鎖国しながら生きている

 私は今の今まで混沌とした精神(割と素直)を保ち続けてきたが、それが出来たのは周辺にいい人が沢山いたからだと思っている。暇な時はよく児童館に遊びに行ったし、今はよく欲しいものの為にどこか(大体都内)へ遊びに行っている。近所で打ち解けられる人は少ないものの、その分他所で友達を作っていることが多かった(今では好きなゲームを通じて出来た友達もいる)。というか、学校まで歩いて十五分の時点でもう分かると思っている。

 児童館(家から歩いて八分)には、隣の駅など遠くから来ている子もいたが、私は主に歳上のお兄さんや職員さんとお話していたり、絵を描いていたりした。それが大学に上がるまでの私の日々。

 しかし、世の中には「鎖国」をしながら生きている人もいる。全てではない(親友もマンションに住んでいるが、児童館に来ていた時点で鎖国はしていない)が、マンションや団地に住む人は近所付き合いが希薄で視野が狭く感じられないだろうか。ステレオタイプな例として、例えばタワマンでいうとママ友同士のマウンティング。低層階に住む人に、高層階に住む(金持ちが多い)人が自慢したり貶したりするパターンが多い。ついでに、高層階に住む人の子も親と同じ心根の持ち主である場合が多く、厄介な具合に暗黙の了解というものがはたらいてしまう。

 現代人というのは、「鎖国」をしやすい環境に生きていると思う。私もそうだが、限られた人としか付き合って行けず、結果的に孤独感を味わう例が最近特に増えている。同時に、閉塞的な環境で育った人間ほど「鎖国」をしやすい。自分が住んでいる世界しか知らないから。数多の考えに染まることなく、故郷(大体田舎が多い。東京なら場所にもよるが沢山の考えに染まれる)の考えにしか染まれないというのは不幸なことである。まるで思春期における「学校と家だけが自分の住んでる世界」のようで、勿体ない気がする。

 インターネットで誰かと繋がれるならまだマシだが、そこでも同じような考えの持ち主だけで交流するのはアリなのだろうか。お互い好きなこと、好きなもので繋がっているのだから、「鎖国」してしまうのは勿体無い。私のことが嫌いな人は確かにいる。それ以上に私が好きな人もいる。だから私は孤独ではない。ならばアンチも大丈夫だろう、支えてくれる人は確かにいると感じられるから。それにアンチは普通のことだから、いない方がおかしいとも考えている。違う考え方の人でも分かり合えるのだから(一応)、放棄はしない方が身になるだろう。

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