第23話 嵐の前の静けさ

 12月24日。クリスマス・イブの朝、僕は病室を出る準備をしていた。荷物らしい荷物もほとんどなく、手荷物が少しと昨日貰ったアルバムがあるだけだ。最近は病室で着るものもレンタルがあるらしいので、今回はそれを使っていたことが大きかった。身軽な僕は、そのまま受付へと向かっていった。


 先に母さんが受付で入院費用の支払いをしていた。恐る恐るその金額を見ると、高校生が見る金額ではないような金額が記載されていた。吉の屋の並牛丼が恐らく、3000杯ぐらいは食べられそうだった。仰天する金額だったが、母さんは顔路一つ変えずに現金で支払っていた。新札の諭吉さんが、厚みで1センチ以上ある束を僕は初めて見た。


 「あんたは何も気にせんでええけぇ。」

母さんは笑ってそう言うと、タクシー乗り場に向かった。僕もその後についていった。タクシーに乗り込むと、母さんがこう話してくれた。


 「あんたが生きとるんなら、あんなのただの小銭じゃわ。でもな、もし気になるんじゃったら、あんたが誰よりも幸せなって、嫁貰って、孫の顔でも見せんさい。この間来とった沙夜ちゃんが彼女なんじゃろ?てっきりかなちゃんと付きおうとると思っとったんじゃけどなぁ。」


 母さんは、僕が思っていたことを先に答えてくれた。「気にするな」だけでは、僕が納得することがない事まで先回りされた。母さんには敵わないな。僕は、母さんのこの気持ちに応えないといけないと思った。


 しばらくタクシーに揺られて、僕は自分の家に帰ってきた。すると、家の前に一人の女性が立っていた。その人の長い髪は、今日もキューティクルが輝いていた。沙夜さんが、家の前で待っていたのだ。


「おかえりなさい。お義母さま、浩介さん。」

「この寒い中、外で待ってたの?早う中に入られぇ。」

母さんは急いで鍵を開けると、沙夜さんを家に通した。え、僕と沙夜さんって、そういう感じになっていたの?家に普通に上がれるぐらい?ヤバい。部屋の中には、女子禁制のアイテムが無造作に置かれている。スマホでほとんど賄っているが、やはり円盤が部屋には存在している。


「ちょっと待って!どの部屋に沙夜さん通すの?」

「あんたの部屋に決まっとるじゃろ。」

「ちょ!片づけてないから!」


 焦る僕に母さんはそっと耳打ちをした。


「あんたのエロDVDは全部捨てたけぇ。」

母さん、マジか。借りてるものもあるのに。スマン、葛城。今度学食でもおごるから、今回の件は許してくれ。


 僕は、親に性癖を覗かれたショックと部屋に女子を始めて通すことで、冷静さをほとんど失いつつ、沙夜さんを自分の部屋に通した。


「へぇ、これが浩介さんの部屋なのね。」

沙夜さんが僕の部屋にいる。とても不思議な光景だ。あと、特に芳香剤とかを置いていないのに、なぜか部屋の香りが変わった気がするから驚きだ。今日の沙夜さんは白のニットに、ベージュのスカート、黒タイツだ。その上にコートを着ていた。大人のお姉さん。といった雰囲気が出ていた。


「とりあえず、ここにでも座ってください。」

僕は一番きれいなクッションを差し出して、沙夜さんに座ってもらうことにした。どうしよう。話題が、無い。このままだと無言の沈黙が続いてしまう。何か、何か話題になるものを探さないと。


「ええ、ありがとう。」

沙夜さんは、音を立てることもなくコートを脱いで座った。一つ一つの所作が流れるようで、座る姿にさえ見惚れてしまう。見れば見るほど、この人と釣り合っていないと思う。僕は、そんな気持ちを抱いていた。


「ちょっと飲み物取ってきます。甘いものとか大丈夫ですか?」

「ええ、浩介さんに任せるわ。」

僕は、部屋を出て、リビングに飲み物を取りに行った。女の子が好きな飲み物とか全くわからない。どうしよう。とりあえず、温かいココアでも淹れていこう。


「お待たせしました。」

恋愛偏差値がEランクの僕は、野生の勘を信じて、ホットミルクで割ったココアのカップを二つ持ってきた。そのうちの一つを沙夜さんに渡し、適当なところに座った。沙夜さんのほぼ正面に来るような格好だ。


「少し冷えていたから、甘いココアはとっても嬉しいわ。ありがとう。」

そう言って、沙夜さんはカップを両手で持ちながらゆっくりと飲んでいた。女の子が両手でカップを持っていると、なぜかそれだけでも可愛く見えてくるから不思議だと思う。


 「それじゃ、昨日の手紙の感想を教えてもらえるかしら?」

沙夜さんの手元を見つめていたら、沙夜さんから話を振られた。


「え?あぁ、びっくりしました。沙夜さんの予想通りになってて。」

「そうかしら?私も結構大変だったのよ?」

「こういった事に慣れてるのかなって。」

「失礼ね。昨日が私のファーストキスよ。」

ぷくーっと膨れるような顔をしながら、沙夜さんが抗議してきた。すみません、沙夜さんのその顔がとても可愛く見えます。こんな顔を今までの僕は独り占めしていたんだとしたら、とても幸せ者だと思った。


「昨日の手紙にも書いていたのだけれど。」

沙夜さんが真面目な顔になって話し始めたので、僕も姿勢を正した。


「家庭教師の件は、お義母様にも許可は一応もらっているわ。」

沙夜さんは事前に母さんと色々話しているようだった。今日も姿を見るなり、すぐに家に上げていたことからも、それなりにお互いの事を話したのだろう。


「ありがとうございます。正直、助かります。」

僕は家庭教師の件は、本当に助かると思っていたので、すぐにお願いをした。それに続いて、気になることを尋ねた。


「それとは別なんですけど、沙夜さんと喧嘩をしていたっていうのは?」

僕の問いかけに、沙夜さんはバックの中から1枚のプリントを取り出した。プリントには『進路希望調査票』と書かれていて、そこには僕の名前が僕の字で書かれていた。第一希望には『就職』と書かれていた。


「この進路希望に関して、私たちは喧嘩をしていたのよ。私は来年から聖翔せいしょう女子大に入学がこの間決まっているわ。浩介さんは、同じ大学に行けないなら就職して、一緒に居られるようにしたいって。」

沙夜さんは、ゆっくりと落ち着いた口調で以前の僕との意見の相違について話しを続けてくれた。


「もちろん、私も将来は一緒に居たいと思っていたわ。でも、浩介さんの人生を狂わせてまで、一緒には居たくなかった。だから進路について、考え直して欲しいって言い合っていたの。浩介さんが事故に遭ったのは、その喧嘩から1か月ほど経った時だった。」


 沙夜さんは、そこまで言うと手に持っていたココアを飲み干した。僕の手の中のココアは既に冷めてしまっていた。


「そんなことが、あったんですね。」

僕は、冷えたココアの揺れる水面を見つめながら、続けた。沙夜さんの顔を直視できなかったから。


「僕は普通科の人間です。就職なんてまず有り得ないと思います。あと、沙夜さんにすごく良くしてもらっていますが、将来の事を意識するほど、沙夜さんの事を僕は知りません。だから、僕は僕の考える進路を決めたいと思います。」


僕は今の気持ちを素直に言うことにした。僕の気持ちは、恐らくこのココアと同じだ。全く熱をもっていないのだ。その事実を沙夜さんに伝えなければと思った。彼女が持つ思い出と感情を僕は持っていない。そのギャップが、息苦しさに変わってきていた。


「えぇ。それは浩介さんの言う通りよ。進路に関してはそれで構わないわ。だから私はその手伝いをしたいの。そういった時間を通して、私の事を知って、もう一度好きになってもらえたらそれでいいの。」


沙夜さんはそう言うと、優しく笑ってくれた。本当は辛い部分もあると思うが、そういった感情は見せないようにしてくれていた。僕の事を考えてくれているという事は十分に伝わってきた。


「すみません。もしかしたら、ご期待に沿えないかもしれません。無責任なことは言えません。それでもいいんですか?」


とても失礼な事を言っているのは承知の上だった。状況証拠で、僕と沙夜さんが付き合っていることは認めた。でも、過程も何もない状態の他人の状態で付き合っていますと言われたところで、何も実感はない。


さらに突然キスされたり、家に来たり、よく考えたら滅茶苦茶だ。今ドキドキしているのは、あくまで沙夜さんの外見や、部屋に初めて女の子がいたり、ファーストキスという部分での事だと僕は思っていた。


「えぇ。浩介さんの気持ちを無視した行動が多かったと反省しているわ。今後はこういう風にならないようにする。約束するわ。」


沙夜さんは申し訳なさそうに、約束をしてくれた。その姿にチクリと胸が痛む。


「私、頑張るから。しっかり浩介さん自身で感じて、決めて頂戴。」

そう沙夜さんが言ったところで、玄関の呼び鈴が鳴った。嵐を連れて来る者が我が家の呼び鈴を鳴らしているのであった。

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