第22話 ホワイト・アルバム

 僕が意識を取り戻してから数日経った12月23日。僕はMRIの撮影で、あのドーナツ型の機械の中に放り込まれていた。今までの間も何回か入れられていたらしいが、今回初めて意識がある状態で入った。ゴンゴンとけたたましい音がしながら機械は動いていく。狭い空間に押し込まれてこの音は非常に居心地が悪い。


 「うわぁ、これは意識がない時の方がいいな。ま、これで問題なければ退院らしいし。我慢するしかないのかな。」


 先生が言うには、これで問題がなければ明日には退院になるらしい。クリスマスに退院できるのはまぁ、病室で暮らすよりはやはりうれしい。それに、実感はないが、一応彼女持ちらしいし。でも、僕にはあんな綺麗な人と釣り合う自信がない。


 機械に輪切りにされる事、十数分。ようやく爆音密室から解放され、僕は思い切り伸びをして、病室に向かって歩いて戻っていった。


 「あら、おかえりなさい。」

 病室に戻ると、僕の彼女(仮)が病室で待ってくれていた。いつ見ても綺麗な髪に整った顔をしている。切れ長の目がより美人度を上げている。彼女と付き合うきっかけになった文化祭の事は、動画になってヨーチューブにまで上がっていた。まさか後夜祭に全校放送を使って告白するなんて…。考えただけでも身震いする。


「あ、ありがとうございます。また来てくれてたんですね。」

 僕は、彼女にお礼を言いながらベッドに腰を掛ける。実際健康そのもので、退屈に悩まされていた僕は、こうして来てくれる彼女に感謝をしていている。


「ん?その手に持っているのは、何ですか?」

 彼女の手には、1冊のアルバムがあった。白をベースにしたA5サイズのとても可愛らしいアルバム。僕は、なぜかそのアルバムが気になった。


「これは、貴方のために持ってきたの。私が帰った後に見てもらえるかしら?」

「え?今じゃないんですか?」

「そう、今じゃないわ。今はもっと別の事を話したいのだけれど、いい?」

「分かりました。」

 彼女は「自分が帰ってから見ること」と念を押しながら僕にアルバムを手渡してくれた。小ぶりなアルバムは僕の手にすぐに馴染む。まるで、以前から自分のものだったような感触だ。


「ありがとう。恐らく、明日には退院になるから。こうして病室で貴方を独り占めできる時間はもう無くなってしまうのよね。だから—。」

 彼女はそう言って、僕の隣に座りなおした。彼女の髪の間からとてもいい匂いがした。こんな綺麗な人と隣り合っていると自然に顔が赤くなってしまう。


「ね、お願いがあるの。聞いてもらえるかしら?」

「な、なんでしょうか?」

 彼女は潤んだ瞳を僕をのぞき込むように向けてきた。唇に塗られたリップが煌めいて、僕のドキドキはさらに加速する。以前の僕は、これが普通だったのだろうか?


「大したことではないのだけれど、できれば今日から名前で呼んで欲しいの。私も貴方の事を名前で呼ばせて欲しいの。今までは、私はも呼んでないし、貴方もずるいタイミングでしか私の名前を呼んでくれなかったの。」

 そう言うと、彼女は僕の手を取った。その手は、細くて綺麗で、とても柔らかかった。今の僕は初めて感じる感触を昔の僕も感じた事があるのだろうか?それよりも今の答えだ。


「えっと、それじゃ沙夜…さん。でいいかな?」

「沙夜さん、か。まぁ、今はそれでいいわ。上出来よ。浩介さん。」

 彼女、いや、沙夜さんは少し赤くなりながら僕の名前を呼んでくれた。なんだか名前を呼んだだけなのにとても体が熱い。ドキドキが止まらない。自分の体なのに自分の事がよく分からない。


「お願いを聞いてくれたいい子に、フライングでクリスマスプレゼントを用意してあげたわ。お願い、少し目を瞑ってくれるかしら。私がいいって言うまで。」

 そう言って沙夜さんは、サイドテーブルに置いていた自分の荷物に向かった。


「こうでいいですか?」

 僕は沙夜さんの言うとおりに目を閉じた。


「ええ、それでいいわ。」

 そう沙夜さんが言った後、人が動く気配がして—。


 ちゅっ。


 唇に、とても柔らかい感触があった。

 慌てて目を開けると、ほぼゼロ距離で沙夜さんの顔。

 長い睫毛が本数が数えられそうな距離でそこにある。


「私がいいって言うまで、目を開けちゃ、ダメ。」

 一瞬唇を放した沙夜さんにそう言われて、僕はもう一度目を閉じた。これが夢なら冷めないで欲しい。ファーストキスだったが、キスってすごい。とにかくすごい。語彙が貧相になってしまうぐらいすごかった。


「はい。これが私からのクリスマスプレゼント。」

 真っ赤になった沙夜さんが僕から離れる。そしてそのまま荷物を持って僕に向かって話しかける。


「それじゃ、私は帰るわね。ちゃんとアルバム、見てね。浩介さん。」

 沙夜さんはそう言うとやや速足で病室から出て行った。残された僕は、呆然としながら、つい自分の唇を触ってしまう。キスされたんだよな、今。


 そして僕は言われた通りにアルバムを開く。開いたアルバムは何の写真もない新品のアルバムだった。その中に一つの便箋が入っていた。便箋の宛名は、僕だった。


 僕はその便箋を開け、読み始めた。


『まず、いきなりキスしてごめんなさい。驚いたでしょう?私もびっくりしているわ。この手紙を書いている時から、今日はするって決めていたの。ズルい女でごめんなさい。』

 冒頭から、先ほどのキスに言及されていた。そのつもりで来てたと思うと、よく平然としていたのだと感心してしまう。


『次に、このアルバム事なのだけれど。これは今の私たち。今は真っ白な状態だと私は思うの。だから、これから思い出をいっぱい作って、このアルバムを埋めていきたい。写真はスマホで管理する。なんて言わせないわ。スマホだけに頼っていたら今回みたいにすぐに無くなってしまうから。』


 沙夜さんの綺麗な字を読みながら胸が熱くなる。彼氏として、情けないことに出会いも付き合いもすべて忘れた僕に、ここまで想ってくれているなんて。それだけでも胸がいっぱいになる。


『浩介さんが事故に遭う前、私たちは喧嘩をしていたの。喧嘩の内容は浩介さんの進路について。そのことはまた明日にでも話すからいいのだけれど、今回の事で気付いたの。浩介さんとの未来も大事だけれど、今の思い出も大事だ。って。』


 沙夜さんと、喧嘩してたんだ。昔の僕は大馬鹿だなぁ。初めて知ることだけど、それを僕は疑うことなく信じることにした。だって、便箋の端に丸いシワがある。これは何か水分を零したときにできるもの。多分、沙夜さんは泣いていたんだ。


『だから、今の私たちと同じように、このアルバムに思い出を増やしていって、今までの私たちを越えていきたいの。ワガママかしら?重いかしら?ごめんなさい。私、自分でも気づいていなかったけれど、とても独占欲が強いみたい。今の浩介さんが覚えてなくても、やっぱり貴方を諦められないの。誰にも貴方を渡したくない。そう思っているの。』


 沙夜さんの字が、わずかに崩れていた。多分、このあたりで泣いていたんだ。付き合っていた人に「誰??」と言われたんだ。ショックだったに違いない。言ったのは僕自身だけど。


『そうそう。冬休みに入ったし、私はこれから自由登校になるから、退院したら私が家庭教師してあげるわ。話を聞いていると、授業も含めて全部忘れてしまっているみたいだし。私でよければ、そのあたりのサポートもさせて貰えないかしら?』


 沙夜さんの申し出は、退院が見えてきたころからの心配事だった。夏休み前からの記憶が全くない。ということは授業の事もさっぱりだったのだ。これでは、授業についていけない。そうなると色々と困ったことになる。だからこれは素直に嬉しい申し出で、渡りに船とはこのことだと思った。


『追伸:今日、名前で呼んで欲しいってお願いするつもり。でも、貴方の事だから絶対に呼び捨てはしないわね。そうね、「沙夜さん」ぐらいかしら?だから、私も浩介って呼びたいけれど、浩介さんって呼ぶことにするわ。実際がどうなっているか、今から楽しみにしているわ。』


 沙夜さん、予想通りになっていますよ。参ったな。沙夜さんは僕が思っている以上に、僕の事を想っているんだ。有難いと思うと同時に、この気持ちに自分が応えられる自信がない自分にも気づいた。そもそも、お付き合いをするという気持ちが分かっていない。でも—。


「さっきのキスとか、横に座るだけですっごい熱くなったんだよなぁ。」

 僕は先ほどまで沙夜さんがいた場所に手を置いた。その場所はもう冷たくなっていて、先ほど感じた熱さとの対比がより鮮明なものになるようだった。


 僕は、この真っ白なアルバムにどんな記憶を刻んでいくのだろうか。

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