第30話 ミア・ラナスカン・シヌア

 「ちょっと沙夜、これはやりすぎじゃないの?」

わたしは、私に向かって小さな抗議をしていた。完全にその、誘っているという状況で、とてもえっちな雰囲気が出ている。わたしにはとても刺激が強すぎる。


 「これぐらいの荒治療じゃないと意味がないと思うけれど?」

沙夜はいたって平然としている。わたしがこんなにオロオロしているのが、不思議なようだ。確かに、わたしもそういう事に興味はあるけど、いきなり過ぎる。


「もし、その。しちゃう感じになったらどうするの?」

わたしは今一番心配している事を沙夜に問いかけた。


「それはないわね。浩介さんをよく見なさい。それに襲われるなら、とっくにもう私たちは襲われているわ。とてもイジワルを今はしているけれど、必要なこと。浩介さんの本心に近づくために。」

わたしの問いに、沙夜は冷静に答えた。こうして沙夜と相談している間も、浩介さんのことをものすごく近くに感じる。今までも、腕に抱きついたり、キスをしたことはあるけど、今日のはそれの比じゃない。文字通り、体中で彼を感じている。見た目より大きな背中。ゴツゴツしている腰回りに、大きな手と私よりも太い指。どこを触れても男の子だった。


「沙夜さん。その、話ってこんなに近づいてしないとダメなの?」

わたしと沙夜で話している間、黙り込んでいたわたしに浩介さんが話しかける。浩介さんに抱きついたわたしの胸を通じて、体の中から声が聞こえてくるみたい。


「えぇ、そうじゃないとこの想いは伝わらないわ。」

沙夜がそうやって浩介さんに返事をした。今日の泊まりは沙夜の発案。だから、わたしはとても恥ずかしいが、やはり今日はすべて沙夜に任せようと腹を括った。もしかしたら、女の子じゃなくなるかもしれないけど。わたしの気持ちに沙夜がクスリと笑った気がした。


「浩介さんは覚えていないかもしれないけれど。」

沙夜がゆっくりと話し始めた。抱き着いた腕の力を少し抜いていた。


「私、文化祭の時に誰かと不倫をする女って、全校生徒に向けて学校新聞で張り出されたの。しかも、それをトゥイッターに上げられて、世界中にばら撒かれた。」

あの日の事を思い出して、わたしの心は真っ黒に染まっていく。あの時の絶望感は今でもはっきりと覚えている。人の顔も見ず、隠れてわたしの陰口を聞こえるように話されていた時は、この世にわたしの居場所なんてないと思った。


「わたしはあの日、死ぬことを決めたわ。片思いだった人にもきっと嫌われた。どうせなら、好きだった花に囲まれて死のうと思った。」

わたしも、沙夜も震えていた。浩介さんを抱く腕に力が入ってしまう。きっと痛いぐらいの力が入っていたと思う。それでも、浩介さんは何も言わずに聞いてくれていた。


「死ねるかどうかわからなかった。でも、私は喉を切ろうとした。その時だったのよ。貴方が、浩介さんが来てくれたのは。」

そう言うと、沙夜は大粒の涙をぽろぽろとこぼして泣いてしまった。わたしはもっと前から泣いていたんだけどね。浩介さんは、耳まで赤くなったまま話を聞いていた。沙夜が大丈夫と言っていた通りだった。


「貴方が私の所に来てくれて、それだけでも嬉しくて。それなのに、私が言えずにいて、一番言って欲しい言葉をたくさんくれたの。」

沙夜は、顔を浩介さんの背中に隠すようにした。一拍呼吸を置いて、顔を上げて話を続けていく。沙夜、ありがとう。わたしも同じ気持ち。いつもごめんね。


「あの日、貴方はこうやって私を抱きしめてくれてこう言ってくれたの。」

沙夜は浩介さんの耳元に顔を寄せて、あの時の言葉を口にした。


「『僕はずっと沙夜を信じ続ける。だから、僕の特別な人——彼女になってくれませんか。』そう貴方は言ってくれたの。」

あの時は真っ暗だった目の前が一気に明るくなった。わたしの事を信じてくれる。それでいて、好きだった人と思いが通じ合うなんて。本当に夢のようだった。


「あの時に私は浩介さんに助けてもらったわ。だから、今度は私が浩介さんを助けたいの。私が信じている一番大事な人だから。」

沙夜が思いのすべてを伝えてくれた。あの日の逆みたいに。浩介さんは、どう思っているのだろう?浩介さんの反応が気になる。


「ありがとうございます。その気持ちは嬉しいです。でも、どうしてこんな状態でその話をしないといけなかったんですか?」

浩介さんは、とても普通のリアクションをしてきた。わたしも、普通に話せばいいのではないかと思っていた。でも、沙夜は違っていた。


「そうね。その通りだと思うわ。でも、それだと卑怯だと思ったの。私も本気だと伝えたかったの。確かに浩介さんには酷い事をしたと思っているわ。でも、女の子にとっても、ものすごく覚悟がいることなのよ。」

沙夜は、自分自身が傷つくかもしれないけど、それだけ本気で向き合いたいという意気込みだったらしい。でも、それはあまりに賭け要素が強すぎだよ。沙夜。


「それじゃ、僕は試されていたとか?」

「そんなことはないわ。いつかは結ばれたいわよ?」

「そうなんですか?じゃ、今からでも?」

「はいはい。ちゃんと心が通じたならいいけれど?どうかしら?」


沙夜も真っ赤になりながら、浩介さんをあしらう。浩介さんも本気でそう言っている訳ではないのは十分に伝わってきた。あの頃の記憶がなくても、浩介さんは浩介さんという事に変わりはなかった。


「さて、と。」

沙夜はベッドから体を起こして座った。それに合わせて、浩介さんも起き上がる。二人で並んで壁に背を預けて座った。


「ここ最近、勉強の部分で負担をかけてしまったわね。ごめんなさい。」

そう言って沙夜は浩介さんに謝った。正直、鬼のようだったしね。


「いえ、授業に追い付けないと困るのは間違いないですし。」

そう言ってくれる浩介さんはやっぱり優しい。相手を常に思いやることができるのが、浩介さんの良いところ。だからわたしはもっと好きになる。


「それでも、最近は厳しかったでしょう?」

「まぁ。その、何のためにやっているのか分からなくなっていました。」

浩介さんの良いところの二つ目。大事な所では正直に言ってくれること。


「えぇ、だから困った時に、元気が出るおまじないを教えるわ。」

ちょっと!沙夜、ほんとにあの話をするつもりなの!?


「ミア・ラナスカン・シヌアって言うの。」

沙夜はいつもの表情を崩さず言った。わたしにはそんなポーカーフェイスは絶対にできないよぉ。


「ミア・ラナスカン・シヌア」


 慣れない発音をしながら、浩介さんが呟く。私に向かって言っているわけではないと分かっていても、そのおまじないの意味を知っていると、顔面が崩壊しそうになる。ニヤニヤが止まらない。嬉しい。本当はちゃんとした言葉で聞きたいけれど、今の浩介さんにはこうでもしないと私たちが欲しい言葉は聞けないだろう。


「えぇ。上出来よ。やればできるじゃない。でも、このおまじないは力が強いからむやみに使ったらだめよ。」


 沙夜が浩介さんに念を押す。それもそうだ。この言葉の意味は—。


『私はあなたを愛しています』

なのだから。フィンランド語での愛の言葉。知っている人は知っている。そんな言葉をむやみに口にしていたら、本当に不倫は文化の人になってしまう。


「わかりました。確かに言ってみたら元気になるような、シャキっとする感じがしますね。これがこうなんでしょうか?」

「えぇ、そうよ。力が強いから私まで元気になってしまったわ。」


沙夜は、とびきりの笑顔を浩介さんに向けていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る