褒められたとしても出来ないこと

 Twitterを始めてからというもの、私が見る世界は明らかに広がりつつあった(それでも興味のある人は限られている)。相方と呼べる人にも会えたので、Twitterを始めて良かったと思う一方で、どうしても追いつけない人がいる。彼にはどうやっても追いつけない理由は明白だが、いつか徹底的に叩きのめすという目標が出来た(母と同じくらい安心できないタイプだったのもある)。そんな彼に欠けていて(尤も、「電撃とかメディアファクトリー文庫になりそう」という言葉を信じるなら、前から実力は認めていたとも言えるが)、私には(面倒臭がりつつも)出来ることが一つある。

 それは「リアリティのある小説を書くこと」。相方曰く「生々しい」らしく、私としてはソレが嫌だった。裏を返せば、現実感のある(難しい用語などがある、ガッチガチのファンタジーなどは無理)物語以外書けないということでもあるから。その上、コレが原因で二次創作は壊滅的。駄サイクルから脱却出来る力があっても、求めているものと噛み合わないのはとても辛いことだった。

 私は、幼い頃から空想を描くのが大好きだった。絵にはソレが現れていたから、将来は絵を描く仕事に就きたいと思っていたが、画力が(不器用なのもあり)そこまでなかったのだ。その代わりなのか、私には小説や詩を書く力がいつの間にか備わっていた。正確には少しの間だけ師事した人物がいるので違うのだが。兎にも角にも、高校生の時から少しずつ何かが外れていき、小説などがマトモに書けるようになった気がする。

 昨日寝ぼけ眼で事務所に行った時のこと。雑談のつもりで相方から言われたことを話したら、上司が「生々しいって、小説で⁇すごいね!それは誇っていいんじゃないかな。だって、それだけリアルに感じられるんだからさ」と褒めてくれた。ソレは有り難いし寧ろ嬉しいのだが、私にはこの「生々しい」表現は要らないし、それよりも別のことが出来るようになりたい。

 しかし、上司にも出来ないことは確かにあるようで、聞けば「学校の勉強はあまり出来なかった」という。それでもこうして市の人間として働けて、私にとっては雲の上の人にしか見えない。普通に働くということが出来ない私にとっては、普通に生きられるというだけで立派だと思うのだ。

 上司曰く、世の中にはdoとcanがあり(notがつく場合も同じ)、その二つは必ずしもイコールでは結ばれないという。することと出来ることは違うから、例え苦手でもソレをする必要が出てくるのだ。

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