盲信に鉄槌を、自由に祝福を

 私は女神転生というどことなく不気味なゲームが好きなのだが、その理由の一つが「善も悪もない」というものである。普通の(ドラクエとか)は善悪の区別があり、更にはその基準がある。大体は人間から見た場合の話であり、相手の理由は考えてくれない。それが負の方向に働くと、一方的な迫害になる可能性もあり得るのだが、物語の悪役という者は一つの方向にしか見られない(近年は違うようだが、それでもあまり変わらないように見える)。

 中世ヨーロッパでは、当たり前のようにキリスト教が信じられていた。誰も彼もが盲信レベルで信じていたから、其処に新たな疑問や思想など生まれる余地もなく。逆らう者は刑に処されるくらい教会の力は強かった。例え腐敗していようとも糾弾したら異端者として扱われる、そんな窮屈な世の中。

 近世になってから、この世界における正義やら倫理の在り方に、斜め上の方向から問いかける人物が現れた。俗にサド侯爵と呼ばれる人物である。彼の生い立ちは決して幸福なものではなく、それどころか時代の先をある意味で駆けていった、当時としては狂人扱いされても仕方ない人だった。けれども、彼が著した小説は時代を超えて読み継がれ、その思想は今日まで語り継がれている。

 私から見たら、世界というものはほんの少しの喜びと沢山の暴力、怒り、声、形、光からなるもので、目に入るものの殆どが意味のないものに思えた。誰が善でも悪でも私には関係のないことで、一方通行のお話は読みたくなかった。だから元カレの小説は胸糞悪くなってしまって、そのうち自分だけの世界に潜り込みたくなった。

 そこには私が望んだ世界が広がっていて、私が不愉快になることは何もない。全て私の思い通りだから、隅から隅まで作り込める。

 一方通行の解釈ではなく、鏡のように二面での解釈でもない。生けるもの全てに感情はあり、それが行動と共に複雑に絡み合った結果こそが物語なのだと思うのだ。自由過ぎる物語は、確かに解釈が分かれるし、アンチだって出るだろう。それは決してマイナスの結果だけを生み出すものではないと、私は信じている。

 どんな形であれ、私自身pixivでも小説を書いているが、これも実験の一つとして捉えている。沢山の資料を掻き集め、相方にも協力してもらって作った作品には楽しさと狂喜と怒りが含まれているから。

 その意図には気付かず、あくまでも一つの物語として楽しむのが一番の楽しみ方ではあるが。

 まあ、何が言いたいかというと、「皆様考察お待ちしております」ということである。

 

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る