第36話 解けない魔法

 昼休みを挟んで午後の授業の間、僕は何とも言えない気持ちを抱えたまま授業を受けていた。奏から渡されたマカロンは、そのままカバンに入っている。食べる気にもなれず今に至る。チラッと後ろを盗み見る。奏は特に表情も変えずに授業を受けている。まぁ、厳密に言うと受けているフリをしているだけだが。いつも通りのスマホ弄りに精力的に取り組まれていた。


奏の表現は常にストレートだ。それだけに、勢いよくぶつかってくる言葉と気持ちは、ぶつかられる方からしたら、ちょっとした交通事故のような衝撃を受ける。奏のある意味でまっすぐな所は、良くも悪くも暴力的だとこの時の僕は感じていたのだった。僕は努めてこの件を考えることを止めて、この後の沙夜さんとの約束の事を考えていた。授業が終わったら、中庭に集まることになっている。今日は外で話すことが多いな。


 授業中、奏の事ばかり考える時間が多かったが、特に授業中に奏からのアクションはなく、放課後を迎えた。どこかホッとした僕は、沙夜さんと約束をしていた中庭に向かって移動を開始した。僕の大切な彼女のもとへ、歩く速さはどんどん早くなっていく。気が付けば駆け出していた。この不安な気持ちを、早く忘れたかったのかもしれない。


「あら、どうしたのかしら?そんなに慌てなくても、私はここにいたわよ?」

息を切らして中庭に来た僕を、沙夜さんは微笑みながら迎えてくれた。沙夜さんの顔を見て、僕はようやく落ち着いた気持ちになれた。ほぼ毎日、一緒にいた時間の積み重ねは、大きな安心感になっていたことに気付く。


「沙夜さんの顔を早く見たくて、気が付いたら走ってました。」

僕はそのままの気持ちを正直に答えた。


「そう。それじゃ、どうしてそんなに硬い表情なのかしら?」

沙夜さんはいつもの口調とは違い、とても穏やかな口調で僕に話しかけてきた。怖い夢を見て、怯えた子供をあやすような感じだった。僕の心を見透かされているのかと思った。


「生まれて初めて彼女から、チョコを貰えるかも。と思うと固くもなりますよ。」

僕は気恥ずかしくなって、近くにあったベンチに腰を掛けた。木でできた座面は冷え切っていた。冷たくて、少し痛かった。


「嘘ね。」

ベンチに座った僕の正面に立った沙夜さんは、そう言い切った。そして、両腕を僕の方に伸ばして、僕を抱きしめた。座っていた僕の顔が、沙夜さんの胸の中に埋もれていく。柔らかで、とてもいい匂いがする魔法のような感触に、僕の思考は完全停止をしてしまう。


「奏に何か言われたのでしょう?それぐらい分かるわ。」

沙夜さんは、落ち着いた声で僕に話しかけてくる。僕の心のトゲの存在にも気付いてくれていた。僕を抱きしめた手が、今度は僕の頭をゆっくりと撫でていた。耳を澄ますと、沙夜さんの鼓動の音が、規則正しく聞こえてくるようで安心できた。僕が無口になるのを肯定と捉えたのか、沙夜さんが続ける。


「話の内容は、恐らく一方的な告白でしょうね。それも、私が浩介さんを置いて卒業するとか言って。自分ならずっと側にいるって感じかしら?」

奏の話の内容をギュッと要約した沙夜さんの推理は正しくて、僕はまたしても沈黙で肯定のサインを出してしまう。僕の頭を撫でる手の温かさが心地よかった。


「ひどい話だと思わないかしら?そんな当たり前の事を言うなんて。」

そう言って、沙夜さんはもう一度、強く僕のことを抱きしめた。至福の窒息感だった。顔が幸せすぎる。そう言い切れる自信があった。


「でも、私は負けないわ。浩介さんは絶対に渡さない。だから安心して。私はどこにも行かないわ。」

沙夜さんの腕から顔が解放され、冬の風が頬を撫でていった。火照った顔に心地よい温度差を感じると共に、先ほどまで感じていた嫌な感じを全く感じることが無くなっていた。沙夜さんの事を身近に感じることができたからだろう。


「それでも、やっぱり心配です。沙夜さんが大学に行ったら、絶対にモテそう。」

「何を言っているのかしら?聖翔は女子大よ?」

「サークルとか、バイトとかでは可能性はありますよ。」


これだけ沙夜さんに温めてもらっても、まだ僕は怯えたままだった。実際、今は毎日会えている。それがそう簡単に合う事も出来ないとなると、不安になる。うじうじした僕の事を見て、沙夜さんが僕にため息を吐く。


「バカね、浩介って。私は1年の間は授業を入れれるだけ入れるわ。だから浩介が想っているようなことは起きないかしらね。」

浩介って、沙夜さんが呼び捨てに初めてした。とても新鮮な呼ばれ方に驚きが隠せない。急にどうしたんだろう、沙夜さん。


「奏がずっと呼び捨てにしているの、実はすごく妬いていたの。いい機会だし、呼んでみたのだけれど、ダメだったかしら?」

沙夜さんは、僕の横に座ってこちらを覗き込んできた。驚いたけど、決して悪い気はしていない。むしろ、距離感が縮まった気がした。だから、僕はそのままの気持ちを伝えることにした。


「今までよりも距離感が縮まっている気がしますから、いいと思います。」

「そう。それはよかったわ。浩介もどうかしら?」


呼び捨てが気に入ったのか、上機嫌になった沙夜さんは、僕から沙夜さんを呼ぶことも呼び捨てにするように提案してきた。ただ、今の僕は沙夜さんと同じ目線に立てていない気がした。だから、今は呼び捨てにはできない。


「すみません。僕から沙夜さんのことを呼び捨てにするのは、もう少し待って欲しいんです。もっと、沙夜さんと同じ目線になるまで待ってもらえませんか?」


僕の言葉に、一瞬残念そうな顔を沙夜さんはしていた。すぐに表情を戻すと、沙夜さんは僕に向かって話し出した。


「それは残念ね。楽しみに待っているわ。」

「すみません。偉そうな事を言って。」

「いいわ。でも、代わりに一つだけお願いしてもいいかしら?」


そして、少しの間が空いて、開かれた口から出た言葉。


「ねぇ、キスして。離れても忘れないぐらいの。」


そう言うと、沙夜さんは目を閉じた。僕からして欲しいという事らしい。今までキスは沙夜さんからのものしかなかった。生まれて初めて、僕は今から女性にキスをする。しかも、忘れられないぐらいのキスを、だ。


「ん。」

始めは唇が触れるかどうかというものだった。時間にして1秒ほど。もう一度唇を合わせる。今度はしっかりと。唇の柔らかさとリップの潤いを感じる。何秒経っただろうか。全身の血が煮えたぎる。あっという間に酸欠になっていく。


「はぁ、ん、ん。」

それは沙夜さんも同じようで、少しできた隙間から何とか息をしながら、それでもキスを続けていた。唇を通じて、お互いが溶け合うような感覚になっていた。次第に息継ぎにも慣れてきて、吐息の音も聞こえるようになってきた。


それからしばらくして、ようやく僕らは唇を離した。


「はぁ、はぁ、浩介、ありがとう。」

一体どれぐらいの時間が経っていたのか分からない。途中から完全に夢中になっていたから。これが正しかったのかも分からない。本能のままに、沙夜さんを求めていただけだったから。それでも、沙夜さんの表情からは、嫌悪感は感じられない。忘れられないキスになっただろうか。


「すごいわね、まだ頭がボーっとしているわ。」

「僕もですよ。」

「奏ともしたの?」

「冗談でもそう言われると凹みます。」

「ふふっ、ごめんなさい。イジワルだったかしら?」


恥ずかしさもあり、言葉数が少なくなっていた。沙夜さんはカバンから一つの紙箱を取り出して、僕に手渡してきた。


「はい。バレンタインのチョコよ。口に合うといいのだけれど。」

手渡された箱を開けると、そこにはザッハトルテが入っていた。ただのチョコじゃなくて、ケーキだ!お菓子作りはよく分からないが、きっと手間暇かかっているに違いない。


「ふふ。浩介に解けない魔法もかけて貰えたし、そろそろ行きましょう。」

満面の笑顔の沙夜さんに手を引かれて、僕は補習へ向かう。この人の手を、もう2度と離さない。そう心に決めながら。

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