第3話 シバンムシの足音

 南舟なんしゅう記念博物館の収蔵庫は本館の裏にあり、連絡道は地下にある。地上部分に出入口はない。

 木造校倉造りだが、収蔵庫は超合金の完全密封で水に浮く。温度湿度管理は勿論のこと、火、虫、水、暴風、地震への防御は完璧だ。

 古地図によると南舟記念博物館は字に湫の文字がある地域であり、伊勢湾台風の水害も考慮し設計された建物だ。

 収蔵庫入室時の身体洗浄は徹底していて面倒だが、この面倒が収蔵作品の安全を確保している。


儘心堂じんしんどうについては、天野さんの判断はギリギリセーフだったかもしれないですね」

 谷垣所長はしみじみ言った。

 わたしは小耳に挟んだ程度の情報を、おおそれながらと言ってみる。

「シバンムシの交雑種が東ヨーロッパからアジアを静かに侵攻してきている、という噂ですか?」

「噂だけじゃないですよ。九州はかなり喰われているようです。市販の殺虫剤などものともしませんね」

 佐竹雄さんが話に加わってきた。

 隅が好きだからと、部屋の隅っこにデスクを置いている。一日中収蔵庫にいて、収蔵物の管理をしていることもある。

「名古屋でも堀川の木場の材木が相当やられているようです」

「港区と南区のほとんどの本屋が店を閉めていますしね」

 わたしの指導学芸員、叶榛名さんが言った。

 叶さんはほぼ外出している。わたしが新人だった五年前から、シバンムシを警戒していた。

 そのころ、モンゴル周辺に始まったシバンムシの大繁殖は徐々に南下して、中国西安市にある隋の時代に創建された由緒ある寺の、古い巻物がシバンムシの食害でぼろぼろになったという噂が聞こえてきていた。真偽はわからない。


 叶さんは薬剤耐性の種が増えてきたのかもしれないという前提で、文化庁の文化財防疫研究所の調査に加わっている。

 わたしは佐竹さんと叶さんのアシスタントで、二人の仕事をすべて覚えて身につけなければならない。その先にあるのは、わたしが指導する立場になるということだ。

 道遥かすぎて目眩がする。


 シバンムシはどこにでもいる。その気になれば家の中で見つけることができる。

 実家暮らしをしていたころ、いただき物のちょっと高級な素麺、天然和紙の紙箱という豪華さの無駄遣い的な素麺を、紙箱に入れたまま冷蔵庫の上に置いておいた。

 さあいただきましょうと箱を開けて、思わず眼をそらしたという残念な記憶がしっかり残っている。二、三ミリの茶色い甲虫が素麺に取りついて蠢いていたのだ。虫喰いだらけの紙箱を見て気がつくべきだった。

 シバンムシと紙箱および高級素麺は何重にも、何重にしたのか覚えていないほど厳重にして、可燃ゴミになった。

 即台所を封鎖、といっても窓やドアを閉めただけだが、薬を焚いたのは言うまでもない。

 シバンムシに薬剤耐性がつくのは当然だ。


 昆虫学者、村松加奈さんがシバンムシの木食性と紙食性の交雑種を特定した。

 交雑種は薬剤耐性を持ち繁殖力までも強い。やはり茶色い小さい甲虫である。見た目での判断は難しい。

 すわ! と文化財級の木造建築物には速やかに防虫対策を施し、シバンムシに喰われそうな紙類、布類、木類などの文化財は最新の防壁を持つ収蔵庫に、とりあえず移動した。


 南舟記念博物館収蔵庫にも、資料でしか見たことのないギョッとするような国宝が眠っている。


 ただ儘心堂のように、古い家屋や店舗の片隅に、奇跡的に眠っているかもしれない古い古い本や巻物たちは情報がなければ眼が届かないし、手を差しのべることもできない。

「とにかく地元だけでも調査しましょうよ」

 という叶さんの言葉は、佐竹さんが多言語で発信した。

 反応は素早く、救出できた物もあったが、思っていた以上に後手後手だった。

 すでに原型を留めていない物も多かった。

 第二次世界大戦後の書物は古本扱いになっていて保護養生されず、シバンムシとの最前線に置かれていたという痛々しさだった。

 データ化されていないものも多く、市井の人々からの寄贈を頼りにするしかなかった。

 協力を発信したら素早い反応があり、「みなさん」という心強い協力を得ることができた。ほかっておいたらシバンムシに喰われてしまったかもしれない書物も集めることができたのだ。


 南舟記念博物館は第一環状線の西側を道一本入ったところにある。

 途中にあるパン屋「くらら」は、朝七時半からサンドイッチやコッペパンに具をはさんだ朝食昼食用の調理パンを出している。焼きそば、ソーセージ、ホテトサラダ、ふっくら卵焼きなど、いつも迷うしかない。

 今朝は朝食用にBLTサンドイッチと二〇〇ミリリットルの牛乳パック、軟水のパウチパックを買った。

 朝の、まだそれほど暑くない公園のベンチにすわって、のんびり食べてから出勤するつもりでいる。そのための朝の余裕だ。

 Sサイズのエコバッグに入れて、「ありがとうございます。いってらっしゃい」「いってきまーす」と言葉を交わして店の外にでた。

 店内の冷房が外の風を蒸し暑く感じさせる。

 歩道に爆走自転車がいないのを確認して歩きだす。ふっと気配のようなものを感じて顔を上げた。

 片側三車線の環状線の向こう側の歩道に、わたしを見ている男がいる。

 わたしは気がつかないフリをして、博物館とは反対方向へ歩き、二区画向こうの交差点を西へ曲がった。

 高見塔也だ。

 そっちを見るな。振り向くな。普通に、急ぐ朝の雰囲気で歩け。

 汗だくになりながら、うんと遠回りをした。冷静に仕事に遅刻しないよう時間を考えながら。

 大回りをして、博物館裏のどんぐり広場のベンチに腰かけた。虫除けスプレーを盛大にまく。蚊取りドローンが稼働するのは午後からだ。

 小さい広場の真ん中に、太い幹のクロガネモチがドンと立っている。このクロガネモチを残しておくために、どんぐり広場にしたかのようだ。

 町内の有志が草花を丹精していて、夏の花々がひっそり咲いている。

 グビグビと水を飲み、サンドイッチを一口食べて、母に電話する。

 電話をしながら通行人を見る。もし高見が現れても、反対側の隙間から逃げればいい。出入り口でもないフェンスとフェンスの隙間で、横歩きでなければ通れないし、民家の間を通るので、いざとなったら大声を出せばなんとかなる。なにしろこの広場には四機の防犯カメラが見張りについているのだから。


 高校生のとき、よく両親に「嫌いなヤツ」として高見塔也の話をした。

「高見がそっちに行ったのか? 大丈夫か、織羽」

 父がさっそく母のスマホを奪って話しだした。スピーカーになってるから、二人いっしょに話せるよ。

「わかっとる。織羽の電話番号も住所も誰にも教えとらん。イエデンはいっつも留守電だし。気をつけろよ。こっちもちゃんと気をつけとるで」

 すこし肩の力が抜けた。牛乳を飲んで、ごみの始末をしながら職場へ向かう。

 高見はいない。

 高見が見えるところにいるのは怖いが、姿が見えないのも怖い。どうして怖いのか、うすうすわかっている。

 大人になり、いろいろな人と出会ううちに、高見は人を殺せる人間だと思うようになった。高校生のときは、その部分をうまく言語化できなかったのだ。


 博物館の職員トイレで汗拭きシートで汗を拭き、制汗スプレーで仕上げる。

 眼を閉じて、仕事モードへの切り替えを自分に言い聞かせる。

 

「天野くん」

 谷垣所長が、ぞっとするほど優しくわたしを呼んだ。

「内密の話なんだがね」と佐竹さんや叶さんにも聞こえる声で言う。

 今日は立川市から文化財保護管理の専門班六人が来訪していて、部屋にコーヒーの香りが満ちている。


 収蔵物保全管理課の事務的作業部屋は本館の片隅にある。

 谷垣所長が不要になった机や椅子の気に入ったものを運びこむので、ゴチャゴチャと倉庫のようでもある。

 そのせいか居心地はよくて、他部職員のコーヒーメーカーや急須、ティーポットがなどが並んでいる。さいわい給湯室と職員トイレも近い。

 谷垣所長以下保全管理課メンバーはそれらを遠慮なく使っていて、付属のお菓子もいただいている。ということもあって、他部職員の方々も遠慮なくランチや休憩に訪れている。

 ちょうど展示フロアの優香さんと毱奈さんが、午後の休憩にきていた。

 そこで「内密の話」となれば、みんなの聞く耳はピンと立つ。


「天野くんは九月から宇宙空間職能訓練開発公社へ出向です。一年間、宇宙空間勤務の訓練を受けてもらうよ」


 耳が聞いた内容を理解するのに五秒はかかった。理解と同時にわたしの頭には「辞退」しかない。

「でもまだシバンムシの防疫を……」

「佐竹さんと叶さんがなんとかします。それにあちこちの大学生がボランティアで動いてくれているでしょ。実務と研究を兼ねている学生もいるから意欲的で活発だしね。それより軌道収蔵庫の始動を急がなければいけないんだよ」

 軌道収蔵庫? 何ですか、それ……という疑問が表層思考を素早く通過していった。

「でも、なぜわたしですか? 宇宙勤務なら志願する人がたくさんいると思います」

「まず美術的な知識が必要だ。基礎知識だけでなく展開力が必要かつ絶対条件になる。それプラス、予兆を見分けられる勘を持ち、いざとなったらすべて背負って爆死できる胆力、それも含めて宇宙空間で働ける適正がいるんだよ。天野さんは両方備えてる」

「わたしは宇宙活動の適性検査は受けていません。それに、爆死できる胆力ってどういう意味ですか?」

「インターンのときに適正はしっかり確認してるから、安心しなさい。爆死はものの例えだよ。たんなる例え」

 なんとなく……不安……

 優香さんと毱奈さんが「爆死」をスルーして、「いいなあ」「うらやましい」とマカロンをもぐもぐしながらわたしを見る。

 佐竹さんと叶さんと六人の専門班も、堂々と「内密の話」に耳を傾けているようだ。

 わたしは口を閉じて窓を見た。


 二十一世紀を記念して中庭に植えられたトネリコの木が風に揺れている。トネリコは白い花の季節が終わり、薄い緑色の種を花のように見せていた。

 谷垣所長の精神の核は収蔵庫に納められている美術品であり、芸術品であり、長い歴史を経てきた無二の品々を護ることだ。

 命をかけて。

 わたしは谷垣所長を敬愛し尊敬している。物腰が柔らかく優しく暖かい。そして冷静で冷徹だ。

 仕事に対する部下の姿勢を厳しく見ていて要求は高い。

 谷垣所長に指名されたわたしは胸を張っていい。誇りに思っていい。

 ただし返事は「はい」しかない。「いいえ」なら収蔵庫保全管理課から移動になるだろう。

 一年間の出向は南舟記念博物館のわたしの不在が一年間ということ。一年後に戻れたとして、収蔵庫保全管理課は別の空気になっている。とうぜん誰かがわたしの不在を埋めている。

「はい」でも「いいえ」でも結果は同じ。

 わたしと並んで、谷垣所長も裏庭のトネリコを見ていた。

「少し考える時間をいただけますか?」

 所長がわたしの眼を見た。

「ほかの者にはそうする。だが、天野くん以外の者にこの出向の話をすることはない。

 天野くんに考える時間は必要ないだろ。たった今のきみの決断と、明日以降の決断は同じだよ。ブレないしズレない。それが天野織羽だ」

 え? どういう意味ですか? わたしはトネリコを睨みつけていた。

 強い風が吹いてきて、トネリコが大きく揺れた。数秒後には、またさわさわと気持のいい揺れかたに戻る。

 谷垣所長も風に揺れるトネリコを見ている。

「はい。行かせていただきます。よろしくお願いします」

 わたしはきっちりお辞儀をした。

「頼んだよ。よろしく頼む」

 谷垣所長は頭を下げ、わたしの眼をしっかりと見つめ、うなずいた。

「ところで軌道収蔵庫ってなんですか?」

「地球軌道上の収蔵庫」

 はぁ……? 

「天野さん、マカロン食べる?」

 優香さんが呼んだ。優香さんと並んで紅茶を飲んでいる毱奈さんが、見せびらかすように親指と人差し指でつまんでイチゴ色のマカロンを振る。

「もちろんいただきます。紅茶もお願いします」

 いまはさっさと気分転換して今日の仕事を続けよう。

 優香さんと毱奈さんは、タイミングを見計らってわたしの気を逸らせるようにと、谷垣所長の仕込みではないかという気がよぎった。

 そして六人の専門班は、軌道収蔵庫の任に着く天野織羽を確認しにきた……。   

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