第32話 慶太郎か理志か

 その日の夜。いつになく早く帰ってきた翼は、リビングでノートパソコンを広げていた。ソファに座り、そこで考え事をしているようだ。

「部屋でやらないのか?」

「ああ。川島から連絡があるかもしれないからな」

 それで何について考えているかは解った。そして事件がこれ以上連続しないとも言い切れないために、いつでも対応できるようにしているということだ。

「それ、事件の資料なのか?」

「まあね。警察の管理体制を疑うところではあるが」

 昴が横に座っても資料を閉じることはなく、逆に見るかと訊いてきた。

「いいのか?」

「いいだろ。お前にも散々喋っていたわけだし」

 それを言っては元も子もない。たしかに何故か昴も巻き込まれているのだ。ここは遠慮する方がおかしくなる。

「マグネシウムを利用したってのは解っているのに、それだけでは解決しないんだよな」

 今回の事件もまた妙に手の込んだものらしい。それに昴は違和感がある。どうしてトリックを用いるのか。単なる殺人ではないというのが、どうにも愉快犯のように思えてならない。

「それはやはり、裏で何かを企む奴がいるからだろう。単なる恨みでやっているのならば、無駄な要素だからな」

 試しに翼に問うと、そういう答えが返ってきた。なるほど、裏に誰かいるという仮定をしないと違和感がある。それで麻央は何かあるはずだと探ったわけだ。そして、出てきたのが論文にまつわる不正だった。

「そう。そう考えるのが正しいんだ。そしてその中に二宮の名前があった。しかし二宮が犯人だと仮定するのは無理がある。なぜなら、すでに論文に関してあいつは間違いを指摘し、それをちゃんと発表しているからだ。どうして自分の研究室で事件を起こさなければならないんだ。そこに理由が存在しない」

 翼の指摘は最もで、たしかに慶太郎を犯人と考えるとどうしても矛盾が発生する。しかし、この説を必死に否定しようとするところに、翼も疑いを持っているせいだと思ってしまう。

「でもさ。二宮先生ではないとしたら誰がってなるよな。言いたくないけど、事件は俺たちの周囲で起こっているんだぜ。今回の被害者に関して、兄貴は本当に知らないのか。研究分野が被っていないとはいえ、交流のない分野ではないよな」

 よくよく考えたら、宇宙論と惑星研究は分野が違うから知らないという論理はおかしいのだ。あの場ではそうかと流されたが、明らかに詳しくない麻央を巻くための詭弁だ。

「そうだな。二人のことを全く知らないわけではない」

 こうあっさりと認めるところが翼の美点なのだが、今回の場合は手応えのなさにがっくりしてしまう。しかしこれではっきりした。事件は翼を中心に、そこをじわじわと攻めるかのように起こっているのだ。いずれ直接的な被害が出かねない。

「――で、犯人を兄貴の知り合いだろうと考えて、二宮先生以外だと秋山先生しかいないんじゃないの。兄貴って、友達少なそうだし」

 ずばっと指摘すると、さすがの翼もむっとした顔になった。しかし否定しないところを見ると事実らしい。完璧だが天然な兄貴の欠点の発見となった。どうやらまだ、新しい大学に馴染めていないようだ。

「研究者仲間はいるけどな。友達と限定されると困るところだ。私的な場面でも交流があるとすれば、お前の上げた二人になる。大学の頃の友人は別々のところで研究しているしな」

 そうなると、犯人は完全に二者択一となる。慶太郎か理志か。印象からすれば慶太郎が圧倒的に不利だ。これで理志が犯人となると、翌日から人間不信に陥りそうである。

「その印象だけでは、人間は解らないだろ。自分に見せている部分が総てではないことは、自分も巻き込まれた事件で学習したのではないか?」

 翼にそう言われると、理志も犯人候補から外れなくなってしまう。昴は疑っているのだろうかと、翼の気持ちを疑ってしまう。

「まあ、秋山が何か企むとして、こんな回りくどい方法を取るタイプではないことは知っているな。今回の事件、あの研究室のもの以外では、妙に化学物質を利用しているだろ。俺たちの不得意分野を利用してくるあたりに、偏執的な何かを感じる」

 それ、犯人が慶太郎だった場合、本人に言うつもりだろうか。昴は自分の頬が引き攣るのを感じた。この兄貴、やはり知らず知らずのうちに恨まれているタイプだ。感情に裏表がない分、より厄介な状態となっている。

「ん、化学が苦手」

 それよりも、そうだったのかという疑問が過った。今までのところ、問題なく事件を解決しているのに苦手。しかも俺たちって、さらっと自分も巻き込まれていないか。苦手だから否定できないのだが。

「大体物理学を専攻するところから、化学が苦手なのは解っているようなものだ。さらに理論に進むとなると、まず化学式が苦手だと解る」

「その分類でいいのか。否定できないけどさ」

 理系だからと言ってオールマイティに出来るわけではない。それはそうなのだが、では今回の犯人は物理ではないことにならないか。

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