第31話 丑の刻に現る賢者

 『わたしはあの日、死ぬことを決めたわ』

沙夜さんが僕の背中越しに言ったこの一言を聞いた時、僕の心が引き裂かれるような痛みを感じた。それまで考えていた煩悩は、その瞬間にどこかに行っていた。その事件の事を僕は覚えていなくても、僕の体が覚えていたのかもしれない。


 沙夜さんの僕を抱く腕にも、力がさらに加わる。沙夜さんにとっても、絶対に思い出したくない事なのだろう。それでも、僕との思い出を共有するために話してくれていた。それがとても嬉しいと思う反面、とても苦しかった。


 今の時間は深夜2時。あれから僕たちは別々に床に入り、布団に入っている沙夜さんからリズムのいい寝息が聞こえてくる。それに合わせて肩も上下している。恐らく、寝たふりなどではないと思う。音を立てないように起き上がり、ベッドに腰をかけながら、沙夜さんの方を見る。


 「もし、今沙夜さんが同じ状況になったとしたら。」

そう口にして考えてみた。少なくとも、絶対にどうにかしたいと思った。突然現れた彼女だった。それでも一か月が経とうとしている今、その存在感は日に日に増している気がする。それに、本気で僕の事を想ってくれていることは、今晩の出来事で疑いようはなくなっている。経験のない女の子が、あそこまで体は張れない。


「それに、自分の時間をものすごく犠牲にしているんだよな。」

今晩の事だけではない。入院中、補習中、いつだって傍にいてくれていた。その上に家庭教師まで無償でやってくれていた。普通の後輩に対してするお節介なんてものでは、もはや説明が付かない。文字取り、全身全霊で僕に向き合っている。それに比べて僕はどうだった?自分の事ばかりではなかったのか?助けてもらってばかりいたはずなのに、それに甘えて見向きもせず。


 もう一度、沙夜さんの方を見る。そのタイミングで寝返りを沙夜さんが打った。こちらを向く形になった沙夜さんの顔を、空の三日月の淡い青色が映す。沙夜さんの頬には、水分が滴った跡が光っていた。僕と話していた時には、涙の跡はなかったと思う。恐らく、別々の床についた後の出来事だろう。


「浩介、さん…。」

沙夜さんが苦しそうにしながら寝言を言う。なにかうなされているようだ。僕は沙夜さんを起こさないように、ゆっくりと沙夜さんの所に行った。そして、沙夜さんの手を握った。細い指は布団に入っているのに、冷え切っていた。まるで、死んでしまっているかのように。


「僕はここにいますよ。」

そう言って、僕は沙夜さんの手を両手でしっかりと握った。僕の熱が少しでも伝わるように。少しでも、沙夜さんの苦しみを減らせるように。いつもしっかりしていて、大人だと思っていた沙夜さんだが、この時は怖くて怯えている女の子だった。そう思うと、僕は自然と沙夜さんの頭をゆっくりと撫でていた。小さな子をあやすように、ゆっくり、ゆっくりと丁寧にキューティクルの綺麗な頭を撫でていた。


「うぅ…ん。」

返事をするように、沙夜さんが呻いた。ただ、苦しそうなものではなく、どことなく安心したような印象を受けた。指も随分あったまってきた。でも、僕は手を握って、沙夜さんの頭を撫でていた。将来、こうやって子供とかの看病をするのかな?でも、全然嫌な気分じゃない。自分が傍にいることで、安心してくれるという事が嬉しい。だから、いつまででもそうやっていられる気がした。


「ん、んぅうん。」

次第に体の熱が上がってきたのか、沙夜さんが大きく寝がえりを打って、掛け布団がずれた時だった。それまでの僕の穏やかな気持ちは、またしても煩悩に塗りつぶされる。沙夜さんの胸の谷間が、僕からすごく良く見えるアングルになっていた。

目を逸らすなり、布団をかけ直すなりできたはずだ。それでも、先般の焦らしプレイの後のこの光景は、正直破壊力が桁違いで、僕は自分を止められなかった。


「はぁ、沙夜さん。ごめんなさい。」

できるだけ音を立てずにトイレに行き、僕はセルフで煩悩退散の儀式を行った。その後、手を洗剤で3回ほど洗って部屋に戻ってきた。


 部屋に戻ると、沙夜さんの様子は、先ほどと同じようにうなされているように見えた。自己処理の間一人にしてごめんなさい。そう思いながら、僕は再び沙夜さんの横に座り、彼女の手を握っていた。僕に今できることはこの程度しかない。それでも、こうしていることで沙夜さんが落ち着くなら、その力になりたいと願った。


しばらくして、またスヤスヤと心地よい寝息が聞こえてきた。だいぶ落ち着いたようだ。ほっとして、気が緩んだのか一気に瞼が重くなる。一度感じた睡魔はあっという間に僕を飲み込んで、そのまま僕を闇に連れ込んだ。


 「ん…。うぅん?」

私が目を開けると、知らない天井。そっか、今日は浩介さんの家に泊まっていたんだったわね。それを思い出すと、手に温もりを感じた。太い指と大きな手。間違いなく浩介さんの手だった。怖い夢を見たような気がする。でも、途中から違う夢になっていたのはきっと、浩介さんが手をつないでいてくれたからかしら。


「このままじゃ風邪をひいてしまうわね。」

布団もかけずに、床に寝転んでいる浩介さんを布団に引っ張り込む。さっきは背中越しだったけど、今度は正面から向き合っている。恥ずかしくて、顔から火が出そうね。それにしても、よく寝てるわね。ちょっと可愛いかも。


「ふが。うぅん。ふが。」

いたずらをしたくなって、浩介さんの鼻をつまんだ。ふがふが言っているけど、起きる気配は全くない。子供みたいで可愛いわね。いつか、こういう姿を毎日見るのが当たり前になったらいいのだけれど。


「おやすみなさい。浩介さん。」

既に寝ている浩介さんに、おやすみを伝えて、私は浩介さんの胸に顔を埋めて寝ることにした。今日ぐらい甘えていたっていいわよね。大好きな人の匂いと温もりに包まれて寝るって、しあわせ、ね…。




「ちょっとあんたらいつまで寝て…あーぁ。」

部屋のドアを勢いよく開けて、母さんが入ってきたらしいが、僕たちは幸せそうに顔を寄せ合って眠りこけていたらしい。あまりにいい顔で寝ていたから、起こさずに放っておいてくれたらしい。全部、後から聞いた話だけど。


「全くもう、高校生が新婚夫婦みたいに寝てるんじゃないよ。あ、先生?うちのバカ息子ですけどね、ちょっと今日具合悪いみたいで。えぇ、大事を取ろうかと。」

パタパタとスリッパの音を立てて、母さんは僕の部屋から歩き去っていく。親公認の仮病で欠席した僕と沙夜さんが自然に目を覚ましたのは、太陽も登り切った10時頃の事だった。遅めの朝食には、なぜか赤飯が炊かれていた。

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