第32話 沙夜先生のカウンセリング
沙夜さんとの過ごした夜から、僕たちの距離感は以前よりも近いものになっていた。一つは毎日、朝と夜の2回、ほぼ必ず連絡を取るようになっていたこと。もう一つは、物理的な接触も以前ほど恥ずかしくなくて、どこか温かい気持ちになるようになっていた。
こうした距離感の変化は、毎日の補習の心の支えにもなり、僕の成績は以前よりは落ちているが、随分取り返せてきていた。最近は授業の内容も、かなりついていけるようになっていた。もし、一人だけだったらこうは上手くいかなかっただろうと思う。蛇足だが、奏も一度手伝ってくれたことがある。でも彼女の学力はベース部分で僕に負けていたので、正直なところ、全く勉強では役に立ってくれなかった。その結果、補習からもすぐに摘まみ出されていた。
僕は最近、こうして勉強を教えてくれる人、つまり教員になることを目標にすることを考えることが増えてきていた。聖職とも言われているが、実情はとてもタフな仕事という事は分かっている。それでも、僕みたいな学生を必死にフォローしてくれる先生のようになりたいと思ったのだ。夢ばかり見るな。と怒られてしまうかもしれないけど。
「あら、いいんじゃないかしら?」
1月も下旬になった頃、今日も夜に部屋で勉強を見てくれている沙夜さんに、僕は教員になりたい事を相談した。そうしたら、意外と肯定的な返答が帰ってきた。
「そうですか?今は勉強できないから、実現度は低いですけど。」
「浩介さんはまだあと1年あるわ。十分間に合うと思うけれど。」
少し弱気なところを出してしまったが、沙夜さんは咎めることもなく、僕を励ましてくれた。
「それに、私も教育学部に入るし、ね。」
そう言って、沙夜さんは僕の手に指を絡めてきた。最近分かってきたが、沙夜さんが指で悪さをする時は『かまって』のサイン。僕はペンを置き、沙夜さんの手を握る。そのまま沙夜さんを見つめる。それだけで赤くなっちゃうけど、それが心地いいから困ってしまう。
「それじゃ、上手くいけば職場でも先輩になるかもしれないですね。」
「そこはそんなに上手くいかないと思うけれど。」
「夢を壊さないで。一緒に働ける方がやる気出ない?」
「それはそうね。一緒の方が嬉しいわ。」
「それじゃ、一緒になるようにしましょう!」
「調子に乗らないの。もっと真剣に考えなさい。」
沙夜さんは、プクーっと頬を膨らませながら、僕の額を突っついてきた。教員になることは賛成だけど、同じ職場を目指すことは違うらしい。前に聞いた進路の喧嘩もきっとこういった感じで始まったのかもしれない。同じ轍は踏んではいけない。最近やっと僕も彼女がいる生活に慣れてきて、楽しくなってきたところなのだ。ここで喧嘩なんて絶対にしたくない。
「ごめんなさい。それじゃ、参考に教えて欲しいんだけど、どの免状取るの?」
僕は、沙夜さんが進もうとする教員の道を尋ねてみることにした。小学・中学・高校と行き先は違うし、その中で科目の問題も出てくる。実際に僕が目指すことになるのは、中学か高校になると思うけど。若いうちはいいけど、年取ってから小学生のあのエネルギーを受け止める自信がないからだ。
「そうね…。やっぱり教えないとダメかしら?」
沙夜さんは天井を少し眺めてから、僕に向かってそう言った。なぜ教えてくれないのだろう?参考にするっていう事を伝えているのに。
「意地悪じゃないのよ。勘違いはしないで頂戴ね。」
「そうは思っていないですけど、理由は知りたいです。」
僕の表情に出てしまっていたのか、沙夜さんは申し訳なさそうに言ってきた。僕も正直になんで教えてもらえないのかを知りたいことを伝えた。
「そうね。浩介さんが教員になりたいって感じたのはいつ?」
「割と最近ですね。先週ぐらいからです。」
「わかったわ。それじゃ、教員についてどれぐらい調べたのかしら?」
「スマホでざっと調べたって感じですかね。」
「はぁ、やっぱり言わなくて良かったようね。」
沙夜さんは呆れるようにため息を吐いて、僕に向かい合って正座をした。僕もそれに合わせて正座をした。さっきまでの構ってオーラから、一転して真面目な空気を沙夜さんは身にまとう。
「それじゃ、一つずつ確認しましょう。なんで教員になろうと?」
「授業に取り残された僕を必死にフォローしてくれて、どうにか授業に追い付けるところまで、何も言わずに手伝ってくれた姿にあこがれたから。かな?」
僕が最近感じていたことを素直に沙夜さんに伝える。沙夜さんは頷きながら話を聞いてくれていた。
「わかったわ。それじゃ、高校と中学、小学校だとどこで教えたい?」
「いや、それを考えたくて沙夜さんに…。」
沙夜さんは、答えがループするところに質問を戻してきた。沙夜さんは。だから違うのよ。と言わんばかりに頭を抱えている。なんだろう、その冷たい目線にドキドキします。
「私の事なんてどうでもいいのよ。だって、私は子供ができたら辞めるもの。」
沙夜さんはきっぱりとそう言った。子供の事まですでに考えているんだ。僕はまだ全然そう言ったことは雲の上の事だと思っていた。
「子育てしながら教員を続ける。という選択もあるかもしれないけれど、産休も上手く取得できるか分からないわ。だから、私は基本的に一度辞めるつもり。上手くいけば復帰するし、ダメなら他の仕事をその時に探すつもりよ。」
沙夜さんは、どうやら自分の方が早く辞める可能性が高いから、追いかけるようなことは考えて欲しくないのかもしれない。だから自分で決めることを求めているのかもしれない。
「私は、子供とかを考えたらそう言った結論になったのだけれど、浩介さんはそうはいかないわ。ずっと勤めていかないといけない。だから、自分で納得して決めておかないと、それを理由に逃げてしまうのよ。」
沙夜さんは、まっすぐに僕の方を見てそう言った。自分で納得していないと逃げてしまう。か。確かに、最近の補習とかがそうだったと思う。自分の責任ではない理由で、やむなくしていた頃は、なぜここまで苦しい思いをしてまで、勉強をやるのか分からなくなっていた。それに意味があるのか。そう思っていた。
「学校の生徒だってそうよ。進路希望とかで、もし先生から『ここが無難だ』なんて言われたら、結構な人数の子がそう書くわ。だから、何も言わないでしょ?相談に来たら聞くけど、自分からは言わない。だから私も言わないのよ。」
沙夜さんはそう言って、笑いかけてくれた。僕の意思を聞いているようだった。ただ、漠然としているだけではいけない。もっと細かく調べて、想像して、自分が後悔しない選択をして欲しいということだと思った。
「分かりました。もう少し、真剣に考えてみます。できればまた、相談に乗ってもらえますか?」
僕は、今の時点で答えを急ぐ必要がない事を理解して、考え直すことにした。僕の返答に満足したのか、沙夜さんは笑顔のままだった。
「ええ。そうしてもらえると嬉しいわ。あ、そうそう。将来子供ができて私が辞めるつもりなのは、もちろん浩介さんの子供よ?」
そう言って、沙夜さんは自分のお腹をさする。ちょっと重い気もするけど、ここまでアピールされると嬉しい部分もある。僕はまず、自分の将来を真剣に考えることにした。
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