第三首 -肆の句- みなづき。
わちしの眠り慣れた寝床、居慣れた部屋、住み慣れた屋敷、その全てがなくなっていたのだ。
代わりに、ひんやりとした石床が寝床となり、その上にわちしは寝そべっていたらしい。
体を起こすと、見渡す限り延々と立ち並ぶ大きな木細工と、それに詰め込まれた”綴られた紙の束”の
「どこじゃ……、此処は……。」
理解など、できるはずもなかった。この奇々怪々な出来事は、
「わちしは……、
この手の事象にはあのような者たちが絡んでいる、とでも考えなければ、到底説明がつかぬ。
石畳の上に置かれた巨大な木細工に挟まれながらも周囲を見渡していると、陽の光を零す戸がわちしの視界に入ってきた。
「あそこを開ければ、外に出られる。
一目散に扉のもとへ向かい、その勢いを殺すことなく戸に体をぶつけ、陽の目を浴びた。
だが、先の考えは、浅慮以外のなにものでもなかった。
外に出たわちしを待っていたのは、
つまり、わちしはこんなところで眠りこけておったということか……!?
「なん、なのじゃ……、これは……。」
まとまらぬ考えは頭に熱を持たせ、ついにはわちしの声を荒げさせた。
「何処から視ておる!陰陽極め、さりとて堕ちし、
しかし、どんなに
ふと屋敷に目線を移すと、僧と思える見てくれの老いた一人の男が、屋敷の縁側から、まるでおどろおどろしいものを垣間見るかのように、わちしの方へじっと視線を送っていた。
両の
「……貴様か。貴様、なのであろう……っ!この、わけの分からぬ、物の怪の仕業の如き出鱈目を、招き起こした
鋭い声音に男は更に臆する仕草を見せたものの、男からわちしに向け放たれた言葉は、わちしの予想と相反するものだった。
「ち、違う!ワシは断じてそのようなことはしておらん!」
「信じてくれぃ。」と、この石蔵からはやや距離のある屋敷の縁側で、
簡素な
妖術を仕掛けるわけでもなく、ただひたすらに木の床に頭を
長い沈黙を破ったのは、わちしの口から出た言葉であった。
「……もう、よい。わちしも大人げがなかった。
大人げがないと言ってはいるものの、わちしの年の頃はまだ
「お主、名はなんと云う?どこの家の者じゃ?」
恐らくこの男は常人であり、わちしに害
「わ、ワシは、
記憶を掘り返しているのか、老人は頭を掻き始める。
「わちしの名は
答えを耳にしたにも関わらず、口を半開きにし、呆ける翁。
「……近所で仮装の催し物でもあったか?そういうことは、いの一番にみさとが教えてくれるはずなんじゃが。」
ん……?信じておらぬのか?
というか、”かそう”とはなんのことじゃ?
”みさと”なるは、
……恐らく人の名で間違いないのだろうが、初めて聴く言葉ばかりじゃ。
しかし、わちしにも名乗らせておきながら、この翁は、わちしの答えに疑念を抱くというのか。
「わちしは、嘘偽りは申しておらぬ。”みさと”という名の者が如何なやつか、わちしの知るところではないのだが、お主とわちしとでは、話もまともにできそうにない……。」
落胆のあまり、肩を落とし深く溜め息を吐く。
「な、なぁおい、若紫とやら。」
「……なんじゃ?」
「ワシはこれから朝飯を食うつもりなんだが、お前さんも一緒にどうじゃ?みさとのやつ、今朝の飯の
”朝餉”という言葉に、わちしの意思とは関係なく、腹の虫が
「……はぁ、そのような事情ならば仕方がない。わちしもお主と、飯の席を同じくしてやる。」
「飯に毒なんぞが混ぜられておらぬことだけは祈っておこう。」と付け足したわちしに、
「生意気な小娘もいたもんじゃ。」
などと小さく言葉を漏らす翁。
「『人に食わせる料理に毒を混ぜろ。』なんてこと、可愛い孫に言い聴かせるわけがないじゃろうよ……。いいから、とっととこっちに来い。米もそろそろ炊き上がる頃合いじゃ。」
────確かに、そんなことを教える翁なんぞ、手に負えないにもほどがある。……というか、”みさと”と称される人間は、この者の孫にあたるのか。わちしを飯に誘う翁の血縁者であるならば、その”みさと”なる者もまた、少しは信を置いてもよい類いの者であろう。
急に大仰な口調で言葉を放った老人の態度に、わちしも少しばかり眉間に皺が寄ってしまうが、わちしとて腹拵えはしておかなければなるまいな。かの招きにわざわざ背を向けるわけにもいかぬか……。
やれやれ……、これぞまさに、『背に腹は代えられぬ』というものなのであろう。「いま行く。」と生返事を翁に送り、わちしは屋敷へと歩を進めた。
屋敷に着き、床の間に
床の間で待つよう促されたことで、わちしはそこの畳の上で、石蔵で目覚めたとき以来、初めて
|水屋${みずや:台所の意}$と
白い湯気を漂わせ、決して大きくはないただの平皿の上に在りながら、食欲そそる甘美な
わちしの鼻を無遠慮に
……されど、
「お主、これらは……、一体なんじゃ?茶碗に盛られた白飯しか、この若紫は知り仰せぬぞ。」
わちしの質問は、翁に明らかな困り顔を浮かべさせ、彼との間に一拍と呼べる間が空いた。しかしその一拍の内に、翁は近くに掛けられた暦に目を移し、わちしに向かい答えを寄越す。
「だし巻き玉子と、とり肉の
あぁ、あの暦には献立が記してあったのか。この翁の孫は大層几帳面な性分なのだろう。
…………と、しばし待て。
思い至った瞬間、薫りに惑わされ、あまつさえ蕩けかけさせられていたわちしの頭は、完全に一時停止を余儀なくされた。
「わ、わちしの聴き間違いではないと思うのじゃが……、念のため、いま一度確認させよ。お主、いま、この焼き物の塊を、”とりの肉”と宣ったのか……?」
「あ、あぁ、そうじゃが……?」と
わちしは、三が日の
そこらの民草とは格が違う、わちしらの如き"気品"にこそ重きを置く者であるが故、なおのこと、仏の教えを殊更に仰ぐ者として、簡単に口にすることは赦されていないのだ。
それを事も無げに、この
「
「なんじゃ……、また小生意気なことを言いおる。肉が好かんのならそいつはワシが食うわ。お前さんは……、そうじゃな、
床の間を見渡すと、縁側の方の柱……、それも、わちしが精一杯背伸びしたところで到底指先すら掠りそうもないほど高い位置に、小さな
「……わちしの手が、あそこが届くと思うてか?あまりに高過ぎて、"みなづき"の影も見えぬぞ。」
翁改め
「やれやれ全く、世話のかかる小娘じゃ……。──そこで少し待っておれ。トモリの仏壇にも"みなづき"を供えておるからの、そいつを持ってきてやる。」
そう、わちしに返した。
その言葉を寄越した彼は、直ぐ様床の間にある戸の一枚を開け広げた。
そして、戸の先にあった仏間に赴くなり、足を整え、手を合わせ、「すまんな……トモリ。」と仏様に向け言葉を囁き、また静かに掌を擦り合わせ、仏壇から、餅につぶ餡の乗った菓子"みなづき"を持ってくるのだった。
わちしはこの翁が抱えし暗き過去を、仏様へと向ける彼の視線と表情から
「──……
故にわちしは、自身の行いや発言を"
されど、どちらにしろ────。
わちしは、『人の気も知れぬ
「──
「見かけによらず聡い娘じゃ。」と続ける翁の瞳は、頬を刻みし皺に沿う故、一閃の如く滑り落ちることのない雫を浅く
「ワシには、孫が
長話をした
わちしは、長話をさせたことに少なからず負い目を覚えつつ、思いの丈を
「……────そんなことがあったのか。本家と分家からなる
「子どもとはいえ、会ったこともない孫にそこまで情を寄せてもらえるとは、ありがたい話じゃのぉ。」
未だ二年ほどしか経っておらぬ、哀しき過去を語ろうと、こうも穏やかに微笑む翁に、わちしは、底知れぬ心の器の深さを感じた。この
わちしは一つ、少しばかり気になっていたことについて、彼に尋ねた。
「……それならば、神棚のみに留まらず、仏の前にも"みなづき"が供えられておることも、その星灯トモリに
ほぼ間を空けることなく、わちしの問いに彼は答える。
「あぁ……、甘い餅がトモリの好物でのぉ、ワシと一緒によく食べておった。トモリが特に気に入っておったのは餡蜜入りのミツ餅なのじゃが、これが早々手に入るものではなくてな、墓参りにはミツ餅を持って行くのじゃが、ここの仏壇に供えるのは"
「
「
そして、彼の在り方に心打たれたわちしは、更に、わちし自身の言葉を紡ぎ加える。
「──
その後、「
そもそもあの蔵に詰め込まれていた"綴られた紙の束"は、全て"書物"だったらしく、知らぬ言葉や知識は、自ら本を開くことで、粗方のことは補完した。
蔵に籠るよう促したじじ様の心配の種には、"座敷わらし"なる存在の言い伝えが深く関わっていることも、あらゆる書物を読んでいるうちに知っていった。
──それからというもの、わちしは、"座敷わらし"としても、じじ様から仰せつかったことを守り通し、じじ様が時折書庫蔵に持ってくる美味い飯を楽しみにしつつ、蔵のなかの書物をとことん読み漁った。
わちしが、
────第参首 -
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます