第三首 -結の句- 今は昔の物語
「あんなこと……?」
若紫の昔話を聴いていたおれは、彼女がわざわざ代名詞を用いてまで伏せる事柄について問うた。
「────みさとなら、わちしの
「源氏物語、だよな。……お前自身が最初に名乗った通りなら」
「左様。」と、小さなため息と共に彼女は呟く。
「わちしの
若紫は自嘲を交え、自身の"
────目の前の
無理に
それが、彼女の膝を覆う
若紫の
ただ、こいつが
おれは、
「……──それで結局、『あんなこと』ってのはなんなんだよ。まさか、自分のことを知っちまったお前は、
……やはり、自分の話が流されたと思い込んだのか、若紫は眉間に皺を寄せ、返事を寄越す。
「わちしより、みさとの方が不躾じゃ。……とはいえど、みさとの言った通り故、わちしも強く、異を唱えられぬ。」
「……すまん、悪かったよ」
「謝罪の言葉は、わちしの欲するところにあらず。」
「そうじゃの……、どこから話したものであろうぞ。」と声を漏らしながら逡巡した若紫は、些か控えめな咳払いを挟み、続けた。
「わちしは『あの日』、いつもと同じく、じじ様と飯を待ちながら、書架埋め尽くす本の群に
「………………は?!」
「しかしながら────。」と話を続けようとする若紫に、しかしおれは彼女の話を遮ってでも、どうにも思考が追い付かない、若紫が体験した現象について問い
若紫は、話の腰を折られたことが癪に障ったのか、ほんの僅かに頬を膨らませている。
「いや、悪い。でもちょっと待ってくれ……。"本に呑まれた"、だって……?」
「その通り。さりとて、みさとはとうに、本に呑まるることなんぞ、比べ物にならぬほど、
……まぁ、確かに。
"若紫が
「さてみさと、話を続けてよいものか?」
その問いかけにおれがすぐさま首肯すると、若紫は話を戻した。
「────しかしながら、
気付かされ方のあまりの残酷さに、おれは思わず返す言葉を失ってしまった。
要するに
若紫にとって、自身の正体にまつわる事実は、
「……じゃあ、お前、どうやって
「知れたこと。あの蔵に、わちしが初め、顕れた
あの蔵……、本当にいったいどうなっているんだ。
「座敷わらしが出るから。」なんて理由ではないけれど、若紫の話を聴けば聴くほど、謎が謎を呼んでいる。
「──ただそれが、あらゆる不幸の始まりにして、終わりを告げる。そんなものでも、あったのじゃ……。」
「始まりにして終わり?」
「あぁ……、わちしは
……"源氏物語"を徹底的に拒んだのか。
しかし、それにしては、若紫と初めて逢ったあの書架のエリアには、しっかりと源氏物語関連の書籍が揃っていたような……?
「──おい、まさかとは思うが……、お前、題名に"源氏"って付くものから先に破っていったのか?」
おれの問いに、若紫は目を泳がせる。同時に唇を尖らせ、か細く息を漏らし、そしらぬ振りの口笛を試みるも、そこから生まれた、粗雑に掠れた音は、口笛の音色にはほど遠く──、むしろその
深い嘆息と共に、頭を抱えながら、眼前の女児に出題する。──そう、まさに小学生でも分かる、飛びきり語呂合わせのいい解を持つ、簡単な問題を。
「若紫、一つだけ訊かせてくれ────『いい箱作ろう』といえば?」
「……な、なんなのじゃ、その謎掛けは。
「だと思った……。」とため息混じりに言葉を溢すおれを見ても、若紫は相変わらず、思考の試行を繰り返している。
「答えは『鎌倉幕府』だ。──若紫……、お前は、
数年前までは『
とにもかくにも、"
……そして恐らく、若紫のいう『あの日』とは、じいさんが激昂し、破れまくった本を抱えてきた日──つまり、じいさんの命日の『前日』のことであろう。
「じじ様の、命を奪いしわちしの所業。……みさとはとうに、勘付いてしまっておるのじゃろう?」
数分前、答えをついぞ導き出せず、強い口調で言葉を
「……まぁ、な」
──つまるところ、"座敷わらし"として
「────みさとはわちしを、責めぬのか……?」
元来"座敷わらし"というものは、その家に居座り続ける限りは安寧をもたらし、去られれば一気にその家は衰退の一途を辿らざるをえなくなる──そんな存在。
「責めるわけないだろ、
────けれど
源氏物語に、
それになにより────。
「もうお前は、"座敷わらし"なんかじゃない。おれの"料理の弟子"にして、ついでに、おれなんかに想いを
「そんなやつを"人殺し"なんて呼ぶかってんだよ。」と添えようとした矢先、おれの
「
おれの胸元に顔面を
「よく──、耐えてきたな。若紫が独りで背負うには、重かっただろう、苦しかっただろう、寂しかっただろう──。でも、もう
おれの
────若紫は、ひとしきり泣き尽くしたあと、そのままおれの膝を枕にし、浅い寝息を溢し始めた。
(こんな小さな背中に、おれの知らない、幾つもの重荷を背負っていたんだな……。おやすみ、
*****
おれの
この時期に足を纏うものがそれだけでは、些か以上に冷えてしまうだろうに……。
せっかく恋人になったんだ。若紫には、なおさら風邪なんて引かせられない。
「世話が焼けるのは相変わらずだけど、
すやすやと眠る若紫を眺めながら、おれは、自分の口から溢れ落ちたいまの"独り言"に、どれだけ配慮の要素が
……いや、分かってる。
子ども服に関して、特異なほどに得意な同級生を、おれは一人だけ知っている。
「
今回おれは、おれと同じ
(────まぁ、手作りクッキーでも作って、雑談混じりに話を切り出せばいいか)
/////
だが、翌日の昼休みの学校にて、おれの意図とは裏腹に、凝りに凝った抹茶チョコクッキー──占めて四十枚──のほとんどは、
原田さんとおれは初対面だったが、同じクラスの神之輝さん曰く、家が貧しく、小学生の頃には、唯一の肉親である父親と公園で暮らしていたこともあるらしい。そしてチョコレートには目がなく、なんでも、そのホームレス生活をしていた頃に食べたチョコバナナが印象に残ってるからだとかなんとか……。
しかし、サクサクと軽快な音を鳴らし、
「美味しい~」
と、両の
……ただ、肝心要の頼み込む異性──
「ボクがいくら頼んでも作ってくれなかったくせにぃ」
などと本人はぼやいていたが、そんな愚痴を溢されても、無理もない話だ。
なんせ、おれがホワイトデーにクッキーを作らなくなった原因は、言うまでもなく、この
六年もの間、バレンタインデーにチョコを渡してきては、
「みさと君の手料理、ボクのホームページで紹介したいから、来月のお返し、楽しみにしてるね~!」
なんてことを悪びれることもなく言ってきていたのだ。
おれの恥ずかしさも心持ちも、少しは考えてくれ。……というかそもそも、おれの料理は客寄せパンダじゃない。
──まさか小学校から現在まで、続けて同じ学校の同じクラスになるとは思っていなかった、いわゆる"腐れ縁"というやつである──。
「────ねぇねぇ、
おれの方から声を掛けようと思っていたが、予想に反して千敬の方から話しかけてきた。
「なんだよ……。てか下の名前で呼ぶなって、何回言えばわかるんだよお前は……」
「あっはは~、ごめんよ」
返されるのは、相変わらず、反省の色がまるで感じ取れない謝罪文句。
おれは別に、そんな千敬を"許している"わけではなく、ただ距離を置くことの方が面倒で、"諦めている"だけだ。
「……それで?用はなに?」
「いつにも増して素っ気ない返事だなぁ~もう。
「最初から好きだったみたいな言い回しをするんじゃない」
「え?けっこうボクは君のこと昔から好きなんだけど。」なんて台詞を表情一つ変えずに言い放つことができるのは、これはこれである意味天才的なのかもしれない。
「まぁそれは置いといて~。ねね!なんで今年に限ってクッキー作ってきちゃったわけっ?」
こ、こいつ……、手料理といい話題といい、おれのことに対して
「千敬のバレンタインチョコを断ったから」
「またまた~」
おれが数秒黙っていると、「……え、ホントにそうなの?」と、茶化しまくっていた声音から一変して、気まずそうに訊いてきた。
────まぁ、神之輝さんも三倉さんも原田さんもクッキーに夢中だし、こっちの話が耳に届くことはないだろう────。
「いいや、全然違う。むしろ、千敬に折り入って頼みごとをしたいがためだけに作ってきたんだよ」
「え?!なにそれ超VIP待遇じゃん!!」
……本当のことを暴露するために消費したおれの緊張感を返せ。
「はしゃぎすぎだ……。"折り入って"って言ってんだろうが」
「あぁ、そうだった。……あはは、すまないね」
千敬の場合、謝る言葉に「すまない。」と入っているときは、笑っていようと、本気で悪びれているときなのだ。──さすがにこういう言葉の癖は、長年同じ教室の空気を吸っていれば、勝手にわかるようになってしまう。
「じゃあ、ボクになんの用?」
ほんの少し、声の張りを抑えて千敬は問う。
「──実は、女の子用の子ども服が欲しいんだが、思ったよりチョイスが難しくてな……」
「え、なに、
ほとんど反射的に、おれの
「じょ、冗談だって。けど、なんだって子ども服なんて欲しがるの?」
「……いまはまだ言えない。と、とにかく、小学生くらいの背丈で、
頭を下げて懇願する姿に、並々ならぬ本気の度合いが伝わったのか、千敬は短く嘆息を挟み、「わかったから、頭を上げてよ。」と声を返してきた。
「ま、要するに?三木君は読書のしすぎで、ファンタジー小説にしか登場しないような女の子の洋服を是が非でも手に入れておきたいわけだね!この
「────ちょっと
席を立つおれの耳に千敬の声が飛んできた。──闇雲におれの袖口の裾を引っ張る癖だけは、いい加減なんとかしてくれ。
「待て待て待てーぃ!ボクいま『承知した。』って言ったよね?!いやいやほら、そうだとでも思っておかないと、ボクだって、
「……珍しく一理あること言いやがって。────じゃあそれに、今日の配ったクッキーのレシピを付けたら?」
「ボクでよければ、全力を
……さすがは千敬。
"純朴"という名の"単細胞"なだけはある。
///
その後、若紫にバレないように、午後の授業を早退し、千敬と一緒に、近くのショッピングモールまで各々の自転車に乗り、赴いた。
正直なところ、千敬がいてくれたことで、服を選ぶ時間に余裕を持たせることができた。
──いや、余裕がありすぎて、画材調達なんてものにも付き合わされ、挙げ句荷物持ちにされたのだから、良くも悪くも"持ちつ持たれつ"の買い物になった。
ショッピングモールからの帰路にて、
「ボクたち、デートしてるって思われてたんじゃない?」
などと、千敬は冗談めかしていたものの、突発的に口にされた。
「子ども服売り場と画材専門店にしか行ってないだろうが……。どんなにがんばっても、"相方の趣味に付き合わされて若干げんなりしてる幼馴染の二人組"ってくらいにしか映らねぇよ。それに──────ッ」
「ん?それに?」
「いや、なんでもない」
────危ない危ない。「恋人の枠には困っていない。」なんて言ったら……、こいつがどんな行動をとるか知れたもんじゃない。
「そっかそっか。まぁでも、ボクだってこれでも一応は"女の子"だからね。そういうことも、少しくらい、意識してくれてもいいんだよ?」
「……────『多元宇宙論』に等しい次元の話を持ち出すな。
そう────、千敬は性格こそこんなやつだが、パソコンに向かっているときの並外れた技量は、同じクラスの眉目秀麗、才色兼備の天才美少女──
「あっはは、それもそうだね~。でーも機械はいいよ?嘘つかないし。今日買った画材なんかと一緒だよ。ボクが
そういう問題なんですか。
「文系の
──まぁ単純な性格を持ち合わせている千敬らしいといえば千敬らしいか。……それよりも────、
「……千敬。またおれを名前で呼んだら、お前のことを
────こいつは、他人から名字で呼ばれることに対して、凄まじい嫌悪感を抱いている。"しおづき"だの"せきづき"だの、読み方のバリエーションが多すぎて、入学式や卒業式ですらも、
「すみませんでしたぁ……!!お、お詫びはなにをしたらよろしくて……?」
「────おれからレシピを訊き出さないこと」
「なにそれ
「おれのことを指すなら"
口角を上げ、しめしめと言わんばかりに嗤ってやった。
「ぐぬぬ……っ、この策士め。────あ、そろそろ別れ道だね」
雑談を繰り広げている間にも歩は進み、千敬の家と若紫の待つ家への道を分ける交差点が見えてきた。
「おう、今日は世話になったな。ありがとう。
心からの感謝の言葉を贈ったつもりだが、千敬は
「じゃあ、またね」
と珍しくおれから言い出し、おれはそそくさと若紫への
/////
本当は、「いまはまだ言えない。」って言ってくれた
「『じゃあ、またね。』……そのひとことが、心刺す、
ってところなんだけど、やっぱり
苦手な文系科目でも、君と話すためなら、がんばって覚えちゃうくらいの────、ボクのこの
*****
「おーい、若紫ー。帰ったぞー」
みさとの
────されど、もう苦しまなくていい。
みさとはわちしを受け入れて、また"恋人"として認めると、
「足摺りて、たな
屋敷の廊下を
今日の
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