第4話 リハビリセンター

 わたしは、宇宙へ羽ばたきたいとか、宇宙で仕事をしたいとか、月基地で働きたいとか、火星入植に応募したいとか、一ミリも、なんなら一ナノメートルだって思ったことがない。

 しかし、一年間の宇宙空間勤務訓練の辞令は下った。


 残念ながら、これがわたしの初海外渡航でもある。

 わたしがフロリダにあるとばかり思っていた、知らない人はいない、ヒューストンが、ほんとうはテキサスにあるのだと知った。

 国内温泉旅行に誘われればほいほい同行してきたが、海外はなかなかその気になれなかった。

 それより小さい町の古物や骨董屋を探して訪ねることに旅費を使いたい。


 宇宙空間勤務訓練。

 地上での基礎知識と訓練は難なくクリアできたが、半年間の軌道訓練の初日は散々だった。無重力は当然の初体験。

 無重力に酔った。さいわい気分が悪くなっただけですんだ。無重力で嘔吐するなんて大惨事だ。

 最初に嘔吐処理袋を渡され、常に常備し身に付けろ、と申し渡されたので、それなりの用心と覚悟をしていたのがよかったのかもしれない。

 きっとわたしは不安そうに訓練教官を見たのだろう。

「大丈夫です。私は一度も嘔吐した人を見ていません……噂は耳にしましたけど」と訓練教官がつぶやいた。

 そしてわたしは、宇宙服を着ただけで自分が閉所恐怖症ではないかと疑い、船外訓練で地球を見て感動し、同時に高所恐怖症ではないかと自問したのだった。

 宇宙ステーションの重力磁場のありがたいことといったら。

 けれど残念なことに、訓練生はめったにそのありがたい場所に行けなかった。


 重力が恋しい。日本語でしゃべりたい……。


 人間の身体、と風呂敷を広げていいのかどうかわからないが、少なくともわたしの身体は適応力があったようだ。無重力酔いも閉所及び高所恐怖症的感覚も、二回目の船外訓練ではどこ吹く風になっていた。

 

 宇宙でお仕事するのが珍しくなくなったこの頃でも、親は娘の厄年を気にしてくれる。

 とくに数え年の三十二、三十三、三十四歳、つまり実年齢三十一、三十二、三十三歳は女の大厄なのだという。

 わたしは母と伯母に厄除のお札と、ごくごく小さい木彫の不動明王像を持たされた。

「お不動様は右手に剣、左手に羂索けんさくをお持ちでしょ。だからほら、デブリとかいう宇宙ゴミが飛んできたら剣で追い払ってくださるし、織羽の命綱が切れて宇宙へ飛ばされたら、羂索で捕まえてくださるのよ」

 伯母のレクチャーを聞き、曽祖父の形見の直径十センチのルーペで不動明王を覗かされた。

 小さいお不動様の羂索はルーペでもよく見えなかったが、束ねたロープのようで、伯母のレクチャーでは、青、黄、赤、白、黒の五色線を撚り合わせたものだということだ。

 わたしの木彫お不動様は無彩色である。

 なのでわたしは、忘れないように失くさないように、いつも身につけている。なにしろ三十一、三十二、三十三歳、少なくとも三年は宇宙でお仕事するようにと重ねて辞令がやって来たのだから。


 半年の宇宙空間勤務訓練を終えたら、軌道収蔵庫へ出向が待っていた。


 母はよく「月に観光ホテルができたって、こっちはなんにも変わんないね」と言う。

 母のいうこっちは、両親や親戚を含めた身の回りの生活圏のことだろう。

 知らないうちに現金を使わなくなり、いつの間にかネットを使えないと困った状況になる。カラスはドローンを追いかけるし、バスはワンボックスカーサイズになって自動運転個人送迎になりタクシーとの間で生き残りをかけている。伸び悩みながらもスマート家電は普及してきている。

 ジワジワ浸透してきた「ひと昔前」とは異次元といえるほどに違う今日を生きているけれど、感覚としてそれほど大きな変化とは捉えきれていない。

 日常生活は侵食されつつ変化してゆく。人はそれに茹でカエルのように慣れていくが、いずれ水が熱湯になってカエルのように茹でられたまま死ぬという事態にはならない……はずだ。


「そりゃね、十年、二十年前とはいろいろ変わってきてるけどね」とため息混じりになってみる。

「わたしは絶対火星へなんか行かないから」と伯母は口をはさんでくる。

「年齢的に応募できないよ」

 うっかり突っ込んだわたしは、父も含めた年長者三人に総攻撃を受けたのだった。

 たしかに宅配物は空に陸にドローンが運んでくるが、災害時のライフラインの復旧や、インフラストラクチャーの回復などは十年、もしかしたら二十年前とあまり違わないんじゃないのかと、二十年前より不便になっているんじゃないかと、たかだか三十年しか生きていない者は思うのだ。

 

 どこから来たのか、桜の花びらが風に吹かれて舞っている。ソメイヨシノはとっくに散ったはずだ。近くに八重桜があるのかもしれない…………

 はっきり眼が覚めて、がっくりとため息をついた。


 窓には不透明なオフホワイトのカーテンが降りていて、外は見えない。

 まだわたしの眼が地球の太陽光線に慣れていないので、カーテンは医師か看護師かリハビリ療法士しか開けられない設定になっている。

 今年の桜はもう見られない。ここは日本ではない。今は秋、桜の季節ですらなかった。

 気分は望郷、帰りたい。


 半年間の無重力から帰還したわたしは、地球の重力適応リハビリ中だ。

 重い身体をむりやり起こし、ベッドに腰かける。

 背筋をまっすぐにすると、身体が楽だ。頭痛も軽くなる。

 オールインワンの医療用コルセットスーツのパワーなのか、わたしの筋力が回復してきたのか、自分ではわからない。

 地球に帰還して一週間めの朝だ。

 半年間の無重力生活のおかげで、一Gに筋肉が負けている。わたしの身体は人並み以下なのか、これが人並みなのか。

 訓練でのマイナス評価ににより落第……そうなると悔しいけど、望ましいかもしれないと思える。


 チリンとベルが鳴る。看護師のヘレンとリハビリ療法士タムが入ってきた。

 タムはわたしを床に立たせ、ぐるりと一周して立ち姿を見る。

「重心がとれてるわ。オーケーよ」

 そして両手首と両足首に機器を取りつけ何かを計測した。

「いいですね。上々です。コルセットを外しましょう、オリハ。手伝うわ」

 ヘレンもいっしょに三人がかりでコルセットを外した。わたしは素っ裸になった。

 タムはもう一度両手足首に機器をつける。そしてまた計測。

 わたしの羞恥心よ、どこへ行った。いまなら人間のメスとして男性看護師の前でも平気で裸でいられそうだ。

 時間とともに羞恥心が復活してくるだろうから、いろいろ自重しなければ。

「オリハ、あなたは回復が早いわ。自力で立ってみてどうかしら、元気いっぱいというわけにはいかないだろうけど、風邪をこじらせて体調が悪いという程度じゃない? どう?」

 わたしはうなずいた。タムの表現は言い得て妙だ。

「いい具合ね。午後からトレーニングルームへ来てね。さあ、カーテンを開けましょう。オリハの声で反応するわよ。もちろん手動でもオーケー」

「ミツキがきてるわよ」

 そう言ってヘレンはウインクした。

 ヘレンとタムが部屋を出て行き、そのふたりに「ハイ」と声をかけ栗原美月が入ってきた。


 美月とはここ三年ばかりおたがいに忙しさにかまけて疎遠だった。

 帰還翌日、突然この地球帰還員リハビリセンターの、この部屋に、医師として白衣を着て登場したのだ。


「久しぶりに会ったら、織羽ってば、博物館から軌道収蔵庫へ出向してるなんて。すごい転身だね」と言いながらタブレット端末を見せ、「はい、これを読んで」と言った。

 お互いに無沙汰の挨拶らしい挨拶はなし。

 わたしのほうはまだ身体が重くてベッドに沈んでいた。でも美月の日本語が嬉しかった。

「頭が働かなくて、そんなみっしり細かい英字は読めないよ」

「しようがないなぁ」

 美月はタブレットに表示された内容を解説する。

 わたしは眉間にシワを寄せた。

 多言語翻訳カプセルなるものを鼻から脳の言語中枢へ送り込むと言うのだ。

「ニューロンのシナプスの電気的シグナルを………………」

 その多言語翻訳カプセルで、よほどの少数民族の言語でなければ、理解し話すことができる。同時に自分の欲する言語の本を積極的に読む努力をすれば、読み書きも手に入れられる。

「すぐれものでしょ。わたしはこの多言語翻訳カプセルのデータ収集に協力したの」


 第一次火星入植者の閉鎖空間訓練中、母国語が英語ではないメンバーと、英語ネイティブのメンバーの間に齟齬ができたり、ノンネイティブのメンバーが不公平感を感じはじめたりしてきた。

 地球にいるのなら訓練が終われば解消されていくだろうけど、逃げ場のない火星では鬱積するし、滞留していく。その先にあるのは対立。なんとかしなければならない。

「結論がこれ」

 美月は厚みが五センチ、A4サイズほどのアタッシュケースを持ちあげて見せた。

「ケースを開けて、中のカプセルを見たら、承諾したことになる。ね、見たいでしょう」

 これみよがしににっこりした。

「織羽、わたしを信じて、受け入れなさい。はい、両手を広げてね」

『わたしを信じてと言う人間は信じない』というわたしの信条を、美月が粉砕する。

 美月が粉砕……昔そんなことがあったような気がする。

 抵抗しつつ、わたしは両手を広げて、承諾として掌静脈を登録した。

 この一年、わたしは英語しか話せない毎日にほとほと疲れてしまった。

 これまで英語による会話を定期的にトレーニングしているわけではなかったので、聞くにしても話すにしても、いちいち脳内翻訳をしなければならないから、この上なく疲れるのだ。

 わたしは、脳内多言語翻訳機能という美月の甘い誘惑に負けたのだ。積極的に。


 美月がわたしの言語中枢に入れてくれた多言語翻訳カプセルは、たしかに働いている。

 五日間でヘレンとタムとの会話はスムーズになった。

 自分の思考を翻訳して話し、聞いた英語を翻訳して理解するというストレスがなくなった。

 聞き取りにくかったタムの英語が、フランス語訛りのベトナム語訛りの英語だということさえわかるようになった。

 一生かかって努力しても、わたしの頭脳じゃ手に入れられないというか、勉強しようとさえしないだろう語学力をインストールしてもらったのだ。

 そこに引け目と負い目を感じているからだろうか。

 美月に、「精神が抵抗しまくるから、定着がノロい」と中指で頭をツンツンとされてしまう始末だ。素直に「ありがとう」と感謝して受け入れるべき能力なのに。


 一年前にインストールしてもらってたら、訓練所での日々はもっと楽しいものになっていただろうな、とついでに思った。

 商品として開発され、完成していた多言語翻訳カプセルを基盤にして、できうるかぎりの言語の翻訳機能を持たせていった。

「火星への出発に間にあって、ほんとうによかった」

 美月はしみじみつぶやいていた。


「ハイ、織羽」

 美月から三歩遅れて女性が入ってきた。

「十二年ぶりになるのかしら。木戸夏実。高二でいっしょのクラスだった木戸夏実、覚えてないかな。ふたりっきりで話したことがなかったかもしれないから」

 覚えてるに決まってる。

 わたしは「わぁっ」と歓声をあげて、両手を広げた。一年間日本を離れて、すっかりハグに慣れていた。

「覚えてる。すっごく覚えてる」

「織羽にとっていい思い出じゃないかもしれないけど……」

「あのときのわたしたちの話の内容はさておいて、わたしは救われたの。

 高見くんへの違和感なんて、うっかり女子の誰かに話したら恋愛沙汰の噂話にされそうだったから、ウジウジしてたもん。美月は笑いころげるだけだったし」

「そんなことないって。わたしが悩み深い織羽と夏実をマッチングしてあげたんだからさ」

『木戸夏実さんと高見塔也のことを話してみなよ。気持ちを共有できるかもよ』

 それも思いだした。わたしは美月が心配するほどウジウジしてたんだ。

 眉目秀麗な高見塔也に感じていた違和感を、お互いにうまく説明ができないままだったが、夏実とは『違和感』を共有できたし、おかげで美月もちゃんと聞いてくれるようになった。


「夏実は明日、月の第三ベースへ戻るんだって」と美月が言った。

「戻るんじゃなくて、行くの。戻る先は地球よ」夏実は本気で訂正した。

「見送りに行こうかな」

「美月、それだけはやめて。家族にも絶対だめって言ってるんだから。見送られるなんて最悪かも。ひとりのほうが心がいろいろ揺らがないから、気持ちが楽なの」

「わかるな、同感。わたしも訓練のためにアメリカへ出発するときに、家族には関係者以外立ち入り禁止だから見送り無用って言ったもん。

 眼下に地球が見えていても、自分のミス、他人のミス、不可抗力の事故で一瞬で絶命するかもしれない。船外作業中にはじき飛ばされて、宇宙空間を移動し続けたまま死んでいく自分と向きあうことになるかもしれない。その後は永遠に宇宙を進んでいくことになるかもしれない」

 わたしはゾクリとして両手で自分を抱いた。

「わたしの場合、出発前はそんなことを思いながら……なんというか、自分の覚悟の確認を再確認する毎日だったような気がするよ」

 美月は「へえ、そうなんだ」と言い、夏実はなんどもうなずいた。

「夏実の帰還サイクルは? わたしは八ヶ月勤務で、リハビリ期間も入れて四ヶ月休み。一応、三年間の出向扱い。生活時間は明石標準時だよ」

「あら、わたしも同じよ。八ヶ月勤務、リハビリを含めて四ヶ月休むってサイクル。

 織羽ってば、やっぱり軌道勤務なのね。

 美月に聞いて、まさかと思ったけど。まさか織羽が地球を離れるなんて、予想外の極みだよ」

「希望したわけじゃないからね。出向の辞令なんだ。いまの職場を離れたくないから軌道勤務を受けた、なんてちょっと矛盾してるかな」

「矛盾してないけど、なんか裏腹な感じ。それにしても明石標準時使用なんて羨ましいな。日本がすぐ近くにある感じがするもの」

「月はやっぱりグリニッジ標準時なの?」

美月が緑茶を淹れながら訊く。ハイキングバスケットに急須と湯吞を入れて運んできてくれていた。

「いちおうね。でも、わりとルーズにヒューストン時間で動いてる感じ。連絡相手がヒューストンだから。織羽は公務員扱いになってるのね」

「……たぶん」

 給料の出金先を気にしたことはなかった。ちゃんともらえてるから、安心しすぎなのかしら。

 夏実はフリー契約で三年更新だという。夏実のギャランティとわたしの給料は桁が違うだろう。

 夏実もわたしと同じように「隣の芝生は青い」と感じているかもしれないけど。

 お茶の香りは三人を黙らせた。

 美月は懐紙にのせた干菓子を茶請けにゆっくりお茶を味わっている。


「あ、そうそう」と美月が湯吞を両手で持ちながら夏実をうながす。

 夏実はうなずいて、「中原さんだけど……」と言う。


 中原香音。


 わたしは黙ってうなずき夏美の言葉を待つ。

「彼女、第一次火星入植チームに入ってた」

 わたしはポカンと口を開けて、そのままフリーズしたのかもしれない。

 美月が笑いながらわたしの眼の前でパチンと指を鳴らした。

「意外すぎるよね。なにが彼女を決心させたんだろう」

 中原香音は生活を謳歌して、贅沢も謳歌している。生来、そんな環境で育ってきたと思っていた。

 たまの贅沢に後ろめたさを感じてしまうわたしには、住んでる世界が違う人物だっだ。

 彼女は高二の三学期は一度も登校しなかった。高三になってから、わたしは一度も中原香音を見ていない。

 中原香音は転校したのか、日本を離れたのか、それとも……。

 高校二年生の一月以降のことは三人とも知らなかった。

   

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