可能性を壊すなら

 物語というものは大抵作者が作った筋書き通りに進むのだが、王道の話ほど先が読めるのもあってチープになりやすい。ある程度話のテンプレが出来ていると、センスなどがない限りは飽きられてしまうことがある、というのは世間一般の流行(淘汰)のメカニズムだが、私が王道を嫌うのはもう一つ理由がある。というのも、登場人物に感情移入してしまいやすいからだ。悪役が悪らしい程に、その傾向は強まるからか救いを望んでしまう。だからこそ私は謎を謎で塗り固めた作品や考えさせられる作品を好んでいる。出来れば私の想像の斜め上を行って欲しい。が、そんな作品には中々出会えない。

 今の世の中はわかりやすさが重視されているというのもあるが、分かりにくい作品は売れにくいとされている。それ以外に何か特色がないなら尚更。アメリカなどではある程度そんな芸術作品が受け入れられる土壌があるものの、日本ではまずそれがない。分かる人にしか分からない作品は、長い時間が経ってから漸く受け入れられる。例えるなら、不死の薬と信じられてきた水銀が幾星霜を経て有害なものだと分かるように。あるいは地動説のように。それでも粘り強く作品を発表すれば、いつかは認められると思うが、それが吉か凶かは分からない。

 だからこそ、私は可能性を破壊する作品を作りたいと思う。先が読めない芸術的な作品を。考察を覗き見したいというのもあるが、分かる人以外は分からない作品を作りたいという想いは本物である。とはいえ、どこかで宣伝をかけなければいけないことに変わりはないが。

 私自身、「可能性を破壊する」という考えに至ったのは、ふとした瞬間に「人間はいつでもどこかで可能性を破壊しているのではないか」と思ったからである。それを自覚していないから、レールを通っているような感覚に襲われるのだとも思う。どんでん返しはランダムな瞬間に行われるが、それが日常の中に埋もれてしまうから分からないのだ。人生は誰かの物語ではないが、私の人生は誰かのオマケである。それは揺るがない。

 可能性の破壊は常に常識の外側で行われる。常識を打ち破らなければ、可能性を破壊することさえ困難になるだろう。実験だって、常識だけを辿っていたら何も変わらない。全ては自分の目で見届けることが大事なのだ。そうして納得するパターンを作り、その上で常識を打ち破る。人生はコレの繰り返しだと私は思う。

(また尺が余っちまった。しかしまあ、こう考えるのも楽じゃないんだな、コレが)

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