しいのだろうなと、そう思ってしまった。
そんなことを考えていたら、翼の研究室へと到着した。途中、あの事件があった慶太郎の研究室を通り過ぎたが、中を確認しようとは思わなかった。すでに中は片付けられ、あの運ぶのに苦労し、トリックに用いられた本棚も片付けられているはずだ。
「失礼します」
「おっ、来た来た」
ノックしてドアを開けると、またしても予想に反し、出迎えてくれたのは理志だった。これにほっとしていいやら、どうしてと訊ねればいいやら。
「来たか。こいつは留学経験があるんだ。昼の時間だと捕まらない可能性があるからな」
「な、なるほど」
後ろから現れた翼は、具体的なイメージがあった方がいいだろうと言う。しかしまあ、完全に昴が留学することを前提に話が進んでいるのはどうしてなのか。朝の言葉は聞こえていなかったのか。それともいつもの天然な行動なのか。
初めて中に入った翼の研究室は、慶太郎の研究室とそれほど差のないものだった。どちらも大別すれば理論物理学だから、似ていても不思議ではないのだが、本の量の多さも同じとなると、どうにも気になる。
「なあ。二宮先生とはいつから知り合いなんだ」
ふと疑問に思って問い掛けると、翼はそれどころではないと資料を広げ始める。一体どこからこの資料を、しかも昨日の夜から朝にかけての間に集めたのか。それだけ多種多様な大学のパンフレットがあった。ひょっとして、前々から海外に行きたいと考えていたのだろうか。
「二宮とは大学院からだよ」
こそっと理志がそう教えてくれる。なるほど、何か因縁のありそうな匂いがしてきた。しかし翼は完全に無視を続けてくれている。
「ここ、俺が行っていた大学だよ」
そのパンフレットの中から一つを取り出し、理志がそう教えてくれる。それはアメリカの大学のものだった。
「凄いですね。どうして兄貴に抜かれているんですか?」
あまりに有名な大学だったので、昴は思わずそう訊いていた。すると、研究の場は出た大学ではないんだよと笑われる。しかし、その中にちょっと寂しそうな顔があったのを、昴は見逃さなかった。
「海外に行くと、よく戻って来ないですよね」
「そうだな。若手であればあるほどポストが限られる。ちょっと、出遅れちゃうよね」
理志が解っているならば聞かないでくれよと、わざとらしい泣き真似をする。そして事情があって日本に戻って来て、何とかこの大学に就職できたのだと明かしてくれた。なるほど、人生何が起こるか解らない。その言葉そのままの状況だったらしい。
「ん、ということは、秋山さんは」
「俺は大学の学部の頃にこいつと一緒だったんだ。で、そのコネでここに入れた」
「違う。こいつの実力だ」
何の嘘だよと、珍しく翼がツッコミに回った。こういう評価に関して厳しいのだ。他にも勉学に関しては厳しい。つまり、生粋の研究者というタイプだった。
「まあまあ。でも、海外に出るならば色々と考えるよな。俺のようにぱっと飛び出したはいいが、予定外のことで後悔するってことはしてほしくないね。お前もだぞ」
理志はどっちもちゃんと考えろよと言う。なるほど、海外に出るにあたって、翼自身も理志に相談したかったわけだ。そして、二度手間にしたくないから研究室に呼び出した。
「そうですね。考えます」
「ああ。でも、受験の時期が違うから、そこは要注意な」
ゆっくり考え過ぎて受けられなかったってのもなしだぞと、理志は笑い飛ばしてくれる。たしかにそうだなと、昴は考えることが増えてしまった。
「ともかく、海外に行くという前提で話を進める。せっかくこの大学から准教授のポストを用意され、研究環境は整っていたから、すぐにとはいかないだろうけど」
そこは慶太郎とは事情が違う。慶太郎の場合は仕方なくだが、翼の場合は自主的に選ぶのだ。周囲から止められる可能性もある。
「そうだな。大学としても優秀な研究者が海外に流出するのは止めたいだろう。ま、本気ならば協力するよ」
「後釜に入れるかもしれないですもんね」
昴が言うと、それは余計と頭を叩かれた。しかしこの瞬間、何かが動き始めたのは確かだった。
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