第6話 私の中の”わたし”が動き出す

 わたしは、深い、深い海の底にいた。光も届かない、音も聞こえない、冷たくて真っ暗な闇の深海。いったいいつからそこにいるのか、どうしてそこにいるのか、わたしはもう忘れてしまっていた。いや、思い出そうともしていないのかもしれない。わたしの名前?それもよく思い出せないの。


 そうそう、お魚さん聞いてくれる?最近海がとっても騒がしいの。冷たくて仕方ない海なのに、最近潮の流れが変わったのかしら、とても暖かい時があって困っているの。だって、この冷たさに慣れきったわたしに、この暖かさはまるで熱湯。決して触ってはいけないの。もし、間違って触れてしまったら、わたしはこの誰もいない海の底で全身大やけどで死んでしまうのだから。だから絶対に触れてはダメ。


 そう、わたしはとても臆病なの。環境の変化は大嫌い。ひとりでこうして沈んでいるのがお似合いなの。ここでは、同族の人魚もいない。人魚同士の派閥への参加というか、一種の同調力に欠ける私は、進んで深く、もっと深く、この海を進んできたの。深い海は変化が穏やかだから。


 だからといって、深海の世界も不変ではないらしく、つい先ほど、人間の大きな船が沈んできた。とても、とても大きな船が。その船は、『荒々しく』海底にぶつかると、海底の砂を巻き上げ、もともとない視界を更に悪化させ、大きなうねりと共に、わたしを押し流してきた。


 わたしは逃げた。一生懸命に尾びれを動かした。けれど、わたしを飲み込もうとする流れから全く逃げれない。


怖い、恐い、強い、こわい、コワイ。


とうとう力尽きそうになった時、あの暖かさを感じた。


「これもだめ!わたしじゃなくなる!」

わたしは、絶望した。前も後ろも上も下も、わたしには応えてくれる存在はなかったのだから。だから、わたしは、”わたし”の死を覚悟し、目を閉じた。





 それから、どれぐらいの時間が過ぎたのか分からない。でも、わたしはまだ”いた”。恐ろしい潮の流れも、あの暖かさも無くなった。代わりに、今まで存在しなかった小さな光が、ポツンと1つ少し離れたところにあった。


 今までのわたしは絶対にこの光から逃げただろう。だけど、今日は今がとても怖くて、そのひかりにすがるように泳ぎだす。光が強くなる。数も増える。1つが2つに、2つが4つに。気が付いたら、58個の光の集団に囲まれていた。


「大丈夫だった?ケガしてない?」

「あいつは、○○が追い払ってくれたよ。」

「温かいお茶用意したから、これ飲んで落ち着いて。」


光はやがて、私に向かって口々に話しかけてくれていた。

○○——。聞いたことがある音だけど、なんだったっけ。


「○○、職員室で尋問中らしいよ。」

「まぁ、あれだけの騒ぎだし、仕方ないよ。」

「文化祭、今日は中止だって。明日も微妙らしいよ。」


○○って聞くと、体がざわつく。

さっき飲まれた暖かさをなぜか思い出す。


「そういえば、どこも火傷、してないな…。」


ざっと自分の体を見まわして確認する。うん、大丈夫。


「じゃぁ、私帰るねー。」

「俺らも帰るか、カラオケいこーぜ!まだ騒ぎ足りねぇし。」

光が1つ、2つ、一気に10個、消えていく。あぁ、またわたし一人になるのね。


「ねぇ、”さや”も落ち着いたら帰りなさいよ?」


さや?聞いたことがあるような、無いような…。思い出せそうで思い出せない。


「葛城、お前もカラオケどーよ?」

「俺か?俺は待ってるわ。時間指定でAV頼んでいるからそれまで暇だからよ。今日の勇者殿を一人ぐらいもてなさんとな。」


浩介、その言葉を聞いたとき、わたしの中が沸騰したように熱くなった。驚くよりも先に、私は泳ぎだしていた。海面に向かって、泳いで、泳いで、泳ぎ続けた。


「沙夜っ!わたしを浩介に会わせて!」

海面に顔を出すと同時に、わたしは私に向かって叫んだ。

そう、私は『西御門 沙夜』だったのだから。やっと思い出した、自分の名前。


久々に見た海の外は、眩しくて、何も見えなかったが、夕暮れが赤く燃えるようで、とても美しかった。


確かめるんだ。わたし自身で、あの温かさが彼に由来するものか。

私じゃなくて、わたしで。


「いいわよ。少しそこで待ってらっしゃい。臆病者の沙夜さん。」


私は女王様のようにそう言った。そして便箋に一言書き込んだ。


『 中庭でお待ちしております。 西御門 沙夜 』


「ありがとう、沙夜。」

すぐに、こうして行動に移してくれる私をわたしは初めて好きになった。


「あら?貴方にお礼を言われるなんて、どういう風の吹きまわしかしら?」

私は、わたしに肩をすくめる。


「やっと私の出番、今度こそ終わるのかしら?」

「わからない。ううん、終わりじゃないよ。これからもずっと一緒。」


『だって、あなたは”沙夜”なんだから』

ふたりで同じ言葉を言うあたり、やっぱり同じなんだ。


「さぁ、それじゃあさっさと陸に上がって。人間になってもらわないと。」

「えー、彼の事ちゃんと分かるまで沙夜がもう少し頑張ってよ。」

「貴女ねぇ、そういう往生際悪いところ変わらないわね。」

「だって、こわいんだもん…。もし、勘違いだったら、人魚じゃなくなったら、もう海に帰れないのがこわい——いたっ!」


パチン、とデコピンを私にされた。


「貴女、本当のバカね。もし勘違いだったら、その気にさせればいいじゃない。私はそうするつもりだけれど。」


そう言うよりも早く、私の手で、わたしは海から引きずり出される。

陸に上がったわたしの尾びれは、私と同じ足になってしまった。


「覚悟を決めなさい。私にできて、わたしにできないわけないじゃない。」

臆病なわたしの手を取り、同じ顔の私が続ける。

「貴女も”沙夜”。貴女が難しいところは私がやるわ。だから、私が難しいところは貴女に助けて欲しいの。そして、同じ景色を一緒に見たいのだけれど。」


握ってくれた手をわたしは強く、強く握り返した。


「来たみたいね。行くわよ。」

「わかった。今日は隣にいるだけでいい?」

「まぁ、お姉さんに任せなさい。」

「同じ人なのにお姉さんなの?」

「そうね。でも、最初の一言は無理してでも二人で言いたいわね。」


いたずらっ子のような顔をした私が耳打ちをする。


「えぇ!?いきなりハードル高いよ。」

「大丈夫。沙夜ならできるわ。当然、私も。」


「先輩、お待たせしましたっ!」

息を切らせて、私たちの背後に彼がやってきたようだ。ゆっくりと振り返って—


『あら、早かったわね。どうしても貴方と話がしたかったの。』

わたしたちの初めての共同作業。ありがとね、沙夜。私がいてくれたから、怖いけどやり直せそう。これからもよろしくね。

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