「かわいそう」は差別の源か?

 さまざまなモノ(大体アニメイトとかで売っているアニメグッズ)を求めて、沢山のブックオフや中古屋、アニメショップを巡ってきた私だが、行く途中で電車に乗ることがままある。その時、色々な人を見かけることがあるのだが、私には普通の人としか映らない。車椅子に乗っている人、ヘルプマークを付けている人、松葉杖の人。街を歩いていても同じように、色々な人がいる。意図せず目に入れることも少なくはなく、困っていたら助けるよう努めていた。私自身は、彼らに「かわいそう」という感情は特別抱かず、ただの通行人として見ていた。

 最近知った言葉に「感動ポルノ」がある。清く正しい障がい者が努力をしている姿を見せるリアリティショーのようなその様が、視聴者たちに感動を呼び起こしているという。しかし、その場合「分かりやすさ」を重視しているのか、精神障がい者や発達障がい者は殆ど話題に上がることがない(発達障がいそのものの研究は近年になってからで、まだ完全ともいえないので仕方ない面はあるかもしれない)。また、障がい者の姿はカメラが捉えたその一面だけというのもあり(絶対悪の概念に近いかもしれない)、視聴者が抱く印象も固定される。もしかしたらそこが気に入らないという人もいるのかもしれない。

 けれども、傲慢というのは時に慈悲ともなりうるもので、障がい者にとっては自分のメッセージを伝えるチャンスになる。が、コレが作用することはあるのだろうか。やはり、混沌としたあのサーカスのようなものなのだろうか。

 私から見た彼らの姿は本当に普通の人で、中には家庭を持っている人もいる(心の中では割とツッコミまくり)。せいぜい必要な時に手を貸す程度で、それ以外は「ふーん」といった感じである。だから特別可哀想だとは思わないし、それどころか分野によっては「すごーい」と思うことさえある(私から見た他人というのは大体そんなものだが)。

 何故ここまで障がい者というだけで差別する人がいるのか。それは「出来て当たり前のこと」が出来ないからというのもあるのだろう。母が言うには、「当たり前」の基準は年々上がっているらしく、私にはとても追いつけない。生まれつき出来ないことが多いから、人々は憐れむのだろう。出来ないところを見るより、出来るところを見てほしいというのが、私の持論だ。

 改めて思えば健常者の基準も私自身よく分かっていない。というのも、周りの人は皆どこかしら変わった部分があるからだ。だからこそ友達になれる、とも言えるのだが。

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