人生の成功条件

私は小さい頃から我慢が出来ず(こればかりは感覚の問題もあるのだが)、楽しいことには一直線だった。友達が多かろうが少なかろうが、楽しいことに(一緒にいて)楽しい人、楽しい時間さえ過ごせれば少しくらい嫌なことがあってもへっちゃらだと思うからだ。寧ろ、毎日楽しければいつも笑顔でいられるから、それに越したことはない。

 しかし、小さい頃から過酷な環境に置かれている人というのは、多かれ少なかれ「人生は苦しいものだ」と思っている節があるようである。楽しい世界を少しの苦しみと引き換えに維持(もしくは昇華)している私には分からないが。というか、私自身もどこかで苦しんでいる節はあり(表に出したくないだけ)、結局皆同じなのだろうと思う。程度に差があるだけで。

 過酷な環境に置かれている人(全てではないが)というのは、何か(特に厄介な宗教など)に縋りがちであり、幻想を夢見ている。ないと分かっていたとしても、それに縋りつこうとする様は見ていて滑稽ではある。永久というものの恐ろしさを知らないのだろうか。

 永久という概念は苦痛と紙一重であり、望んではいけないものであると私は考える(気づいたのは立川でポップンやろうとして、間違えて電子マネーにチャージした時)。不老不死は本当に人類にとって幸せなことなのだろうか。不老はまだしも、不死は苦痛だと今なら分かる。

 にもかかわらず、世の人は「永久」という妄執に囚われ、「限界」が来たとしても因習を続けるという悪循環。フィクションならまだしも、古くて嫌な風習は現実でもあるから笑えない。ソレを伝統だ何だと言っている連中は思考停止しているのではないだろうか。

 私の母方の親戚はかつてパン屋を営んでいたと聞いたことがあるのだが、跡継ぎとなる筈の子供達は皆出て行き、やがて店じまいをすることになったそうだ。曰く、「限界を感じたから」らしいが、底意地の悪い奴はこんな状態になっても、あの手この手を使って存続させていくというのがお約束である。限界を感じたならば、その時点で即座に捨てろと言いたいが、容易に捨てることは出来ない。今の今まで連綿と積み上げてきたものだからだろう。

 そういう意味で、人生はジェンガやつみきと同じものなんだろうな、と思う。積んでは崩し、積んでは崩し。これを根本的に楽しめるかどうかにかかっている。もちろん、遊び方が傍道に逸れてもいい(現に小さい頃やりました)。人は自分の思い通りに動かないことが常だからであり、そのランダム性を楽しむのが人生というゲームだからである。

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