詩人への道のりは未だ遠く

 世の中の作家は大体にして、パソコンで小説を書くのがデフォルトのようで、私のように紙のノートに小説を書く者は珍しいようだ(未だにアナログな方法を取らざるを得ない理由は、私のこだわりもある)。本来ならデータとしてスッキリまとまる筈のそれら全ては、沢山の色ペンで彩られているところも含めて、机の上に積み重なっていく(色ペンで書くものは殆どが設定の補足や、和訳)。そうして、一冊二冊のノートの中には黒歴史にも等しいものがどんどん書き込まれていくのだ。たまにだが、私のノートには詩(もしくはその原案)が書かれている。わざと難解にしてある(ものによってはさほど難しいものでもない)が、たまに意味を考察してくれる人もいるのは有り難い。

 格言の引用はほぼしないし、したくないという本音がある。その代わり、深い意味が潜む曲の歌詞をイメージすることが多い。格言をそのまま使うのは気が引けるのと、風情があまりにも無さすぎて無粋だと感じるからだ。この方法は珍しいと言われるが、私には自分に合った方法を使ったに過ぎない。

 世の中には、詩の元となる情報や出来事が沢山あると私は思う。何故それに気づかない人が多いのか、不思議なくらいだ。韻を踏むことは昔から得意な一方、今は歯止めが効かないところまで来ている。難しい言葉が大好きな上、うわついたものを許さないからか、擬音語を滅多に使わないからだ。沢山の知識を得るたびに、私は戻ることから外れていく。タガが外れる、とも。更なる美しさを求めているからこそ、己のタガを外すことは必要なことなのだが、どんどん成長していくというよりかは寧ろ、捻れていっていると形容した方が正しいのかもしれない。

 世の中、詩を書こうと考える人は少ないらしい。私には少なくともそう見えた。探せば沢山いるのかもしれないが、大多数の人は何故か私を異端視するし、時には羨望の眼差しを向けてくる。私自身、美しい日本語が使いたいこともあり、今度は古語で詩や文章を書きたいのだが、そこまでに至るまでにはまだ勉強不足である(仮にそんな文章を書いたら森鴎外みたいな感じになる可能性もあるし)。少ない言葉で伝えられる詩は、私としては便利だと思うのだが。何故理解できないのだろうか、と常々思う。ゲームを(人のこと言えないけど)しているより遥かに楽しいのに。ボーっとテレビを見ているより有意義なのに。理解者が少ないのは悲しい。小説の方が書きやすいからか、巷には沢山溢れている。それでも私は詩を書こうと考える。沢山の想いを詰め込んだ、この世界をみんなに見てもらいたいから。

 

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