贅沢をするということ

 しばしば、「贅沢」という言葉が私達の会話で出てくるが、そもそも贅沢とはなんなのだろうか。金持ちにとっては当たり前のことだろうか。「たまの贅沢だ」という言葉が出てくる時もある。私にとって、贅沢というのは理解しづらい領域で、人によっては大したことないように思える。どんなことでも「贅沢」という言葉に当てはめしまえば、行動は制限されるし生きていて楽しいとは思えないからだ。

 ハンガリーの貴族であったエリザベート・バートリが美容の為に家畜の血(実際は人間の女性の血)を浴槽で毎日浴びていたのは有名な話だが、家畜……とりわけ豚の血はヨーロッパ各国において重要な食料の一つである。というのも、屠殺した際に肉だけでなく血ですらもソーセージにして食べる(あんまり水分が多いので、ちゃんと小麦粉とかを絡めないと食べられないようだ。鼻血の味らしい)習慣があるのだ。彼女が血を浴びるのが贅沢扱いされていたのもこのことに起因する。

 例えるなら、塩やハチミツをスキンケアに使うようなものである。今でこそ普通に手に入るこの二つも、大昔は(特に塩)貴重なもので手に入らない地域では結果としてゲテモノ料理が生まれたほどだった(富裕層が使う塩をそういう地域に分ければ良かったのに……とも思う)。手に入る数は有限であるから、大切に使わなければならない。大多数の人間は貴族ではないから、こういったことに反感を覚える。

 贅沢が日常化すると、有り難みは薄れてしまうのが常である。それこそお金が無くなって一度どん底に落ちるまで。その時人は漸くそれまでの日常がどんなに恵まれたものなのかを実感し、「あの時ああしておけば良かった」と悔やむ(死んでも治らないような輩もいるだろうが、大多数はそうであると信じている)。ハレの日がケの日になるのは虚しいことで、たまにあるから楽しいのだ。

 そんな中でも、初心忘るべからずというべきか凄い考え方もある。「贅沢とは一流のものを最後まで使い切ること」。この考えを学んだ時、私は「なるほど」と思った。もったいない精神は贅沢をする上でも大事なのだ、と(生きる上ではこれがないといずれ跳ね返ってくるのではないかとヒヤヒヤしている、というのもあるが)。それでもまだまだ恵まれてはいない、と考えている自分がどこかにいることは確実で、未だにもっともっとと求めている。

 上を際限なく求めると思った以上に動けなくなるのも困るが、かといってそのままでいいと思うのも考えもの。うーむ、難しい。

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