第5話 ルビー・イーグル
火星は月へ行くのとは訳が違う。
月航路は宇宙ステーションから随時シャトルが往復している。地球からも飛んでいく。
月面には民間の観光ホテルがある。
もし水がない、食糧がない、酸素が足りないとなったら、基地同士融通しあうし、不足物資が軽量なら、地球から翌日か翌々日には届く。
本格的な月への入植計画がないのに、いきなり火星への入植が始まったのは、二〇二一年に日本の無人探査船が未発見のメタルを持ち帰ったからだ。
未来永劫、エネルギーについて悩む必要がなくなる、と言われるほどの発見だった……らしい。
だが火星への中継基地となるステーションは地球軌道にはなく、月軌道にも当然まだない。
そのメタルについての、詳しい素性、危険度、有害度、など必要事項はまるっと機密で、欠片すらでてこない。名称も未定なのか不明なのか、正式に発表されていない。
巧妙なリークだとされる噂は流れてくる。
しかし火星のメタルに関する情報は、流れると同時にフェイク認定されるのだ。
玄米茶もあるんだよ、と美月が玄米茶を淹れてくれる。芳ばしい香りに涙ぐんでしまう。
「織羽、そんなんで八ヶ月も軌道収蔵庫にいられるの」
夏実が苦笑いする。「実家へ帰りたいんでしょ」
当たってる。実家と言うより、一年前に戻りたい。
美月が密封容器を開けると中にはあられが入っていた。夏実とわたしが同時に手を伸ばす。
和三盆の干菓子と醤油味と塩味のあられの組み合わせは絶妙で、幸せな気持ちにしてくれる。
「火星は厳しいと思う」
夏実が指先を濡れナプキンで拭いながら言う。
「月とは比べようがないぐらいに厳しい。そのあたりを宇宙生活初心者、織羽の意見を聞きたいな」
「話を初心者に振らないでよ。半年の宇宙空間勤務訓練では緊張して疲弊しまくりだったんだから。
火星移住……わたしは辞退しかない。
深海掘削基地の事故とイメージが重なって、想像するだけで息苦しくなる。
なんの防御がなくても呼吸ができて、生きていられる地上にいるなら、火星だけじゃなくて、月だって、地球軌道だって、現場の恐ろしさは想像できない。
夏実はわかるけど美月にはわからない。現場の事情って、現場にいない者にはわからない。わたしには美月が重篤な患者を前にする緊張感はわからない。それは現場にいるか、いたか。それだけの違いしかないと思う」
わたしはお茶を飲み、干菓子を口に入れた。
「火星では目視で地球が見られないものね。辛くても疲れていても、月の地平に浮かぶ地球を眺めるだけで自分の幸運を信じられる」
「……今、火星には十人が先発してるんだったよね」
夏実はうなずき、そして首をかしげる。
「いま活動できてるのは七人だと聞いたわ。三人が誰なのか、三人の状態もわからないけど、重篤とまではいかないにしても、いい状態ではないのは想像できる。屋外活動は七人でしているようよ。
もちろんドクターが一人いるけど、医療機器はそろってるけど高度なものはないし、薬剤の種類も量も満足なものじゃないはず。
そんな話が聞こえてくるだけで、現場を思うと震えてしまうわ。火星は遠すぎる」
「確か、火星に先遣隊が出発したのって……」
美月が指をおる。毎年の自分のスケジュールを思い出しながら、何年前のことか考えているのだ。夏実は、美月の答を辛抱強く待っている。
美月は「五年前、よね」と夏実に確認する。
五年は長すぎる。
「そうよ。二〇二六年七月七日。東洋の伝説にあやかって七月七日にしたらしいのね。
先遣隊は八人と半年分の水と食糧と酸素を乗せたロケットで出発した。
その三日後、二人のオペレーターと二年分の水と食料と酸素を載せた輸送船が出発し、その三日後に居住空間を作るための資材とランドビークルを無人ロケットに運ばせて、その後二回、無人輸送船を飛ばした。
火星に送り込んだ一〇人の生存がかかってるものね。先遣一〇人は地球に戻れないのを承知で出発したのよ」
夏実がふっと涙ぐんだのを、わたしも美月も見逃さなかった。わたしの背中をゾクリと悪寒が這いのぼる
「第一次火星入植船が出発したのは、去年の十月十日。中原さんはそれに乗ったんだね。わたしが地上で講義と訓練を受けてるときだった。
わたし、ほかの訓練生といっしょに火星へ向かうルビー・イーグルⅠ号を見送ったの。
あのルビー・イーグルに中原さんが乗ってたなんて………。中原さんも見送り無用ってタイプかもしれない」
「わたしは月にいた。ルビー・イーグルが火星に到着した今年の五月二十一日は、地球にいて重力リハビリ中だった。
七六人無事到着、とリハビリセンター全体にアナウンスがあったのよ。心の底からほっとしたわ。安堵したわ。でも先遣隊は六人になっていた」
夏実は淡々と話す。
「彼は『火星に行くことにした』とだけ言った。わたしに、いっしょに行こう、と言わなかった。きみはどうする、と訊きもしなかった。
わたしは彼の決意を受け入れただけ……」
「彼は六人のなかにいたのね」
美月が訊く。わたしは訊けなかった。
夏実はゆっくり首を振った。しっかり口を閉じ窓を見ている。窓から見えるのは、向かい側の一般病棟の窓だ。
夏実は長いため息をついた。
「五月は織羽は軌道訓練用ステーションにいたころね。第一次火星入植者は、たしか一〇〇人募集して一六九人の推薦、応募があった。結果一〇七人が合格。訓練で九二人に絞られた。
実際にルビー・イーグルに乗船したのは七九人だった。
去るもの追わずで辞退は受け入れられたけど、ペナルティとして訓練費用全額を即時支払うか、宇宙関連の職に就くことを誓約しなければならない。そしてその職で得たギャラから訓練費用を、なんと、天引きされるの。割賦でね」
夏実は肩をすくめながら言った。
「ペナルティっていくらぐらい?」
「五〇〇万ドル」
わたしが換算中に、「だいたい五億円ね」と美月が答えた。
五億円はすごい金額だけど、火星入植キャンセル代金として高いのか安いのか検討がつかない。訓練費用が高額なのは当然だ。
全額支払いができないなら、訓練費用支払い割賦が待ち受ける。
結局よほどの財産家でなければ一生借金に苦しむことになる。宇宙関連の職につけば三〇年ぐらいかかるけど、なんとか支払える。
それにしても五〇〇万ドルは大きい。
火星には地球帰還可能な機体を打ち上げられるだけのロケットはない。発射台もない。ロケット燃料の余裕もブースターもない。
水、食料、酸素などを運んでいった貨物船は、火星から飛び立つことはなく、そのまま居住空間にしたり、倉庫にしたりするのだろう。
入植者はそれを承知して、承知したことを認証して火星へ行ったのだ。
中原香音も地球に戻ることはたぶん……ない。
「七月七日と十月十日、数字をそろえるのって、げん担ぎなのかしら」
「かもね」と美月が言い、「焙じ茶もあるんだよ」と淹れてくれる。追加のお菓子はなかった。
現在、火星入植計画は第三次まで計画されている。予定は二〇三五年。火星と地球の最接近が九月ごろだから、出発は一月ごろになるだろう。まさかの一月一日とか……一月十一もありかな。
そのときに帰還可能なロケットが入植船といっしょに火星へ行く。
火星から帰還する最初のロケットは、積載重量ぎりぎりまでレアメタルを載せてくるだろう。パイロットとオペレーター、そしてレアメタルだけが地球へ帰還することになる。
そのメタルを独占できれば、地球上の国々をエネルギーで支配できる。そのために各国は、どの国も、一国が単独で火星に行くことを禁止する条約を結んだ。
いまは少なくとも半年ごとに火星への物資輸送を続けなければならない。自給自足体制ができるまで早くても二十年かかる見込みだからだ。
第一次火星入植だけで、参加した国々は疲弊している。
二次はロシア、三次は中国と幹事国が決まっているが、他国に譲ってもいいという意思を、言外ににおわせるようになってきている。
未来を約束する火星のメタルが、地球をジリ貧にしていくようだ。
移住計画を中断すれば移住していった隊員を見殺しにすることになる。レアメタルも手に入らない。
レアメタルが産むはずの利益を見込んでの先行投資なのだから止めることはできないし、先遣十人、移住者七六人では暮らしていくだけで手一杯だと思われている。
レアメタルを手に入れるためには、どうしても第二次、第三次と移住者を送り、火星開発を三〇〇人体制にしなければならない。
それでもぎりぎりの最低ラインだ。
「国際的な公平な関係といっても、入植者それぞれが背後関係ってのを背負ってるわけで、じわじわと覇権争い、利権争いが滲み出てくるだろうから、暗澹を感じるよ。謀の闇は深くなるばかりだね」
美月があられをパリンと噛んだ。
昨年八月の終わりごろ、休暇中の夏実は月面勤務の準備でヒューストンにいた。
開示されていた火星入植メンバーのなかに中原香音の名まえを見つけ、自分の知る中原香音なのかを確かめに入植メンバーの宿舎に赴いたという。
「火星入植者宿舎は八月一日から家族以外の面会は許可されなくなってたけど、わたしは月勤務員だから身分証だけで面会できたの」
「中原さんが火星に行く決心をした理由を聞けた?」
わたしは勇んで訊き、夏実は曖昧に首をかしげた。
「先遣隊に追いかけていきたい人がいたんだって」
無理して浮かべた夏実の笑み。
美月がわたしを見てかすかに首をかしげた。中原さんの理由もだけど、夏実の笑みが含む陰りに胸が痛む。
「中原香音らしい」
と美月は言う。
「もっとも、中原香音らしさを知るほど、彼女と親しくなかったよね」
「そうだよね。でも男のあとを追うなんて、一番腑に落ちる理由だよ。やっぱり中原香音らしいと思っちゃう」
そう言うわたしも「らしさ」がわかるほど中原さんを知らない。
「中原さんの恋人は男じゃないよ」
「あ……。……その彼女は六人のなかに?」
「それは、わからない。……わたしは追えなかった……」
夏実が湿った重苦しい声で言った。
わたしは夏実を見て、美月を見て、窓を見た。
テキサスなのに窓から砂漠を見られない。窓から見える窓は、この部屋の窓を写しているだけだ。
「ごめん。湿っちゃったね」夏実が申し訳なさそうに微笑んだ。
「それでね、織羽。中原さんから月第三ベース宛にメールがきたのよ。個人宛だったから、いつもなら休暇明けまでほっとかれるんだけど、さすがに火星からのものだから、わたし個人宛にメールが転送されてきたの」
火星からメール、で一瞬とまどったが、考えてみれば火星軌道には三機の中継衛星が稼働しているのを思い出した。
「高見塔也のことだった。中原さんが高二の三学期からいなくなったのは、高見のせいだった。視線だけじゃなくて、日常行動もストーキングされてたんだ」
他人の視線に絡みつかれるのは気味が悪い。それが高見なら気味が悪いし、怖ろしい。
高見の視線が気になりはじめた中原さんは、自分の気のせい、自意識過剰かもしれないと思って、高見をこっそり観察しはじめた。
高見自身も中原さんが自分を気にしていることに気がついているようだった。
高見は、それでも中原さんにまとわりついた。けれど中原さんに付きまとっても、二メートル以内に近づくことはなかった。
「もちろん、中原さんは警察に訴えた。
警察は高見に警告をしたけど、無駄だったみたい。高見は怖いもの無し。怖いもの無しって、怖ろしい。
おまけに高見塔也の執着心は揺るぎなく強固だった。
鬱陶しくなった中原さんは、フィンランドのおばあさまのところへ行くことにしたんだそうよ」
夏実はそう言うと、中原さんのメールを美月とわたしに転送してきた。
中原さんのメールを読み終わり顔を上げると、二人がわたしを見ている。心配そうに見ている。
わたしは口をきっちり結んだ。ふたりを不安にするほど動揺してしていた。
苦笑いぐらいしてみせるべきだよ、わたし。
『フィンランドの祖母のところへ向かう成田空港で、高見塔也と対峙することになってしまった。
わたしの表情を見て、近くにいた警備員がふたり、高見とわたしの間に入ってくれた。
高見は笑ったわ。ぬめっとした嫌な笑いかただった。周囲の人も高見を見ていた。振り返って見た人もいた。
たしかに高見は端正なルックスだけど、周囲の人を振りむかせたのは彼にまといつく気味悪さだと思う。表情を変えずにスッと腹部にナイフを沈めるような、なにをしでかすかわからない気味の悪さよ。
高見は笑顔で言ったわ。
「僕から去るなら止めないさ。さよならだけは言っておくよ。僕には天野織羽がいるんだ」
そのときわたしは高野に殺されると思った。立ちはだかってくれた警備員ふたりも躊躇なく殺すかもしれない。どこかにナイフを持っているんだろうか。高見が銃を持っていることはないと思いたかった。
高見は大きな声で「さようなら、中原香音」そう言って去って行った。
安心して、足から崩れおちるほどだった。人目が多かったから我慢できたんだわ。
高見が歩いて行く方向の人々は、高見を避けた。モーゼが紅海を割ったみたいに、人垣がふたつに割れていって、高見のために道ができていったのよ。
気味が悪かった。とことん気味の悪いやつだった。 木戸さん、天野さんに用心して、気をつけてと伝えてね。わたしのメールを転送してくれていいわ』
中原さんは高見に対する嫌悪感と恐怖心もあって、一度性的な誘いをしてみたという。
『栄の噴水広場で、高見くんとセックスしてもいいよ、と言ってやったの。
いつも通り高見くんはわたしから二メートル離れてたけど、噴水が出ていたし、風が強かったし、通行人は離れた場所をちらほら歩いてるだけだったから、ちょっとぐらい大きな声を出しても大丈夫、というのぐらいは計算したわ。
一瞬で高見くんの顔から表情が消えた。高見くんって、顔立ちが端正だから能面のようになったの。
その面を顔から外して近くでゆっくり鑑賞したい、と思うほど美しかった。いつもの気味悪さもなかった。
その時、高見くんは感情を持ってないんじゃないかと思えた。思えたというより、そう確信したというほうが近いかな。
わたしに付きまとっても二メートル以内には近づかない。危ない形相で成田まで来たのに、わたしに「さようなら」と言っただけ。
わたしは殺されるかもしれないとまで思ったのに。
高見くんは自分の中に感情があることを確認したくて一所懸命だったんじゃないかと思うようになった。
もう十二年の前のことも、いまでも、つい最近の記憶のようにわたしの脳裏に張りついてる。
彼は今どうしてるのかしら。わたし今でも、高見塔也はこの世からいなくなっていてほしいと思ってる』
いなくなってほしい。
中原さんの遠回しな表現が、時間が解決できない怖れを感じる。
わたしも同じだからだ。
僕には天野織羽がいるんだ
わたしの観察視線が高見くんの注意を引いてしまった。
「わたしね、去年の夏のはじめごろ、宇宙勤務訓練に入る前、高見塔也を見たんだ。朝、職場へ行く前だった。
環状線のあっちとこっちだったけど、やっぱりすごく怖かった。もう十二年もたってたのに、高見だとわかったんだ。
あとから怖がった自分が悔しくて、高見くんに腹がたって感情をコントロールするのが難しかった」
「それで?」
美月が訊き、夏実が答えをうながすようにわたしを見た。
わたしは眼を閉じて大きく打つ鼓動を鎮めようとした。
「それっきりだよ。わたし、あれは見間違いだ、勘違いだと自分を納得させようとしたんだけど、そうすればするほどあの男は高見塔也だという確信になっていった。
おまけに、その日に宇宙空間勤務訓練の辞令があって、現実世界から放り出された気分だった」
「きつかったね」
夏実がハグをして、美月がよしよしと頭を撫でた。
わたしはうっかり泣いてしまった。
宇宙ステーションに高見くんがいるかもしれない。軌道収蔵庫で待っているかもしれない。悲観的な妄想はいつだって迷走する。
あり得ない。絶対、あり得ない。大丈夫。大丈夫だからね。
わたしは眼を開けた。
美月が右手に二つ、左手にひとつ、マグカップを持ってきた。サービスロボットは重病者優先だから、動ける者は自力調達だ。
コーヒーが香る。
コーヒーメーカーは各階に設置してあって、この部屋のすぐそばにある。
わたしって、いい友だちがいるんだな、と力が湧いてきた。
トネリコの木を見ようと窓を見た。
「あっ……」
窓から見えるのは、やっぱり向かいの病棟の窓だった。
外は暑いんだろうか、涼しいのだろうか。博物館のみんなは元気かな。
「ランチタイム!」
ヘレンが中国風の粥とサラダとチキンがのったプレートを運んできた。
「めしあがれ」
美月と夏実がなぜか投げキッスで部屋を出て行き、わたしはひとりになった。
もう一年経ってしまった。今年十二月二八日には三十一歳になる。数え年の三十二歳、前厄。
無事に地球へ戻ることができたのは、厄除のお札とお不動様のおかげだろうか。
谷垣所長、佐竹さん、叶さんにメールをする。
つい不定期になってしまって報告が時々になったことをあやまり、現状を報告する。
それから地上訓練と宇宙空間勤務訓練の内容と体験感、そして「シバンムシ防疫の現状はどうですか」と質問した。
わたしのメールに反応した谷垣所長は、佐竹さん、叶さん、優香さん、毱奈さんと文化財保護管理専門班六人、わたしを含めて十二人のメールルームを設定した。
『どうでもいいと思えても、出来るかぎり事細かに重箱の隅をつつきつつ、日々の出来事のメールをいただきたい』
という言葉がそえてあった。つまり毎日要報告ってことかしら。
叶さんからは、『シバンムシは一年前の状態を維持しています。維持したいわけじゃなく、できれば二十世紀あたりのシバンムシなど小さく頑固な虫たちを、あまり気に止めなくてもいいような、穏やかな共存状態へ戻していこうとしているのですが、なかなか手強いです。
シバンムシを絶滅させるのは案外簡単かもしれませんが、それは絶対の禁じ手です。交雑種だけを排除するということはできません。
ひとつの種を人為的に絶滅させた場合、その反動は予測できないですし、決してしてはならないことです。けれど、悩ましい日々です』とメールをいただいた。
わたしは「叶さん、お疲れさまです」と独り言を言い、叶さんにビデオチャットをかけた。シバンムシの話じゃなく、無駄話がしたかったのだ。
そして夏実は、美月と香音とわたし、四人のチャットルームを設定した。
火星最接近のときで片道約四分、最遠距離時で約二十分かかるメールだから、ビデオの返信を待つのには辛抱がいるだろう。
今なら片道十分以内で香音に届くだろうけど、PCの前に香音がいないことのほうが多いと思う。
でも同窓会グループ開設って感じで、ちょっとワクワクする。
この空高く、軌道収蔵庫「
辛亥着任は来年の一月……半年以上待たせていることになる。わたしの着任は二〇三二年一月一日、暦は壬子だ。まさに盆も正月もない。
半年間の無重力空間から帰還して、わたしの骨密度は正常値だったが、筋肉量が減っていた。リハビリは筋トレと柔軟というマストなトレーニングをこなしてゆく。
それでも我ながら案外頑丈な身体を持っていると、自画自賛するのだ。
両親は「いちど顔をみせろ」だの、「会えるならそっちへ行く」だのとやいのやいの言ってくる。
日本へ帰ろうと思えば帰れるし、両親とついでに伯母をこちらに招待できるが、わたしは「リハビリ中」とか「トレーニングでいっぱいいっぱい」など、もっともらしい言い訳をして、ビデオチャットすらよくすっぽかしていた。
いろいろ訊かれるのがメンドーな気分なのだ。身内は遠慮がないから、メンドーも倍増しになりそうだ。ここぞとばかりに兄一家と妹夫婦までくっついてきそうだし。
ただ伯母の「新しい厄除のお札を送ったからね。古いお札はお焚き上げするからちゃんと送り返しなさいよ。お不動様は織羽のものだから、新しいお札といっしょに持ってるように」という言いつけは素直に守っている。
半年間、空も海も大地も、重力もない場所での訓練は、船乗りの「板子一枚下は地獄」という言葉を体感しているようだった。
わたしも宇宙船という船に乗っている船乗りなのだと思わずにいられない。
とはいうものの、プロフェッショナルの中に紛れこんだアマチュアなわたし、という場違いな気持ちを持ち続けていた。
訓練のメンバーは技師に軍人、元軍人が多かった。スタート地点でわたしは例外的なほどアマチュアだったのだ。
よく頑張ったなぁ、と自分を褒めまくっている。
二〇二七年に打ち上げられた、丸みのある八角柱俵型の宇宙ステーション「
二〇三三年に予定されている「
予算はいつだって足りないばかりなのだから。
癸丑は延期のままでいい。その予算を火星に届けて欲しい。火星に使ってほしい。
香音のメールは楽しそうで、おもしろい体験ビデオを送ってくる。だからこそ、ほんとうはすごく厳しい状況なのではないかと思えてしまう。
あまりにも厳しいから泣き言を言えない。
自分を元気にしておかないとつぶれてしまうほど、辛い。
逃げられない場所なのだから、わかっていたとしても、不安は濃くなっているんじゃないかと、香音を思う。
まったくわたしの取り越し苦労癖はなんとかならないものだろうか。基本が根暗なんだよね。
香音はパートナーと楽しげにツーショットでチャットするときがある。生涯のパートナーがいる、それはとても幸せで、とても幸運なことだと心底思う。
収蔵庫モジュール「辛亥」は文化庁主幹の収蔵庫仕様だと聞いているけれど、己酉について、わたしは何も知らない。
知らされなかったということは知るべき立場ではない、知る必要がないと理解して、質問はしなかった。質問して機密など知らされたとしたら、わたしの肩にどんな重荷がのしかかるかわかったものではない、とわたしは用心深くなり、好奇心を不活性化することにした。
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