第29話 恋は実技でしかわからない
夕方の4時を回った頃だった。外では、今まで聞くことのなかった部活に勤しむ声。全く縁のなかった青春ボイスをBGMに僕は一人、監禁されていた。今日は数学の補習だ。先日呼び出しを受けてから始まった補習は7限、8限という通常では存在しないコマとして組み込まれている。
点数の悪かった数学、物理、化学、世界史、英語を曜日をそれぞれに決めて2コマ分の授業とテストの繰り返しで短期改善する予定だ。例えば、月曜は数学。火曜は物理。といった具合だ。通常の授業をしっかりやった後にこれだから、正直なところ、消耗が激しい。本音を言うと、やりたくない。もう一回2年生をしてもいいのかなと思うぐらいには、やりたくない。
「ほら、手が止まっているわ。しっかりしなさい。」
現実逃避する僕の頬を、冷たくも柔らかで、しなやかな指がツンツンしてくる。僕の隣には、沙夜さんがいるのだ。学年も違う上に、自由登校の沙夜さんは、毎日この時間になったら登校をして、僕の補習に付き合ってくれていた。沙夜さんの行動に始めこそ驚いた教師陣だが、彼らもボランティアでしている補習に華が増えることは、喜ばしいことだったようだ。一切のお咎めなしに、一緒に補習を受ける。
「おーい、志賀。お前今の状況分かっててイチャついてんのか?あ?」
「イチャついてなんていません。続けてください。」
とはいえ、こうしてボディタッチなどをしてこられると、さすがにこういった具合に責められるので、僕は必然的に頑張るしかない状況に追い込まれる。早く授業に追い付けば、この理不尽な扱いから解放されるのだ。そう思って、必死に内容に食らいついていった。
補習の構成は、その日によって異なる。ひたすらにテストでしたミスを反復でこなすときもあれば、2コマぶっ通しでの授業となることもあった。これは非常にタフな戦いだった。まるでトップテニスプレイヤーの会見の台詞みたいだが、実際にとてもタフさを要求される戦いだったのだ。
なぜ、タフだったかというと—。
「ほら、また同じところを間違えているわ。もう3度目よ?」
時刻は夜の7時。教室から僕の部屋に場所を変えて補習は続いていたのだ。ちなみに、最後の補習は沙夜さんの気が済むまで。最悪終電だ。一日の最後にスパルタが待ち構えている状態なのだ。こうした生活が、気が付けばもう2週間続いていた。
僕の消耗は大きく、何のために補習をしているのかも分からなくなっていた。
だが、今日はいつもと違う流れがここから始まる。
「沙夜ちゃん、お風呂沸いたから入っちゃいなさい。」
部屋に顔だけ出した母さんが、沙夜さんにお風呂を勧めている。今までこんなことはなかったし、まるでお泊り会のようなテンションでいるはずが—。
「ありがとうございます。それじゃ、少し頂いてくるわね。」
あった。沙夜さんは驚くほどスムーズに返事をすると、部屋の外に消えて行ってしまった。唖然とする僕に、母さんが茶色い紙袋を投げてきた。
「それを使っても怒るけど、使わなかったらもっと怒るけぇ。」
そう言うと、母さんは扉を閉めて行った。茶色い紙袋を開けると、0.01と書かれた妙にキラキラした箱が入っていた。母さん。息子に何持たせているんですか。その箱と先ほどの言葉の内容を理解して、僕の顔は真っ赤なトマトになっていた。年頃の男の子の妄想を掻き立てるには十分刺激的だった。
そこからは、勉強など手につかない。僕は正座をして部屋で待っていた。30分ほど経って、パジャマ姿になった沙夜さんが僕の部屋にやってきた。濡れた髪をバスタオルで拭きながら見える肌は、薄い紅色になっている。さっきの箱のせいで、僕は沙夜さんのどこを見ても、そういったことに変換してしまっていた。
「今日は、お母様にお願いして泊まらせてもうらことにしたの。」
沙夜さんは先ほどまでいた場所に座り、今日は泊まるという事を伝えてきた。同じ我が家のシャンプーやボディーソープなのに、とんでもなくいい匂いがした。僕の心臓は人生最大級に跳ね上がっていた。女の子と二人きりでお泊り、いや自宅だからお泊りではないが、寝るとかもういろいろとアレがコレで。
「で、でも、なんで急に泊まることにしたんですか?」
僕は、ほんの一握り残っていた理性を使って、沙夜さんに理由を聞いてみた。
「ここ最近、補習を頑張ってくれていたけれど、やっぱり根を詰めすぎて、何のためにやっているのか、分からなくなる頃だと思ったの。だから、今日は志向を変えて、学校じゃ教えてくれないこと。恋の補習をしたくなったのだけれど。」
そう言うと、沙夜さんは僕に近づいてきて、ペンを奪い去った。顔と顔の距離がどんどん縮まって、触れ合いそうになる。
「さ、浩介さんも早くお風呂に入って。今日はもう休みましょう。」
僕のドキドキは最高潮。言われるがままにコクコクと頷いて、ロボットのような動きで浴室に向かった。僕の入浴シーンは、需要がないと思うので、ガッツリと割愛されていくらしい。少し残念だが、話は僕が風呂から出たところまで進む。
「え?もう上がったのかしら?」
部屋に戻ると、沙夜さんは僕の部屋の真ん中に布団をひいて待っていた。
「特に長く入った訳じゃないですけどね。」
「そうなのね。確かに、女の子と比べると手間が少ないのかしら。」
「その手間がとても気になります。」
「ふふ。女の子には秘密がいっぱいあるのよ。」
などと他愛もない会話を他にもしていたら、あっという間に日付が変わっていた。そろそろ寝ようとなり、僕はベッドに、沙夜さんは布団に入って電気を消した。当然、僕は0.01の誘惑と戦っているので、全く眠くない。
「ねぇ?もしよければ、なんだけれど。」
15分ほど経った頃、ようやく煩悩と折り合いが付きそうになっていた頃だった。沙夜さんの声が近くに聞こえたと思ったら。
「…。一緒に寝てもいいかしら?」
消え入るような声で、沙夜さんにお願いされた。
「えっと、すみません。ちょっと、今、男の子として暴走しかねなく…。」
「わかってるわ。ずっと我慢してくれているわよね。」
「だったら、一緒に寝るとか…。」
「いいわよ。でも、その前に私の話を聞いて欲しいの。だから、一緒に寝させて?そうしたら、私は素直になれるから。」
そう言うと、さっそく僕のベッド沙夜さんは潜り込んだ。背中に、とても熱い熱をもった柔らかなものがぶつかる。更に腰に回された手も、細くて小さくて、それでいて柔らかくて。体中の血液が沸騰するようだった。
「ふふ。こうしても、しっかり考えてくれてる。ねぇ?私の心臓も壊れそうなの。気づいてくれているかしら?」
そう言って、沙夜さんは僕を強く抱きしめた。更に押し当てられた胸から、沙夜さんの鼓動を感じることができた。僕と一緒だった。早鐘のように脈打ちながら、とても力強く鼓動をしていた。それを感じて、少し落ち着いた。
「分かってもらえたようね。それじゃ、授業を始めるわよ。」
沙夜さんはそう言ってから、僕の耳元に唇を寄せ—
「私が貴方にどれだけ救われて、どれだけ愛しているかを、ね。」
長い夜の幕開けだった。わずかに空いたカーテンから、綺麗な三日月がこちらを見つめていた。
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