結局廻り道には意味がない

 かれこれ長い間、私は「七つの大罪」というものを「ダサいもの」として捉えていたのもあり、真剣に考えようとは思わなかった。しかし、今年の四月一日、要するにエイプリルフールの日に私の運命を僅かに変える出来事が起きたのだ。それは、ごちうさのポータルページが「七つの大罪」をモチーフにしたものに丸ごと置き換わっていたというものである。少女達は七つの大罪の名をミドルネームとし、「罪うさぎ」と名乗っていた。なんと可愛らしいのだろう、気に入った子を見つけて画像を保存した私は、スクリーンの前でニコニコと眉を細める。同時に、今まで「七つの大罪」を知ろうとしなかったことを後悔した。

 よく使われているモチーフほど私は深く追わない傾向があるが、全ては自分の世界を人と違う方向に広げる為。誰かと同じになることを内心では恐れているからなのかもしれない。寧ろ、独自路線を追い求めることの方が得意だ。これもまた罪なのだろうか。だとしたら、私は。

 「七つの大罪」をダサいと思った理由は、漫画などでよく使われているからというだけではなく、安易に使うとチープに見えるからというのもある。二次創作で使いまくるとやたら恐ろしいことになるし、何よりセンスがないと見做されるだろう(実際そういうことになった例を見たことがある)。

 しかしまあ、これはもの凄く些細な疑問なのだが何故この世には「七つの大罪」というものが存在するのだろうか。人間は欲に従って生きる生き物だから、そんなものがあったとしても意味がないと思うのだが。何より、神さまなどゲームや漫画、アニメにしかいないのだから信じる方が馬鹿馬鹿しいとも思ってしまう。そんなことよりも世の中を廻って悟りを開いた方が有意義だとも感じる。沢山のことを知るうちに世の中の真の姿が見えてくるから。宗教というのは麻薬であり、幻惑だと感じる理由もそこにある。そこにあるものが全てであり、それ以外は何もないのに。

 理性があったとしても、結局のところ欲には勝てないと私は思う。だったら、少しでも欲を発散できるような環境を整えなくては、この世界で生きることはできない。その上で悟りを開けたのなら万々歳である。

 とはいえ、私の世界も結局は自分を麻痺させる為の宗教ではあるのかもしれない。縋り付く為のものという意味では同じだから。違うとしたら、人数や効果があるか。それと内容だろうか。沢山の知識の上に成り立つ以上、自分の世界というものは宗教ほど単純ではないのだが。

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