壁がだんだん薄くなっていく

 未だに風呂が直らないこともあり(一応、アテはあるようだが)、私は今も銭湯と祖母の家に通っている。理由は半導体が不足しているからであるが、意外だと思ったのは、コレがある意味私たちの周りだけに留まらないということだった。そう、PS5が品薄であることとも関係があるのだ。しかも世界的に起こっているという。この調子だと、私には(想像が)及びもつかない理由で苦しんでいる人も、中にはいるのではないか。そう感じた。

 祖母から聞いた話に、「方言のせいで全く何を言っているのか分からず、どうやってコミュニケーションを取ればいいか分からなくなった」というのがあった。何せ岩手と九州である。訛りがキツいと、別世界としか言いようがなくなるのだ(筆談じゃダメなのか?とも思うが)。まだ標準語なんてものはなく、侍がその辺を歩き、京都が華やかで、将軍が世を支配していた時の話である。

 それが、令和の世(厳密には平成あたり)では、当たり前のように標準語で話す人が増えているし、それ以前に、インターネットで世界中と取引出来るし、日々沢山のもの(食糧自給率がヤバい理由の一端は恐らくコレ)が輸入されている。つまり、世界中がフラットになりつつあるということだ。

 昔ながらの街が未だに残る京都でさえ、現代化やグローバル化の波には抗えないことはコンビニやカフェ、ゲームセンターにショッピングモールがあることからも分かる(が、後輩が秋葉原に来て漸く「特別なところではない」と思えるようになった)。制服だってブレザーだし、和歌などで詠まれる嵐山にも普通の学校がある(タブレットを使った授業があるくらいには現代的)。ホテルにはテレビがある(そこまで沢山のチャンネルはない)し、ゲーム機(PS4くらいまでなら普通にいそう)だってあるだろう。そこに訛りはあれど、完璧に方言を使っている人はいなかった。ということは言葉までグローバル化しているのだろうか。

 街中で見かける言語は大体日本語、英語、中国語が殆どで、フランス語やロシア語、ドイツ語などはあまり見かけない。スワヒリ語など見かけたことすらない。大体のことはそれで解決するからだろうか。にもかかわらず、英語以外の言語を学ぶ人が多いのは何故なのだろう。

 グローバル化は世界を広げてくれる(少なくとも、警戒心は緩む)一方、いいことばかりではないような気もする。読者のみなさんはどう思うのか、意見を聞かせていただきたい。

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