第21話 慟哭、そして矢は放たれる

 「にわかには信じられない事ですが—。」

浩介の病室から移動した私たちは、担当の先生から浩介の現状について説明を受けていた。今カウンセリング室には、浩介のお母さんと私たち二人だけだ。葛城君は自分となら話が合うから、そのまま病室に残って浩介と話をしてくれていた。


 「志賀さんのご子息は、夏ごろからの記憶を完全に無くしているようです。理由までは分かりませんが。事故のショックという事も考えられます。それよりも—」

先生は、私たちをぐるっと見回し、納得できないような表情で続けた。


 「今の医学では説明のできない現象が起きています。彼の体は記憶を除けば健康そのものです。彼が運び込まれて2週間。この期間だけであれほどの状態が、傷跡すら残らず完治しています。」


 事故に遭った時の浩介は、足の複雑骨折、頚椎損傷、頭蓋骨骨折、その他に裂傷などもあり、その姿は言葉に表現できないほどであった。生きていたのが不思議という言葉もあったらしい。集中治療室に入っている姿を見た時は、お母さんでも思わず目を背けたほどだと聞いた。


 「これはもう奇跡と呼ぶしかできません。年内には、再度検査をして問題がなければ退院という運びになるでしょう。その、先ほどの事を見ていると、お二人には申し訳ないと思う部分もありますが。」

そう言って、先生は私たちに向けて頭を下げた。先生が頭を下げる必要などどこにもないのに、だ。私たちは先生に顔を上げていただき、その場は解散となった。


「はい。これあげる。」

「あ、ありがとう。」

私は、月島さんと一緒にナースステーションの前の歓談室に来ていた。月島さんからレモンティーの缶を受け取りながら適当に空いている席に向かい合う。まずは彼の体が無事でよかった。この2週間、私は生きた心地がしていなかったから。無事に進学が決まっても、一つも嬉しくなどなかった。


 私たちの間を沈黙が支配していく。彼の体は助かった。それは素直に嬉しい。けれど、彼の中にいたは霧散した。私の事を好きでいてくれていた彼はもういなくなっていた。その事実が、私の中で少しずつ理解され、認識され、絶望に近い悲しみが胸をいっぱいにしていく。


 私たちはこの一か月以上言葉を交わすことも、連絡を取ることもしないでいた。それがこの先必要なことだと、その時の私はそう思っていたから。進学した後、寂しさに負けてしまう自分が怖くて。でも、目の前の気持ちを我慢した結果がこれ。私は後悔の気持ちしか持っていない。もっと恋人らしいことを沢山したかった。クリスマスに年末年始、バレンタイン。これから楽しいイベントが沢山あった。


 レモンティーの缶を持つ私の手に、ポタリ、と私の涙が落ちる。一度こぼれだした涙は、次々と溢れ出て、川となる。そしてあっという間にレモンティーの缶は涙まみれになっていく。止まらない。私の後悔の気持ちが、どんどん私を追い込む。


「あのさ。」

とめどなく涙を流す私を、月島さんが睨んできた。その目は明らかに怒りに満ちていた。確かに、人が泣いているところなんて何も面白くなどないはず。


「何、かしら?」

私は震える声で月島さんに返事をした。


「何?じゃない。浩介の記憶が無くなって、あんたとの事が分からないからって泣きじゃくるのって、浩介に失礼だと思わないの?」

月島さんも目に涙は溜まっていた。でも、それをこぼさないように耐えていた。


「浩介が、体は全快したっていう事だから言う事だけど—」

月島さんは立ち上がって続ける。


「あんたみたいなのじゃ、浩介の彼女なんて無理。だからここで手を引いてよ。簡単でしょ?浩介はもう忘れてるし。私が浩介を支えるから。」

月島さんは、私を見下ろしてそう言ってきた。


「どうして?どうして私はダメで貴女ならいいのかしら?」

私はすぐに言い返した。私にも譲れないものはある。


「簡単よ。私は12年も浩介の想い続けてきた。もし、私が今彼女なら、もう一度新しい記憶を作るわ。でも、あんたはそうやって泣いているだけ。そんな人に浩介の彼女の役は似合わない。それにもう卒業する人にもその役は荷が重い。」

「なんですって…!」

確かに、彼女の言うことも一理ある。私は現実を受け止めることすらできていなかった。彼女は過去にはこだわらず、やり直せばいいと考えている。それに、自然に言ってきたが、彼女も浩介の事が好きな人間なのだ。


「そんなことはさせないわ!私が彼の彼女なの。邪魔はしないで頂戴。」

「でも、存在忘れられているじゃない。」

「それは貴女も同じはずよ。」

「ええ。だから私にとっては好都合。お互いにゼロからの戦いだから。」

私の反論にも彼女は全く動じない。本気で奪いに来るつもりだ。それは嫌だ。せっかく私を助け出してくれた存在を、そんなに簡単に手放してなるものか。


「でも、残念ね。まだ私、別れるなんて彼から聞いていないわ。」

恋は婚姻ではない。だから、お互いの言質があってこその関係。そして、私には付き合うきっかけに関しては全世界に公開されている。客観的な交際の状況証明は簡単にできる。ただの屁理屈だと私も分かっている。でも、月島さんに対抗するにはこういった主張をまずするしかなかった。少しでも隙を見せれば、それが致命傷になってしまう。


「詭弁ね。言ってて悲しくないの?」

「あら。詭弁の一つでも言えないとはかりごとなんて無理じゃなくて?」

気が付くと、私も席を立ち、彼女と向き合っていた。涙も止まっていた。泣いている場合じゃなかった。私の大事なものを守らないといけなかった。


「まぁいいわ。私も盗み取るより、正々堂々と奪い取りたいから。それじゃ、言っておくわ。西御門 沙夜、あなたから浩介を貰うわ。どんな手を使っても。あと、今後あんたのことは沙夜って呼び捨てにさせてもらう。ライバルに先輩も何もないから。」


月島さん、いや、彼女の言葉を借りるなら奏にそう言われて、私にも覚悟が決まったような気がした。


「やれるものならやってみなさい。奏。私も私の大事な人に手を出す人には一切容赦なんてしないわ。」

私は生まれて初めて、自分から喧嘩をしようとしていた。でも、ここで行動をしないで後悔する事なんて絶対にしたくない。奏と会ったのは、事故のあと。まだ知り合って2週間しか経っていない相手と一人の男性を私は今から奪い合う。


戦を告げる鏑矢が私たちの間を翔けていった。

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