信じられるなら

 最近ずっと思うのは、ネットサーフィンしているときに漫画やゲームの広告が流れてくる……のはいいが、その中に結構な割合で「なろう系」が入っているのでそれが不愉快だ、ということである(私自身が異世界転生というモノを信じず、あるゲームの曲に傾倒しているというのも理由の一つ。ちなみに私はこの曲を20回以上フルコンボしている)。それ以外にも、母のタブレットにあるマンガアプリを見ると、ちらほらと「なろう系」がプッシュされているのだ。既存の作品が「なろう系」に押されてしまうのは、私としても残念だと思う。そして、それ以前に呆れている。頭が悪い人が書いたのか、と思えるような作品があまりにも多いのだ。無論、全てではなく中には読み応えのある作品もある。しかし、「ユニークスキル」だの、「ハーレム展開」だのというものが私には理解出来ない。別に転生してスライムになるのはいいし、主人公が死んで時間が巻き戻ろうがどうでもいいのだが、あまりにも作者の嗜好が見え見えなのもあり興醒めである。まるで、「今生きている世界はクソで自分は何の役にも立たないから、充実している世界に行きたい」とでも言うかのように。

 私から見れば、「安息の地などないし、それは自分で手に入れるモノだ。人生は常に苦しみを味わうものだから、救いを求めるだけ無駄」と思うのだが(かくいう私も、リアルには幻滅しているが)。物語の中では救われて欲しい、というキャラクターがいるのは分かる。私もそうだから。だが、あまりにもチープが過ぎる設定は読者が離れていきかねない。驕るつもりは一切ないが、言わせて欲しいのだ。

 思うに、小説に限らず何かを作る人に足りないモノを、大多数の人は自覚していないような気がするのだ。知識と知恵、センスである。知識は言わずもがな。寧ろコレがないといい作品が作れない、と昔からよく叔母に言われていたのもあり、私は知識を今でもどんどん増やしている。気になることは徹底的に調べあげ、組み込んでいく。オリジナル作品は私にとって、出涸らしレベル(執着する必要なし)の代物だから縛りがあるとはいえ、分かりやすくなっている。寧ろ本命は二次創作の筈なのだが、こちらは態と難解にしているのもありウケにくい。ちなみにオリジナルにも、ルールそのものは適用されているので、変わらずに私の世界を楽しめるだろう。

 知恵やセンスは、物語の文章そのものに影響する。気づかない人は多いが、くどい文章を載せても世界を作ることはできない。限られた言葉の中で、世界を作るのが創作なのだから。

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