伝えたいこと、伝えられること

 秋葉原では掘り出し物以外見つからず、週末に草むしりをさせられ、傷心し、今は東村山に向かう道中のバスでコイツを書いている。

 桃鉄USAは両親がやっていて、私も見るのを楽しみにしていた思い出のゲームだが、思い出以上に笑ってしまうところがある。ハリウッドの映画企画。アレは名作映画のパロディなのだが、どこか気の抜けたパクり方をしているせいか、私は今でも思い出し、見かける度に笑ってしまう。

 やれ、「マルハゲドン」やら「13日の給料日」に、「シックス扇子」といったものもあった。これらの映画は、元ネタとは内容も大きくかけ離れている(ギャグだからなあ仕方ない)。

 まあ、それはさておき一つ気になったことがある。映画というものが「娯楽」と捉えられていることが無性に引っかかって仕方ないのだ。

 学校などでビデオ教材として使われたり、教育の一環として見る映画もあるので「娯楽」とひとくくりにすることはできない気がしている。だのに、大部分が娯楽だからといって、映画をただの娯楽として捉えていいのだろうか。

 人が伝えられることには限界があるし、伝えられる手段にも限界はあるだろう。語っているだけで伝えられることの数など下から数えた方が早い。

 時間はかかるし、製作者の質にも左右されるが映画なら人の心に響く。心に残る。絵や小説だけでは伝えられない部分だってあるのだから、伝える媒体としてこれ以上のものはないだろう。

 フィクションであれ、ノンフィクションであれ魂のこもった作品は見た者に伝わっていく。ほんの一時だけでなく、その後も親から子へ、子から孫へと伝播していくのだ。

 まあ、そうなるのは一握りだし大半は歴史に埋もれてオシマイなのだが。

 しかし、世の中の人たちは映画のことを(先にも述べたように)ただの娯楽として扱っている。確かに直接的に人の生き死にには関わらないとはいえ、この映画で生きる気力を取り戻したとか、この映画の主人公みたいに生きようと思ったとかいう話があってもいいだろうと思う。

 いわば人生というアルバムの一ページを彩る為に、映画は在るのだと思う。楽しかった思い出に花を添える為に。人生のオマケとして。

 そんなことを言っている私だが、実はあまり映画館に行ったことはない。住んでいるところにも映画館は一つだけあるが、金欠なのもありあまり映画とは縁がない人間なのだ。

 それでもこの疑問を読者の方々と共有できるといいな、そう感じている(ちなみに、最近知ったが特殊メイクが学べる美容専門学校があるんだってな)。

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